付け入る隙


名前、と呼ぶ声で目が覚めた。自分が今どこにいるのか一瞬分からなかったが、憂色を浮かべて私を見下ろす恋人の顔を脳が認識すると、ここが杏寿郎のマンションの寝室であることを思い出した。
「大丈夫か?随分と魘されていたぞ」
 隣で寝ていた杏寿郎は少し身体を起こし、心配そうに私の頭を撫でると額に労わるようなキスを落とす。カーテンの隙間から楔のように差し込む光が朝の訪れを告げており、私の恋人は一足早く目を覚ましていたのかもしれない。
「ん…ごめん。なんか変な夢…見てたかも」
「夢?」
「うん。…なんか杏寿郎が出てきた気がするけど…よく覚えてない」
「あまり楽しい夢ではなかったのか?」
「分かんない…幸せだった気もするけど、怖かった気もする」
 まだ眠気がこびりついた頭でなんとか先程までの夢の記憶を辿るも、もう思い出せる気配はなかった。夢とは本当に不思議なものだ。目覚めた瞬間から、その記憶は脳から零れ落ちあっという間に消えていく。
 それにしてもなんだか後味の悪い夢だった。海外の有名な学者が、夢は無意識に閉じ込めてある禁断の欲求や願望を充足するものであると論文で取り上げていると、つい最近何かの記事で読んだことを思い出す。私は一体どんな夢を見ていたんだっけ。
「…起床までにはまだ少し時間がある。もうひと眠りするか?」
 自分でも気づかなかったが眦は涙で濡れており、杏寿郎がそれを優しく親指で拭ってくれると、優しい目で言う。しかしその直後に熱く柔らかな唇が鎖骨に押し付けられる。
「ん…杏寿郎、寝かしてくれる気ないでしょ」
「…いいか、名前」
「朝からぁ?…もう、しょうがないなぁ」
 恋人の瞳に情炎が燃える。それを合図に私達の唇が合わさって、朝から情事に耽った。

