秘密の約束


黙ったままの私たちを見て、煉獄さんは首を傾げた。
「どうしたのだ、二人とも。よもや知り合いか?」
「あぁ。名前は……」
「冨岡さんは!」
義勇さんの言葉を遮るように私は声を上げて、そのまま早口に続ける。
「うちの定食屋の常連なんです。いつも鮭大根ばかり食べるから覚えちゃって」
 ね、冨岡さん、と目の前の愛しい人に他人行儀な視線を送った。義勇さんは私にだけわかるほどの微かな表情の変化で傷ついて見せ、やがて小さく「ああ」と言った。
「そうであったか」
「あ、そういえばお茶とお茶菓子をどうぞ。私はこれで」
 茶菓子とお茶をそそくさと並べ、客間を出ようとする私を、杏寿郎さんが引き留める。
「まだいいだろう」
「いえ。冨岡さんが同僚であるということは、お仕事のお話なのでしょう? 私も家事がありますので」
「む、そうか。それはすまない。茶菓子は千寿郎と一緒に食べるといい」
「はい」
 もう一度畳に頭をつけ、顔を上げた。義勇さんの切なそうな表情を振り切ってなんとか襖を閉じると、私は静かに部屋に戻る。
「義勇さん……」
 今だけ苗字名前になる。義勇さんがすぐそこにいる。手を伸ばせば触れられる。私が勇気を出せば、杏寿郎さんを裏切れば、彼の胸に飛び込むことができる。
 だけどそんなことできるはずがない。私はもう煉獄名前になってしまった。煉獄家の人間。義勇さんは夫の同僚であって、もう私の恋人ではない。
 せめて一言謝れたら。思いを伝えられたら。それが自己満足だとしても、この情熱のやり場がどこにもない。あなたを想うあまりにこの身が焼け焦げそうだというのに。
「義勇さん」
 愛しています、とは口に出さない。せめてただ一人涙を流すくらい、どうか今だけ許してほしい。

「名前。部屋にいるのか?」
「はい」
 いつの間にか日は傾き、夕日が部屋に差し込んでいる。部屋の机に伏して眠ってしまっていたようだ。流れた涙の痕を急いで拭ってから、玄関先の杏寿郎さんの元へ駆けた。少し後ろに義勇さんが控えている。私は彼から意識的に視線を逸らし、杏寿郎さんに取り繕った笑顔を向けた。
「何でしょうか、杏寿郎さん」
「大丈夫か? 目が赤いようだが」
 私の顔を覗き込んだ杏寿郎さんが目敏く気付く。顔に伸ばされた手をさりげなくかわして、私は彼に頷いた。
「はい。少し疲れが出たようで」
「熱は……」
「平気ですから」
 再び夫婦特有の無遠慮さで私の額に手が伸びる。私はそれをやや強い口調で制して、今度こそ彼に用事を訊ねた。
「どうされましたか?」
「冨岡がもう帰るとのことだ」
「そうでしたか。お忘れ物はありませんか?」
 視線を合わせずに問うが、義勇さんからの答えは得られない。代わりに杏寿郎さんが、そうだ、と場違いに大きな声を出した。
「茶菓子の土産はいるか? 取ってこよう!」
「それなら私が」
「俺の方が近いのだ。すぐに戻る」
 そう言ってさっさと杏寿郎さんが家の奥に引っ込む。私と義勇さんは残された気まずい空間に目も合わさないまま立ち尽くしていた。
「……三日後」
「え?」
「三日後の昼十二時。祭りの待ち合わせ場所で待つ」
「え、とみ……義勇さん……」
 ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの声で義勇さんが早口に告げる。私は耳を疑って彼の顔を見た。悲痛な表情が浮かんでいる。義勇さんにこんな顔をさせてしまうなんて、私は一体何をしているのだろう。
「……名前! 俺は、俺は……」
 無表情な彼の激情が迸り、私を強く抱きしめる。私はといえば、驚いて身を竦ませるだけだった。夢にまで見た義勇さんの腕が、胸が、熱が、今ここにある。急速に恋情を起因とした幸せな呼吸困難が訪れ、私の身を焦がした。義勇さん、私は今でもあなたが好きです。あなたの前では煉獄名前を演じられない。ずっとずっとあなたのことが好き。今すぐこの場から連れ出してくれたった構わない。
「義勇さん、私……」
「何をしているのだ、二人とも」
 杏寿郎さんのやや低めの声が玄関に響いた。急速に煉獄名前としての役目を思い出す。私は離れがたい体温を断腸の思いで押し戻し、努めて冷静に振り返った。
「私、やっぱり具合が良くないみたい。よろめいて冨岡さんに抱き起こされてしまいました」
 自身の瞳に湛えられているであろう昏い色が、言葉の説得力に一役買っていたのだろう。杏寿郎さんは一転して心配顔になり、私を義勇さんから隠すように後ろに下げる。
「それならばもう部屋に戻るといい。ゆっくり休みなさい」
「はい。それでは冨岡さん、いつかまた」
 私は彼の目も見ずに再び自室に戻った。杏寿郎さんが手土産を義勇さんに渡し、別れの挨拶を告げているのが耳に入る。
――三日後の昼十二時。祭りの待ち合わせ場所で待つ。
 義勇さんの愛しい言葉が耳から離れない。私は三日後、どこにいるだろうか。

