懐かしい唇


 駅から地上へと続くエスカレーターを駆け上がると、少し先に見知った背中を見つける。相変わらずぴんと伸びた背中に感心しつつ、私は小走りで彼を追いかけた。
「義勇くん!おはよっ」
 私の声につられるようにこちらを振り返った義勇くんは、名前か、と相変わらず抑揚のない声で私の名前を呟いた。
「昨日は本当にありがとね。…あの後、仕事大丈夫だった?」
「気にするな」
 肩を並べて会社までの道を歩く。義勇くんが私に合わせて歩くスピードを緩めてくれたのが分かり、そんな些細なことでも胸が高鳴ってしまう。
 二級河川にかかる橋に差し掛かると、本格的に春の到来を感じさせる風が私達の頬を撫で、川沿いの桜の木々を柔らかく揺らす。ここ数日暖かな日が続いたせいか、もう数日もすれば満開の桜を拝めるだろう。
 ふと、義勇くんと川沿いを歩くシーンが脳裏に流れ込む。初めて指先が触れた時も、手を握った時も、丁度こんな春の訪れを感じさせる風が吹いていた。
 魘夢先生の退行催眠を受けてからというもの、時折自分が経験したことのない情景が頭の中に現れては消えていく。前世の記憶というものは、一体どれほど現世に影響を及ぼすものなのだろう。少なくとも私はあの日から、過分に影響を受けてしまっているように思う。
「今日はライターと打ち合わせだったな」
 会社のエントランスに到着しエレベーターホールでエレベーターの到着を待っていると、義勇くんがぽつりと呟いた。
「そうだった。確かライターのキャンディさんだよね?よくあんな人気ライターにオファー出来たね」
 義勇くんは眉を顰めて私を見る。どうやらあまり彼女に関しては詳しくないようだ。相変わらずの彼に苦笑して私は言葉を続ける。
「キャンディさんは、若者に人気のライターさんだよ。凄くビジュアルもいいから、結構メディアの露出も多いんだよ」
 そうか、と、義勇くんが興味なさそうに呟いたところでエレベーターが到着したため、私達はそれに乗り込んだ。  
 退行催眠の取材を担当したのは私と義勇くんであったが、実際に記事の執筆を担当するのは有名ライターや契約しているライターであることは珍しい話ではなかった。
 人気ライターが記事を書けば雑誌の売り上げにも影響してくるので、今回キャンディさんがオファーを受けてくれたことは、企画グループの功績と言っても過言ではないだろう。そして、記事をより面白く書いてもらうために、私達の情報提供が重要になってくるので、プレッシャーを感じずにはいられないのだけれど。
「キャンディさんとのアポは十六時だから、十五時には会議室で。彼女に話すこと、少し纏めないとね」
「ああ、そうだな」
 チン、という音が私の部署へ続くフロアへの到着を告げ、私は義勇くんと別れた。
 仕事の前に一杯、と、エレベーターを降りた足で各階に設置されている自販機コーナーへ向かうと、おはようございます、と背後から声をかけられる。心地よい透き通った声は聞き知ったものだ。肩越しに振り返れば、予想通り胡蝶先生が隙のない笑顔を浮かべてこちらに手を振っていた。
「胡蝶先生!おはようございます。お早いですね、私の部署に何か御用でした?」
「今日は職場巡視の日なので、各フロアを回っていたんです。…顔色は悪くないみたいですね」
 胡蝶先生がまるで診察でもするみたいに私の顔をまじまじと見る。胡蝶先生が私の顔色を気にするということは、昨日の件を知っているのだろうか。
 でも、どうして?という表情を浮かべていたのだろう。胡蝶先生は周囲を見回し人が居ないことを確認すると、少しだけ声を落として私の疑問の答えを口にする。
「昨日、冨岡さんが私の元を訪ねてきたのですよ。…苗字さんが少し精神的に参っているかもしれないから、良ければ話を聞いてあげて欲しい、そう仰ってましたよ」
「義勇くんが…」
 私はすぐに言葉を続けることが出来なかった。心臓が擽られたように妙な気持ちが湧きあがる。
「…何かお辛いことがあったのですか?」
 数秒間の沈黙の後に、胡蝶先生が穏やかな口調で私に問いかける。彼女の女神のような笑みにつられて私はぽつりぽつりと言葉を溢す。
「はい。…実は、昨日朝の電車で…その、痴漢被害にあってしまいまして」
「まぁ…それは大変でしたね」
「でも、たまたま義勇くんが一緒の車両に乗っていて、助けてくれて。情けないことに警察の事情聴取が終わったら怖くなってしまって。…それで義勇くんが心配してくれたんだと思います」
「冨岡さんは優しいですね。…煉獄さんにはお伝えになったのですか?」
「杏寿郎は…昨日から出張で、心配かけたら悪いかなって」
 大きな瞳で私を心配そうに見つめる胡蝶先生には申し訳ないと思いつつ、本当らしく聞こえる嘘をつく。杏寿郎に心配をかけまいという思いがなかったわけではないが、それ以上に昨日のことを報告するのがとても後ろめたい気持ちになってしまったのだ。
 駅のホームで私を抱きしめた義勇くん。どうしようもなく胸が高鳴ってしまった私。
「…そうですか。あまりお一人で抱え込まないでくださいね。誰かに話せば楽になることもありますので、辛ければ私の所に来て下さっても構いません。煉獄さんも、苗字さんが話をしてくれたほうが嬉しいと思いますよ」
「ありがとうございます。その時は胡蝶先生にお世話になるので宜しくお願いします」
 ぺこりとお辞儀をしたのを見届けた胡蝶先生が、軽やかに踵を返す。花のように優しい香りが鼻翼を擽った所で、始業を告げるチャイムがフロアに鳴り響いた。

