別れの言葉は「」


なかなか戻らないことを心配した両親がようやく私を見つけてくれたのは、丑の刻を過ぎた頃のことだったという。私は血だらけで横たわっており、辺りに人はなかったとのこと。しかし不思議なことに私の体には大きな怪我は見当たらず、少しの傷だけだったため、野犬にでも噛まれたのではないかと結論付けられた。
 私は相変わらず自室で横たわっていた。昨日までの回復した体調が嘘のように全身が怠い。薄暗い部屋で一人静かに横たわっていると、いよいよ本物の病人のような錯覚に陥る。日光に当たることに対して何故だかとても嫌悪感を抱くため、雨戸も開けていなかった。
 両親は言わないけれど、どうやら私の病状に心当たりがあるようだった。遺伝性のものか、日光に当たると良くない病気なのか、というのが私の乏しい知識での想像の限界だが、どちらにせよ、とてもまともに暮らしていけそうもない。つい数週間前の健康体が懐かしく感じるほどに、私の体はひどく重かった。
「名前。これねぇ、体によく効くお薬なのよ」
 もはや何時かもわからない部屋で母が湯呑を差し出す。明りもつけない部屋ではその湯呑の中身が何色をしているのかも判然としなかった。
「薬、飲んでいいの? 赤ちゃんいるのに」
「……いいから飲みなさい」
 私はその謎の薬を一気に呷った。その美味さに目を見開く。良薬口に苦し、という俗説が本当ならば、この薬は全く効き目がないのではないかと思えるほどの一杯。
「すごくおいしい。どんなお薬なの? またもらえる?」
「薬だから、決まった量しか飲めないわ。また今度持ってくるから、それまで休んでいなさい」
「はい」
 再び横になり、ぼんやりとした頭で様々なことを考えた。先ほどの母の言葉から推察するに、もう私のお腹の中に赤ん坊はいないのではないか? あの倒れた瞬間に、赤ちゃんが犠牲になってしまったのかもしれない。だけど、それすらどうでもいいと思えるほどに、今の私はこの不調に悩まされていた。
 そもそも、あの日私はどうしてあの場所に倒れていたのだろうか。誰と会ったのかもどうしても思い出せない。義勇さんだと思って振り返って、きっと違ったのだろうということは想像できる。だって彼なら、倒れた私を置き去りになんてしないはずだから。そうですよね、義勇さん。

 きっととっくに杏寿郎さんが任務から戻っているであろうほどの月日が経っていたと思う。私はこれだけの不調にもかかわらず一度も医師に診てもらっていなかった。妊娠しているはずなのにそれについても診察も一度も受けていなかったから、やはり赤ちゃんはどこかの瞬間でいなくなってしまったのだな、とぼんやり思った。
 あれから母は何度かあの美味い薬を持ってきた。それを飲んだ時だけは少しだけ元気になるのだが、どうも効果は長続きしないようで、私は横たわる以外に何もすることがなかった。
 回らない頭で色々なことを考えた。こんなこともあった、あんなこともあった、と義勇さんと杏寿郎さんのことを交互に思い出す。二人は今頃どうしているのだろうか。またどこかで鬼を狩っているだろうか。
――鬼は夜に活動するからな。
 ずっと昔に聞いた義勇さんの言葉が脳裏を過ぎった瞬間、胸が嫌なざわめきに支配される。
 日光への嫌悪。生気の抜けた日々。たまに差し出される甘美なる薬。誰も診察に来ない。
「……嘘、でしょ」
 衝撃の結論を頭を振って否定した。私は……私って、もしかして。
「名前」
「……お母さん」
「薬を持ってきたよ」
 母の手により、抗いがたい神の雫が差し出される。私は湯呑を受け取って、震える声で母に問うた。
「ねぇ、お母さん。この薬……なに?」
 その瞬間の母の動揺といったらなかった。目を見開き視線を逸らしたかと思えば、何かを告げようとした口が引き結ばれる。
「私って、鬼なの?」
「名前、あんたそれどこで……!」
 言ってしまった、というように母が口を覆った。そしてそのまま畳に崩れ落ちると、見たこともない嘆き方で泣き喚き、父が慌てて駆けてくる。父は母の背をさすりながら、どうしたのかと私に訊いた。
「私って鬼なの、ってお母さんに聞いたの」
「何を馬鹿な……」
「答えて」
 父は先ほどの母と同じように私から視線を逸らすことでその問いを肯定した。
「でもお前は人を食っていない。だから鬼殺隊にやられることはない。安心しろ」
「じゃあ、私はこれからどうやって生きていくの?」
「お前は、父さんと母さんがずっと面倒見てやる。ずっとこの家にいればいい。もう煉獄家にも戻らなくていい」
 父が私に跪いて母に倣うように泣き喚いた。
「無理に結婚させてごめんな。それでも最近は幸せそうだと思っていたからよかったが、もっとちゃんと注意してやればよかったな。もうずっとこの家で、この部屋で、好きに過ごせばいい」
 泣き崩れる両親を見て、私はただ呆然としていた。しばらく一人にしてほしいと告げると、二人は寄り添いながら部屋に戻った。

