それは告白のような


 義勇くんの真剣な瞳に、鳩が豆鉄砲を食ったような私の顔が映っていた。
 私、義勇くんにキスされてる。
 脳がそれを認識した時には既に唇の温もりは無くなっており、私をじっと見つめる義勇くんの唇が言葉を紡いでいた。
「名前。…俺が、今度こそ俺が……」
 義勇くんの言葉を最後まで聞く前に、首からかけたストラップの先に吊るされた社内用のスマートフォンがけたたましく鳴り響き、気まずくもどこか甘い空気を容赦なく切り裂いた。
 はっとしてスマートフォンを手に取れば、一階の受付の内線番号が表示されていた。恐らくキャンディさんが会社のエントランスまで到着したのだろう。慌てて通話ボタンをタップすると、受付嬢の事務的な声が耳に流れ込んでくる。
「は、はい。苗字です。…あ、分かりました。今すぐ行きます」
案の定、着信はライターのキャンディさんの到着を知らせるものだった。数秒で通話を終えると慌てて立ち上がる。勢い余って椅子を倒してしまうほど私は動揺していた。
 それは、予定時刻よりも随分早い来客のせいだけでは勿論ない。心臓が早鐘となって胸を突き続ける。
「あ、私、キャンディさんが下に着いたみたいだから迎えに行ってくるね」
 倒れた椅子を元の位置に戻し、義勇くんの返事も聞かずに会議室を後にする。
 なんで。どうして。どうしよう。どうする。囁き声が頭の中を掻き回す。混乱しすぎて足りない頭がパンクしそうだった。どうやってキャンディさんが待つ受付に辿り着いたかも、まるで覚えていないくらいの混乱だ。
「キャンディさん、お待たせいたしました。私、本日お約束をさせていただいております、苗字と申します」
 受付の傍に設置された椅子に腰掛け脚を組み、スマートフォンを操作する女性に駆け寄ると、私はぺこりと頭を下げる。
 今は目の前の仕事に集中しなければ、と気持ちを切り替え挨拶を済ませて顔を上げれば、メディアでも目にする機会の多いキャンディさんの、目も覚めるような整った顔が視界に飛び込んでくる。年齢は私とさほど変わらなかったはずだ。テレビや雑誌で見るよりもずっと小さな顔に思わず息を呑むと、耳を疑う言葉が鼓膜を打った。
「やっと来たの?あなた待たせすぎ。私、忙しいんだけど」 
「…も、申し訳ございません」
 この人、なんでこんなに怒っているの?と疑問符が頭の上に浮かぶ前に私の口からは反射的に謝罪の言葉が飛び出した。
「しかも、営業さんからは担当は若い男性って聞いてたんだけど…もしかして私、騙されたの?」
 キャンディさんは胸の長さまである髪を指にクルクル巻きつけて不機嫌そうに呟いた。
「騙すなんてとんでもございません。一緒に担当させていただく男性社員が上で待機しておりますので。どうぞ、会議室までご案内します」
 本当にこの人が、巷で人気の有名ライターなのかと疑いたくなった。今回一緒に仕事をするにあたり、当然ながら彼女の過去の記事はチェック済みだ。確かに人を惹きつける魅力があり、人気の理由は十分理解出来る。
 しかしこの数分の会話の中で、キャンディさんは「性格に難あり」「男好き」の印象を私に植え付けた。やはりメディアに出るような著名人はお高くとまってしまうものなのだろうか。
 この先一緒に仕事を進めていくことに一抹の不安を覚えながら、私はキャンディさんを義勇くんが待つ会議室へ案内する。こちらに気付いて立ち上がった彼を見て、思い出したように全身を巡る血が熱くなる。だめ。今は仕事に集中しなければ。
「キャンディさん、あちらの奥の席におかけください。あ、この男性社員が先ほど話していた」
「わぁ、営業の子が言ってた通り凄いイケメン!」
 私の言葉を遮って、キャンディさんが興味深そうに義勇くんに視線を這わせる。彼女の瞳が鏡のようにギラギラと輝いたのが分かった。
