階段の先には


巷で話題の退行催眠の取材をすることになったのは、三月の半ばに差し掛かった頃だった。編集部の企画グループの提案で、働く女性向けの雑誌編集に関わっている私のチームでは、SNSでOL達にバズっている催眠療法について特集を組むことになった。
 初めて耳にした退行催眠とはなんぞや、と思い調べてみると胡散臭さに思わず眉を顰めた。それは、別名前世療法とも呼ばれているようで、なんでも、前世で体験したストーリーを知ることで現在のトラウマを和らげて人生を生きやすくするという、一種の精神療法なのだそうだ。前世で起きた出来事が今の自分に影響を与えているという考えが根底にあるようだが、果たしてどれほど信憑性があるのだろうか。
 こういったスピリチュアルな記事は、いつの時代も女性の読者に人気がある。加えて、このストレス社会で精神療法は働く世代にとってもかなり身近なものになっている。仮に退行催眠自体の信憑性が薄くとも、書き方次第で今回の記事は存外ヒットするかもしれない。
 なんでも、話題になっているクリニックの精神科医が中性的な超絶イケメンというのも、OL達の興味を引く一因となっているようなので、医師の特集をするだけでも話題性はあるかもしれない。
「胡蝶先生は、『退行催眠』てご存知ですか?」
会社から少し歩いた川沿いのカフェのテラス席で、本日のランチプレートに舌鼓を打ちながら、眼前の胡蝶先生に問いかける。三月にも関わらず初夏のように温かな日差しは、川沿いの桜の蕾を今にも綻ばせてしまいそうだった。
「『退行催眠』ですか?一種の精神療法の一つですよね。私も精神科が専門ではないので詳しいことは知らないですけど、効果を実証している論文をいくつか読んだことはありますね」
「へぇ、効果が立証されているんですか」
 口内で咀嚼した食塊を冷めてしまったコーヒーで流し込んだ後、驚きの声を漏らす。
「ええ。ですが、そもそも精神科の領域が科学的に説明できないことが多いんですよ。ほら、うつ病とかの原因がはっきりと分かっていないのと同じです。まぁ、取材に行かれるのであれば、話半分くらいに聞かれることをお勧めしますよ」
「流石胡蝶先生。とても勉強になりました」
「いえいえ。あ、それより苗字さん、そろそろ時間では」
 優雅に食後のコーヒーに口を付けた胡蝶先生が、左腕に巻かれたブランド物の上品な時計の文字盤に目を走らせる。彼女に倣うように自分の時計に視線をやれば、先方への訪問時間が迫っていた。
「やっば、もうこんな時間。じゃあ私行きますね。お金ここに置いていきます」
「はい、気を付けてくださいね。あ、あと冨岡さんにも宜しくお伝えください」
 花が綻ぶような笑みを浮かべた胡蝶先生に目礼し、私は最寄り駅までの道を急いだ。
 午後に控えた退行催眠の訪問取材のパートナーは、偶然にも企画グループの義勇くんなのだった。