 その夜、私は家を出た。
鬼になる少し前まで体調を崩していたからなのかはわからないが、私には全く食欲がなかった。恐らく鬼になったところでそれほど不便はしないだろう。それでも自分が人間でなく、愛する人たちが嫌悪している鬼という存在になってしまったという現実が受け入れられなかった。そして、家の定食屋を燃やした奴らの方がよっぽど鬼じゃないか、と私は未だに憤慨していたのだった。
義勇さんに会おう、と思っていた。彼なら何か解決策を示してくれるかもしれない。まさか私にいきなり斬りかかるなんてことはあるはずもなかった。杏寿郎さんの元に、とも思ったが、代々鬼狩りの家系の嫁が鬼になってしまったなんて噂が立ってしまったら、煉獄家のみんなに申し訳が立たない。
 誰もいない深夜に街を彷徨い歩き、片身替りの鬼狩りを探す。今日会えなくても、何日だってこうして探し続ける。明日だって、明後日だって――。
 川面に反射する三日月を感慨深く思っていると、砂利を踏みしめる音が聞こえた。人の気配に振り返れば、月明りに照らされた無表情に美しく翻る片身替りの羽織。
こんなに、近くに。
「やっと会えました」
 私が微笑むと、義勇さんは無表情を悲しげに歪めて、微かに腰を落とした。
「名前。お前は」
「鬼狩りって、やっぱり気配で鬼ってわかっちゃうものなんですか? でも私」
 誰も食べてないですよ。
 その言葉が声になって彼の耳に届くことはついになかった。視界かぐるりと反転して、彼の顔から川面へと視線が移る。何が起きたのかと視線を彷徨わせれば、私の首から下が存在しないことにようやく気付いた。なんで。どうして。ひどい。まさか私にいきなり斬りかかるなんてこと。ないと思っていた。信じていたのに。
「義勇さん、何で」
 私の輪郭が徐々に朽ちていく。結婚当初の死とは違う、忍び寄る本物の死の気配。
「鬼は全て狩らなければならない」
「私、誰にも迷惑かけません。それでもですか?」
「鬼になれば皆一緒だ。俺は誰であろうと鬼なら狩る。それがたとえ……愛しくてたまらないお前であっても」
 話も聞かずにひどすぎる。鬼畜は一体どっちなの、と精一杯の虚勢で視界の端の彼を睨みつけた。
「……義勇さん?」
 しかし私の睨みも長くは続かない。
「どうして名前が鬼に……! 俺は何のために鬼殺隊に入ったんだ……!」
無表情が常の義勇さんが、涙を流して私の手を握っていた。
もう感覚はないけれど、懐かしい傷だらけの掌。それを思えば、心がすっと穏やかになる。この優しい人と一瞬だけでも愛し合うことができて、私は幸福な人生だった。
「義勇さん。さようなら。ありがとう」
「名前。もう俺は誰も愛さない。ずっと独りでお前だけを思って死ぬ」
「そんなこと言わないで……幸せな恋をしてください」
「名前……名前。守れなくてすまない。幸せにしてやれなくてすまない。俺は、俺は……」
 義勇さんの涙が、私のやるせなさや憎しみを全て溶かしていく。そうして体中が朽ちていく。この世で最も幸せな死が訪れる。私の人生残り数秒で彼に送る言葉は。
「来世で会いましょう」

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