 義勇くんはキャンディさんの突飛な発言に一瞬目を張ったが、大切なクライエントであるにも関わらず、直ぐに不機嫌そうに眉根を寄せる。確かにキャンディさんは、彼の苦手とするタイプの筆頭かもしれない。
「…義勇くん、顔怖いよ。気持ちは分かるけど」
 私はキャンディさんが席に座ったのを確認すると義勇くんの隣ににじり寄り、肘でこっそりと彼を小突いて小さな声で忠告する。彼は渋面を作って私達にしか聞こえないくらい小さな溜息を吐くも、その後はビジネスライクの義勇くんだった。
「じゃぁ打ち合わせを進めましょうか。まず、退行催眠を実際に受けた感想はどうだったの?」
 仕事モードにスイッチを切り替えたキャンディさんが、自身のパソコンのキーボードを叩きながら私達へと視線を向ける。
「はい。…実際に私も退行催眠を受ける前は半信半疑だったんです。自分の前世が今世に影響しているなんて考えたこともなかったし…。でも、医師の催眠にかかったら、自分が知るはずもない時代の風景や、そこで接した人々との記憶が断片的に脳に流れ込んで来たんです。まるで自分が経験したことみたいに…」
「へぇ、面白いね。それで、苗字さんだっけ?貴方の前世はどんな風だったの?」
「あ…えっと…私の前世はですね…」
 思わず隣の義勇くんを盗み見る。相変わらずの無表情はじっとパソコンの画面を見つめていた。私は気分を落ち着かせるように深呼吸して言葉を続けた。
「私は…自分の両親が営む定食屋で働いていたんです」
「前世の記憶って、そんなにはっきりと分かるものなの?」
 キャンディさんがキーボードを叩く手を止め、首を傾げてこちらを見る。
「はい。かなりクリアに見えたので…私自身も驚きました。…それで、えっと…その…」
 言い出したまま完全に言葉に詰まってしまう。口を閉じたり開いたりしてまごついている私に、キャンディさんの「早くしろ」という鋭い視線が容赦なく突き刺さる。私だって出来ることなら話したい。
 定食屋で恋に落ちた私。好きでもない男性の元に嫁いだ私。愛する人に殺された私。
 しかし、この事実を口にすることは、まるで義勇くんへの熱烈な愛の告白をするような気がして、どうしても躊躇われたのだ。 
「私、忙しいって言ったよね?話すことも纏まってないなんて、やる気あるの?」
 語気を強めてキャンディさんが言い放つ。そんな風に言わなくても、と悲劇のヒロインを気取りたかったが、彼女の言うことも一理あった。ビジネスパーソンとして、予め伝えたいことを纏められていなかった私は「やる気のない女」のレッテルを貼られても仕方がない。
「も、申し訳ございません」
 責められていることよりも、自分の不甲斐なさに目頭が熱くなる。瞼を膨らます涙を溢すまいと必死に下唇を噛み締める。泣いちゃだめなのに。なんで私はこうも泣き虫なのだろう。
「前世の内容を記事にする必要があるのですか?」
 耳に滲んだ義勇くんの声は、天の助けだった。私から視線を移動させたキャンディさんは、眉を可愛らしく八の字に下げて猫なで声をあげる。
「勿論全部を記事にするつもりはないけど、具体的なエピソードがあった方が読者の興味をひくかなぁ」
「それなら、私の話をします。それでは事足りませんか?」
「本当は二人からの話を聞きたいんだけど…まぁ、いいよ。冨岡さんがそういうなら」
 恐らく真っ赤になっていたであろう瞳で隣の義勇くんを見ると、彼は自分の感情を一切排除したように淡々と語り出す。
「私は…鬼を狩っている前世の自分を見ました。それを生業としていたようです」
「鬼?何それ、桃太郎みたいで面白い!定食屋の娘よりそっちの方が断然いい」
 キャンディさんが声を弾ませる。やっぱり私、キャンディさんのこと好きになれない、と心を曇らせた時には、義勇くんの語りが再開されていた。
「自分の短い生涯の中で…愛する女性と出会いました。想いを通わせて幸せな時間も確かにあった。しかし、結局私はその女性を殺していました。彼女が…鬼になってしまったせいです」