 前のミーティングが長引いてしまった私は、十五時を三十分ほど回ったところで会議室に飛び込んだ。既に会議室のデスクの端には義勇くんの姿があり、パソコンの画面に視線を走らせなにやら忙しそうにキーボードを叩いている。端正な顔には珍しく眼鏡がかけられており、黒いフレームのそれは義勇くんに知的な雰囲気を纏わせている。いつもと雰囲気の違う彼に、心臓はにわかに鼓動を増した。
「義勇くん、お待たせ!ごめんね、前の会議が長引いちゃって」
「気にするな。俺も少し前に来たところだ」
 相変わらず口数が少ない彼が、私をみて口許に微かな笑みを浮かべる。心臓が再びぎゅっと締め付けられたような気持ちになった。以前はこんな気持ちになっただろうか。大学時代の元彼の義勇くんと私の関係はもうとっくに昔に終わっているはずなのに。
「時間もないし、さっそく始めよっか」
 隣の席に腰掛けてパソコンを開きながら義勇くんを見ると、返事の代わりに小さく顎を引く姿が見えた。
「義勇くんは、退行催眠ってどう思った?」
「非科学的なものは基本的には信用出来ない…」
「…やっぱりそうだよね。この間、退行催眠を受けた時は、…どうだった?」
 パソコンの画面をじっと見つめる彼の表情から、相変わらず感情は読み取りにくかった。今、義勇くんは何を考えているのだろう?義勇くんも私と同じ前世を見たの?それとも全く別のことでも考えているのだろうか。
「……前世の俺は、鬼を狩っていた」
 永遠のように長く感じた沈黙の後に、義勇くんが独り言のように呟いた。全身を流れる血がわっと沸き立つのを自覚すると、彼の切れ長の瞳が私を捉えた。
「名前、お前も俺と同じものをみたのか?」
 義勇くんの言葉に二の句が告げなくなる。彼の問いは、私と同じ前世を見せられたことを証明していた。
「じゃあ…やっぱり義勇くんも…義勇くんも私と同じ――」
 二人の前世を答え合わせする前に、義勇くんが私の手首を引いた。気づいた時には彼の懐かしい唇が私のそれを奪っていた。


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