綻ぶ夜


クリニックを後にした私達は、最寄駅までの道を肩を並べて歩いていた。魘夢先生による退行催眠が、OL達の間でバズっている理由をほんの数分で垣間見た気がした。あんなにも鮮明に自分の前世を辿ることが出来るのだろうか。一瞬で内容を忘れてしまう夢とは違って、私の脳裏には先程魘夢先生に見せられた――この表現が正しいかは分からないが――前世のストーリーが焼き付いていた。
 分厚い扉を開けた瞬間、定食屋の娘として生を受けた私が飛び込んできた。私は、年頃になると定食屋の常連客と恋に落ちるも、自宅が燃えるという凄惨なイベントを経験し、好きでもない人の元へ嫁がされる。最後は鬼にさせられて、愛した元恋人に首を切られて殺される。
 そんな「波乱万丈」という言葉がしっくりとくる壮絶な前世を見せられた私の胸中は、正直あまり気持ちの良いものではなかった。あれが本当に私の前世なのだとしたら、今世で幸せになっても誰も文句を言わないだろう。それよりも、と思いながら私は隣を歩く義勇くんを盗み見る。相変わらずの無表情からは感情が読み取れない。彼はどんな前世を辿ったのだろうか。
 驚いたことに、私は前世でも義勇くんと恋人だった。しかし、実際に夫婦になったのは杏寿郎だった。そして、鬼になった私を殺したのも義勇くんだった。
――名前、もう俺は誰も愛さない。ずっと独りでお前だけを思って死ぬ
 催眠が解かれる直前の、義勇くんの言葉と涙が瞼の裏に蘇る。私の首を切り落とした義勇くんの絶望に引きずり込まれてしまったような表情は、私の心臓を壊死させてしまいそうなほど苦しかった。
 ひょっとすると義勇くんも私が登場する前世を辿ったのだろうか。聞いてみたい気もしたが、何故だか今この場で話題にすることは躊躇われた。恐らくあまりにも壮絶な人生に、気持ちの整理が追い付いていなかったからかもしれない。
「名前はこの後はどうする?」
 駅ビルが見えてきたところで、義勇くんが久々に口を開いた。
「うーん。会社に戻ってもいいけど、なんだか仕事って気分になれないから直帰しちゃおうかな。今月残業が多くて、上司からなるべくフレックスで相殺するように言われてるんだよね」
 言った私は腕時計で時間を確認し、義勇くんは?と目で問いかける。ガラス玉のような透き通った瞳は、相変わらず彼の感情を上手く隠している。
「…そうか。なら…少し付き合わないか」
「え?…別にいいけど、義勇くんからお誘いなんて珍しいね」
 義勇くんの予想外の言葉に驚くも、特に断る理由もない私は首を縦に振る。しかしよくよく考えてみれば、義勇くんと再会してから二人きりになることなど、今日まで一度もなかったように思う。今回はたまたま一緒に仕事をすることになったけれど、こんな機会はそう滅多に訪れるわけでもない。
「再会してから碌に話も出来ていなかったからな…。名前の卒業後の話も聞きたい」
 どこか懐かしそうに言った義勇くんが目元を僅かに綻ばしたのが分かる。あぁ、この顔。私が知っている優しい義勇くんだ。今まで以上に懐かしい気がしてしまうのは一体どうしてなのだろう。まさか、本当に前世の記憶が関係しているとでもいうのだろうか。
「うん。私にも色々聞かせて、最近の義勇くんの話。二つくらい先の駅によく行く飲み屋さんがあるんだ。この時間はハッピーアワーで人も少ないと思うし、丁度いいかも。あ…鮭大根はないよ。英国風のバーだから」
 義勇くんが和食好きなのを思い出し、恐る恐る端正な顔を覗き込めば、形のいい口元に小さな笑みが浮かぶ。まただ。また懐かしい気持ちが更新される。
 全身を巡る血がトクンと音を立てた。

 義勇くんとの久しぶりのサシ飲みは、想像以上の盛り上がりだった。やはり大学時代の三年にわたる交際期間は大きい。まるで恋人時代に戻ったかのように楽しい時間だった。義勇くんを「素っ気ない」とか「無口」という女性もいるけれど、そういう人には是非彼の良さを伝えてあげたいと思う。義勇くんには外面だけでは語ることが出来ない良さがいっぱい詰まっているのだから。
「お疲れ様、杏寿郎。随分遅かったね」
「遅くなってすまない。プロジェクトが立て込んでいてな」
「メールでも打ったけど、もうご飯済ませて来ちゃったよ」
「ああ、問題ない。俺も外で済ませてきた」
 自宅のマンションで恋人を出迎える。『今日家に行く』と杏寿郎からメールが入ったのはつい数時間前だった。週に一回か二回は互いのマンションを行き来するのが、私達の習慣となっていた。
「今日は随分早かったのだな」
 杏寿郎が腕時計を外してネクタイを緩めながら私に問う。
「うん!今日はちょっと取材で外に出てたから。前に話した、精神科医の催眠療法のやつね!会社に帰るのも面倒だったし残業時間相殺のために早めに業務終了しました!」
「…名前、少し飲みすぎではないのか?」
 アルコールの影響でややハイテンションな私を胸に引き寄せて、杏寿郎が犬のようにくんくんと鼻を動かす。どうやら飲みすぎてしまった私は、シャワーを済ませたにも関わらず大分酒臭いようだ。
「う…ごめん。久々に同僚と飲むことになって話が盛り上がっちゃって」
「同僚?胡蝶ではないのか」
「うん。今日は義勇くんと飲んでたんだ。ほら、杏寿郎にも話したことあったと思うけど、今の会社に転職した時に偶然再会した大学の時の元彼。実は、退行催眠の企画を一緒に担当することになったんだ」
 肝臓で処理しきれないアルコールが私の口を滑らせて、言った時にはしまったと背筋が寒くなる。「元彼と飲みに行って話が盛り上がった」なんて話を聞かされて、気分を害さない恋人がいるなら是非ともお目にかかってみたい。
「ち、違うよ!別に深い意味は本当になくて――」
「別に疑ってなどいない。楽しかったのなら良かった」
 私の予想に反して、杏寿郎はいつものように眩しい笑顔を浮かべて頭を撫でてくれた。まるで私が他の男性と飲みに行くことなどまるで気にしていないようにも見えた。その男性が、たとえ「元彼」であってもだ。杏寿郎は寛大だ。それが彼の魅力であることは十分理解しているつもりであるが、たまには感情を剥き出しにしてやきもちでも妬いてもらいたいな、と贅沢なことを思ってしまう。
「先にシャワーを借りてもいいか。今日の仕事の話は、あとでゆっくり聞かせてくれ」
 杏寿郎が自身のシャツのボタンを外しながら私の唇に触れるだけのキスを落とすと、そのまま浴室へと消えていく。
 恋人の杏寿郎と会う時は、互いの近況報告をして盛り上がる。いつもの私であれば、喜んで今日の取材の報告をしたであろう。しかし今日はとてもそんな気分にはなれなかった。それは過剰に摂りすぎたアルコールのせいではない。
 前世の私は、夫である杏寿郎を全く愛していなかったのだ。それどころか元彼の義勇くんと恋仲にあり、嫁いでも忘れられなかったという始末。こんな前世の話をされたら、流石の杏寿郎だっていい気分はしないだろう。いや、杏寿郎ならば豪快に笑って「前世は前世」「今世は今世」と一蹴してくれるかもしれない。
「…でもやっぱり言えないよなぁ」
 無意識に零れた呟きは、浴室から聞こえ始めたシャワー音に飲み込まれるように消えていった。

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