 義勇くんの言葉に、引っ込んだ涙が舞い戻り再び瞼の裏を熱くする。やっぱり彼も、私と全く同じ前世を見たのだ。私達は本当に、前世でも恋人同士だったのだろうか?だからこんなにも、胸が苦しくなってしまうのだろうか。
「……話は以上です」
「女性を殺した後のことは覚えてないの?その続きもっと聞きたいのに」
 キャンディさんが拗ねたように唇を窄めたが、閉口した義勇くんを見て諦めたように小さく息を吐く。
「じゃあこれだけ聞かせて。自分の前世を知って、それが今の自分に何かしらの影響を与えてるって思うエピソードはあるの?」
「…それは…あると思っています」
 小さな声だったが義勇くんの感情が込められている気がした。今一度義勇くんにこっそり視線を向ければ、彼もまた流し目で私のことを見つめていた。二人の目がしみじみと再会したような、そんな瞬間だった。
「その話、次回の打ち合わせでもう少し詳しく聞かせて。私、そろそろ次のアポがあるからもう行かないと」
 私の存在など忘れたように、義勇くんにだけ言葉を向けたキャンディさんが、パソコンを仕舞って慌ただしく席を立った。時計に目を走らせるが、タイムリミットまではまだ十分に時間がある。キャンディさんが自由――悪く言えば自分勝手だ――な女性なのだと、この数十分で嫌というほど思い知らされた。
「あ、すぐにお見送りを」
慌てて席を立った私と義勇くんを手で制すと、キャンディさんはテーブルを挟んで向かい側の私達の元までやって来る。誰もが振り返りたくなるような美人が眼前に立ったかと思うと、彼女はそのまま義勇くんの手を引いて、彼にそっと耳打ちした。
「じゃ、そういうことで。またね冨岡さん」
 見送りはいらないから、という言葉を残して光のような早さでキャンディさんは会議室を後にした。不意に耳打ちをくらった義勇くんは、眉間に皺を刻んで何かを考えている様子であった。キャンディさんは義勇くんに何を言ったのだろうか。
「私も居るんだけどね…」
 思わず重い息と一緒に不満が零れ落ちると、義勇くんが隣で笑ったような気配がした。
「…強烈だったな」
「本当だよ。世の中の人はキャンディさんの顔に騙されてる」
「…名前は…大丈夫だったか?」
 義勇くんがいつになくが真剣な顔をしてこちらを見るものだから、私の心臓は再び早鐘を打ち始める。
「う、うん。大丈夫。泣きそうになっちゃって…ごねんね」
「昨日の今日だ。あまり無理はするな。今日は早めに上がれそうなのか?」
 義勇くんの心配そうな視線が注がれる。先ほどのキスを気にしているのは私だけなのではないかと思うほど、義勇くんは冷静だ。それでも、彼が纏う雰囲気がいつもと違うと感じるのは、私の勘違いではないだろう。私達の間に流れる空気は、確実に変化している。
「うん…。今日は早めに上がれそう」
「帰りは、大丈夫か?」
 昨日の痴漢事件のことを気にしてくれているのだろう。「大丈夫」と言えば嘘になってしまうかもしれないが、会社の近くに引っ越さない限り満員電車の通勤からは逃れられないし、自分の力でどうにかするには限界があった。
「うん。満員の電車には乗らないようにするから大丈夫」
「…送っていく」
「……えっ?」
 義勇くんの呟くような声が聞こえたかと思うと、彼は既に机上のパソコンを閉じて会議室のドアへと足を向けていた。
「下で待っていろ。この時間の電車は…かなり混雑している」
「え、でも、ちょ、義勇くん!」
 私の返事を確認することなく、義勇くんは会議室を後にした
「待ってろって……はぁ、もう、どうしよう」
 熱で弾けそうな顔を両手で覆い私は思わず呟いた。私用のスマートフォンがポケットの中で何度も振動していることに気が付かないほど、今日の私は終始混乱していた。

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