 目的地のクリニックが入居するビルの入り口で、先に到着していで義勇くんの姿を発見する。思わず振り返りたくなるようなイケメンは、無表情でスマートフォンを操作していた。
 ネイビーのテイラードジャケットとパンツに、ホワイトの麻シャツを合わせた春らしいカジュアルなスタイルは、背が高くて細身な彼にとても良く似合っていた。うちの会社はオフィスカジュアルだが、先方に訪問する際は少しフォーマルな格好をするのが通例だ。義勇くんの服のチョイスはカジュアル過ぎずフォーマル過ぎず、非常に好感が持てる。
「義勇くん、お待たせ。胡蝶先生とランチしてたらぎりぎりになっちゃった」
 広い背中を軽く叩いて声をかける。
「胡蝶と?相変わらず仲がいいな」
 義勇くんが僅かに目を見開いた。義勇くんと胡蝶先生は、どうやら高校の同窓らしい。世の中って本当に狭い、と初めてその事実を聞かされた時は改めて思ったものだ。
 目的階までエレベーターで移動してクリニックの入り口に到着すると、何やら楽しそうに感想を述べあう女性二人組とすれ違った。
「それにしてもびっくりした。本当にフラッシュバックしたみたいに見えたんだけど」
「やっぱり?私もそう!魘夢先生って噂通り凄い人だね」
 会話の内容からするに、噂の退行催眠を受けたのだろう。『魘夢先生』とは、本日取材のアポを取っている魘夢先生で間違いないはずだ。女性達の感想に期待感が強まるも、先程の胡蝶先生の「話半分」の言葉を思い出して、深呼吸を一つ吐く。
「いらっしゃいませ。ご予約はされていますか?申し訳ないですが、当院は今から休憩時間でして…」
 義勇くんと肩を並べてクリニックへ足を踏み入れると、受付カウンターから白衣に身を包んだスタッフの方がこちらに気が付いて声をかけてくれる。
「あ、すみません。私、本日14時から魘夢先生と取材の約束をさせていただいております出版社の苗字と申します」
 慌てて訪問の目的を告げると、スタッフの女性が、合点がいったような表情を浮かべる。
「ああ、魘夢先生の取材の件ですね。大変失礼しました。今しがた午前中の診療が終わったばかりですので、ご案内させていただきます」
「すみません、休憩中に。宜しくお願いします」
「いえいえ。是非、お二人も先生の退行催眠療法をお受けになっていってください。百聞は一見にしかずで、驚かれると思いますよ」
 声に楽しさを滲ませた女性が、ここです、と診察室の扉を開ける。彼女に続いて中に入れば、ゆったりと椅子に凭れかかった白衣姿の男性が、私達にどこか妖しい笑みを向けた。
「いらっしゃぁい。今日はよろしくね。君はもう休憩入っちゃっていいよ」
「はい。それでは失礼します」
 私と義勇くんに椅子を勧めてくれた女性は一礼して退室していく。名刺を差し出して自己紹介を済ませたところで、私達は準備された椅子へ腰掛けた。
「では、魘夢先生。先日お電話でもお伝えさせていただいた通り、改めて、最近特に若い女性達に話題の『退行催眠』について、お聞かせ願えればと思うのですが」
 取材用のメモとボイスレコーダーの準備を終えて改めて目の前の魘夢先生を見ると、なるほど女性達が騒ぎたくなる気持ちも分かる。医師にしてはまだかなり若い印象を受けるが、中性的な超絶イケメンという噂は間違ってはいなかった。
「そうだねぇ。君たち、僕の催眠療法を受けに来るくらいだから、当然退行催眠のことは知ってるんだよね?」
「はい。事前に色々調べさせていただきました。お恥ずかしいことにその言葉自体が初耳だったものですから。前世の記憶を辿ることが出来る…でも本当にそんなことが可能なんでしょうか?」
「君はさ、理由もないのに怖かったり、気になったりすることはある?」
 質問をしているのは私の方だと思ったが、魘夢先生はお構いなしに質問をぶつけてくる。
「怖かったり、気になったりですか」
「そういうことが前世のヒントになっていたりするんだよ。もしなんとなく火が怖ければ火に対して嫌な経験をしているとか。一目ぼれは前世の恋が関係しているとか、まぁそんな感じかな」
 饒舌に語る魘夢先生は、まるで素晴らしい夢を見ているようにどこか楽しそうだった。
「ふふ。百聞は一見にしかず。君たちも受けていくといいよ。さぁ、身体の力を抜いて目を閉じて。目の前に階段をイメージして」
 言われた通りに目を閉じると魘夢先生の揺れるような心地よい声が鼓膜に流れ込む。すると不思議なことに、瞼の裏に永遠に続いていそうな長い階段が現れる。
「奥へ、奥へ降りていくんだ。ほら、扉が見えてきたでしょ?」
 不思議と扉が見えてくる。意識が抜き取られたように、脳に靄がかかる。これはもう催眠にかかってしまっているのだろうか。五感を取り上げられてしまったような不思議な感覚に包まれる。
「さぁ、その扉を押してドアを開けてみて…見てみるんだ。君の前世を」
 その声につられるように、私は目の前の分厚い扉を押した。


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