 最寄駅で杏寿郎と別れた私は、息をするのも躊躇われるほど人を詰め込んだ通勤電車に揺られ、会社の最寄駅までの時間を耐える。寒い冬が終わろうとしている三月の電車内は想像以上に気温が高く、駅に到着する頃には人の波に揉まれた私の身体はじっとりと汗が滲んでいた。
 改札を出ると堪らずコートを脱いで、オフィス街へと続くエスカレーターを駆け上がる。地上に出た所で漸く生きた心地がした。爽やかな朝風が汗ばんだ身体を掠め心地よかった。さぁ今日も一日頑張ろう、と会社までの道を急ぐ。
 駅から五分ほど歩き、海に合流する二級河川に架かるコンクリートの橋を渡れば、私の勤める出版社のビルはもう目と鼻の先だった。
 私が出版社に転職してから早いものでもう一年が経とうとしていた。元々編集の仕事に興味があった私は年齢的にも最後のチャンスと腹を括り、血の滲むような転職活動の末、今の会社への内定を勝ち取った。
 自分で記事を書かせて貰えるようになるまでにはまだ百万歩あるかもしれないが、自分がやりたい仕事に就けているというだけで、燃えるような力が漲ってくるのだから不思議なものだ。以前雑誌の特集で、「仕事が楽しければ人生の八割は楽しい」という記事を目にしたことがあったが、全く言いえて妙だなと身をもって納得する。
「苗字さん、おはようございます。今日も元気そうですね」
 橋の真中に差し掛かった所で、背後から声をかけられる。羽のように軽やかな声に耳を引かれて振り返れば、会社の産業医の胡蝶先生が私のすぐ斜め後ろで小さく手を振っていた。
「胡蝶先生!おはようございます」
「ふふ。今日も苗字さんは元気一杯ですね」
「はい。好きなことが出来ているので毎日が楽しいです」
「いいですね。仕事もプライベートも充実していて、羨ましいです」
 肩を並べて歩きはじめると胡蝶先生が含み笑いを浮かべて私を見るので、なんだか照れくさくて頬をかく。
 胡蝶先生は私の恋人のことをよく知っていた。そもそも、病気にならなければお世話になることも少ない産業医の彼女と私がこんなに親しく出来るのは、杏寿郎という共通の知り合いがいるからだ。転職してから知ったことだが、なんと二人は大学の同窓だった。
「プライベートはどうなんですかね。…私ももういい齢ですけど、杏寿郎からは結婚どころか同棲の話もないですよ。…って朝っぱらからする話でもないですね」
 私は最近の悩みをついぽろりと口にすると、胡蝶先生は興味深そうな表情でこちらを見つめていた。
 恋人の杏寿郎は前職の同僚だった。部署は違えど何かと関わる機会も多く、私が転職するのを機に告白されて交際が始まった。職場の女子社員にも大人気だった彼が私のことを好きだなんて自分の耳を疑った。しかし、誠実で気さくで優しくてリーダーシップもあって、と非の打ちどころのない杏寿郎の告白を断る理由など当然なかった私は、二つ返事で彼の申し出を受け入れた。 
 今の話から分かるように、当時、杏寿郎が好きだったかと言えばそうではない。私にとっては男性版の「高嶺の花」のような存在で、そもそも彼と交際をすることなど想像が及びもつかないことだった。
 しかし交際期間が一年も続けば、今は愛しい自分の恋人だった。理想を具現化したような杏寿郎の存在が、私の人生に花を添えてくれているのは疑いようがない。しかし贅沢なことを言ってしまうと、時々不安に思うことがある。結婚の話も勿論そうだが、いつも私の一歩先を歩いて導いてくれる彼に、何故だが一人取り残されたような気持ちになってしまうのだ。
「煉獄さんのことですから色々と考えているとは思いますよ。彼は真っ直ぐで責任感がある人ですし」
 無意識のうちに眉根をすぼめていた私を気遣う胡蝶先生の優しい声が耳に滲む。
「ありがとうございます。…先生、お忙しいと思いますが、今度是非二人で飲みにでも」
「いいですね。是非」
 会社に辿り着くまでの数分でも、胡蝶先生と話しが出来ただけでなんだか心が軽くなった。出社する社員で賑わうエントランスを通り抜け、コンビニに寄るという胡蝶先生と別れたところで、バチンと胸のすくような音と甲高い女性の声が少し遠くで揺らいだ。
 何かトラブルだろうか、野次馬根性で音と声のした自販機コーナーに足を向けると、朝っぱらから痴話喧嘩が繰り広げられていた。
「義勇くん、私のことなんて最初から好きじゃないんでしょ?何にも言ってくれないし、何も決めてくれないし、メールも素っ気ないし。私なんかに興味もないくせに…ちょっと顔がいいからって調子に乗ってるんでしょ。弄んで楽しかった?…さよなら」
 可愛らしい顔を怒りに歪めた女性が足早に去っていく。恐らくびんたをくらったであろう男性が、自分の頬を抑えて無表情で佇立していた。何故叩かれたか分からない、といった感じだろうか。
「…義勇くん、大丈夫?」
「…名前か」
 彼女に振られたばかりの義勇君が少しだけ目を張って私を見る。まさかこんな朝の忙しないオフィスのエントランス付近で、目撃者がいないとでも思っていたのだろうか。
「これ使って冷やしなよ」
 自販機コーナーの片隅に設置されている小さな洗面台の蛇口を捻って、ハンカチを湿らせ義勇くんに手渡すと、彼は小さく礼を述べてそれを受け取った。
 義勇くんは、私の大学時代の元彼だった。大学時代の思い出といえばまず義勇くんが思い浮かんでしまうほど、彼との交際期間は長かった。少なくとも二回は互いの誕生日を祝福し合ったはずだし、三年近くの付き合いだったのではないか。格好よくて優しい私の自慢の恋人、だった。
 しかし、互いに就職活動が多忙な時期になるとすれ違いが生じることが多くなり、関係を修復することが叶わずに別れる形となってしまった。風の噂で出版業界に就職したことは聞いていたが、転職先で彼に再会した時は、まるで運命なのではないかと思うほど驚いた。
「義勇くんて、イケメンで優しいのに損してるよね」
「…傷つけるつもりはなかった」
「それはそうでしょう」
 相変わらず口下手だね、と苦笑を浮かべ呟くと、私はハンカチで頬を抑える義勇くんと肩を並べてエレベーターホールへ足を向ける。始業の時刻が迫っているので、あまりゆっくり話している時間もない。
「あの女子社員さんは?お付き合い長かったの?」
「いや…まだ一月も経ってないんじゃないか」
 エレベーターの到着を待ちながら、隣の義勇くんを見上げて問いかける。イケメンで背も高い彼はただこうして立っているだけでも絵になった。きっと憧れている女子社員も多いのだろうが、いざお付き合いをしてみると、義勇くんの口下手な所や優柔不断な所に不満を持ってしまう女子達が多いようだ。
 私はそんな彼も結構好きだったけれど、世の中の女性の需要は、「ぐいぐいとリードしてくれる頼れる恋人」に軍配があがる。
「一か月かぁ。一か月じゃ何も分からないのにね」
 私は慰めるように義勇くんの背中をぽんぽんと叩く。かつて恋人同士だった私達の間に蟠りはない。社会人になってからの私達は、もう別々の道を生きてきた。だからこそこんな気軽な感じで互いの色恋の話も出来るのだ。
 それなのにどうしてだろう。何故か義勇くんのことを考えると、時々息が詰まったように切なく苦しくなる。それはやはり、彼が私の「元彼」だったからなのだろうけれど。
「名前は…どうなんだ?」
「うん。まぁ、順調だよ」
「そうか」
 相変わらず分かりにくいが、私と杏寿郎の関係を問うていることは容易に理解出来た。義勇くんの方から質問なんて珍しいな、と適当に相槌を打ったところでエレベーターが到着する。誰もいない広々としたそれに乗り込んだ私達は、それぞれ部署があるフロアのボタンを押した。

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