 三日後の朝、私は杏寿郎さんと共にいつも通り千寿郎くんの朝食をいただいていた。相変わらず絶品なそれらのはずなのに、私の頭はすっきりしなかった。約束の三日後は今日。私は約束の場所に行くかどうか未だに決めかねていた。杏寿郎さんが仕事に出てくれたら、と何度も思った。きっとそうだったら私は迷わず義勇さんとの約束に駆け出していただろう。最低と思うかもしれないが、それが私の本音だった。誰にも知られない秘密の逢瀬なのだとしたら、私は義勇さんの元に一目散に走るのだ。嫁いだ私の覚悟なんて、そんな砂上の楼閣ほどに脆いものなのだ。
「兄上、姉上。行ってまいります」
 ぼんやりと朝食を口に運んでいた私の耳に、爽やかな声が聞こえてくる。私は箸を置いて、居間を出ようとしている千寿郎くんの背に声をかけた。
「どこに行くの?」
「友人と甘味処へ。姉上、大丈夫ですか? ここ数日、ずいぶんぼんやりしているように見えます」
 振り返った千寿郎くんが鋭い観察眼を見せる。私はすぐに笑顔を張りつけた。
「ごめんね、大丈夫だよ。ちょっと考え事してただけなの」
 杏寿郎さんが私をちらりと見た後に、千寿郎くんに声をかけた。
「夜には戻るのか?」
「はい。夕方には戻ります」
 千寿郎くんがもう一度行ってきます、と行って居間を出た。杏寿郎さんが私に向き直り、にこりと笑う。
「今日の昼は定食屋にでも行こう」
「は……」
 反射的に快諾しようとして私は言葉を止めた。昼十二時。祭りの待ち合わせ場所で。義勇さんの言葉が脳裏に過ぎる。
 私は精一杯の申し訳なさそうな表情を作って、杏寿郎さんに頭を下げる。
「ごめんなさい、杏寿郎さん。今日はどうしても実家の手伝いに来てほしいと言われていて」
 今、この瞬間。私は素知らぬ顔で杏寿郎さんを裏切った。苗字名前ではなく、煉獄名前の顔のままで。私は杏寿郎さんへ反旗を翻したのだ。
 裏切り、不貞とはどれほど胸の痛む行為かと思ったが存外何てことはなかった。人は平気な顔をして人を裏切れるのだな、と私は下げた頭の中で考えていた。
「それならば致し方あるまい!」
 杏寿郎さんは残念さや責める様子を一切見せることなく、私の言葉を受け止めた。本当に一緒に昼食に出たかったのかと思うほどのあっけらかんとした様子は、私の罪悪感を鈍らせた。
 朝食の後片付けを済ませた私は、愛しい義勇さんに会うために何食わぬ顔で出かける準備を進めた。いつも通りの化粧、いつも通りの着物。こういう時に特別な格好をすることなど愚の骨頂だ。
「それでは杏寿郎さん。行って参ります」
 夫に嘘をつき、不貞のために私は玄関の戸を開ける。
 清々しいほどに晴れた陽が私の心を照らしてくれた。

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