だめって言ってよ


 治療をしようとした男子生徒が脱兎のごとく這って逃げる。嘘でしょ、と思っている間に目前まで迫る巨大木製看板。逃げるのは不可と判断し目を瞑って痛みを覚悟した瞬間、地響きのような音があたりに響く。
 その間は一体どれくらいの時間だったろう。気付けば誰かが脅威から守るように私を胸に抱き込んでいた。辺りに喧騒が舞い戻る。早く起こせ、大丈夫か、怪我人は、という声が私の耳に流れ込んだ。
 ゆっくりと看板が起こされ、光が差し込む。目の前で揺れる髪。色は金。流れるは、赤。
「名前先生、大丈夫? 怪我してない?」
 身を挺して私をかばった我妻くんが、肩から血を流している。私は呆然としながらも、何とか口を開いた。
「……うん」
「そっか。よかった」
「我妻くん、歩ける? 保健室行こう」
「……なに泣きそうになってるんですか」
 軽口を叩いた我妻くんが額からたらりと一筋の汗を流した。そのまま立ち上がった彼は、他に不調がないか確認するかのように足を回したり怪我をしていない方の腕を伸ばしたりする。
「全然問題なし。歩けます」
「それと、さっきの彼も……あれ? いなくなっちゃった」
 辺りを見回すも、捻挫の男子生徒は既にどこかへ消えていた。手当てが不要なほど元気ならいいのだけど、と思いながら、私は不自然なほどに無言のまま保健室へ向かった。我妻くんも何も喋らなかった。
 保健室の戸をガラリと開き、向かい合わせで座る。私は救急箱と棚から必要なものを取り出し、手当てを進めた。
「痛い?」
「ぜーんぜん」
「嘘。汗流れてるじゃない」
「……今日、結構暑くないですか?」
 手当てを終えると、我妻くんがワイシャツを着込みながら私の顔をじっと見た。
「まだ泣きそうな顔してる」
 その指摘に、私は唇を噛んで涙を堪える。だけど努力も虚しく視界はどんどん歪んでいき、頬からついに一滴が流れ出してしまう。あとからどんどん流れ出す雫を袖に吸い込ませながら、俯いて肩を震わせた。我妻くんがふっと息を漏らす。
「俺、結構イケてました?」
 うんうんと無言で何度も頷く。優しい掌が私の頭をそっと撫でた。いて、という声が小さく聞こえる。
「我妻くん、ありがとう。ごめんね、無茶させて」
「別に無茶なんてしてないよ。それに、前に約束したじゃん。覚えてないの?」
――名前先生のことは、俺が守ってあげよっか?
 思わず顔を上げて我妻くんを見つめると、年下の騎士が照れくさそうに笑いながら私を見返した。
何が高校生だ、何が子供だ。こんなに立派で素敵な男性、辺りを見回してもそうはいまい。
「肩、痛いよね。本当にありがとう。全国大会に支障が出ないようにしっかり治そうね」
「そうですね。じゃあ名前先生。早く治るようにおまじないしてよ」
 途端にニヤニヤ顔になった彼が自分の唇を人差し指で二度叩く。私はたぶんすごく困ったような表情をしていたと思う。こんな風にお願いされたら断ることなんてできない。
「いいよね? キスするよ?」
「で、でも」
「あくまでお礼ってことで。変な勘違いはしないからさ」
 いいよね、ともう一度言った我妻くんが男の顔になって私の頬に手を添える。私もきっと女の顔になっていたと思う。未だ渇かない涙目で我妻くんと視線を交わした。
「もしキスしていいなら……だめって言って」
「……だめ」
 唇の重なる音が、保健室に響いた。

 文化祭を翌日に控えた夜。生徒たちが準備を終えて早々に帰宅し静まり返った校内で、私は相変わらず残業に勤しんでいた。間もなく夜七時を指す時計を一緒に見る人はなく、誰かから秘密の誘いがあるわけでもない。コーヒーでも飲んでもうひと頑張り、と廊下に出た時、健全な金曜の夜が崩れ去る。
「……ねぇ、天元」
 放課後の学校に似つかわしくない艶やかな声がどこかから聞こえた。どこどこ? 今、天元って言った? と思いながら周囲を警戒する。廊下のど真ん中で足を止めて、もう一度囁き声を探った。くすくすと笑うような声。入り混じる低い男の声。恐らく、今まさに向かおうとしていた自販機コーナーかなとあたりをつけて、私は抜き足差し足で忍び寄る。
「だからぁ、もう一回、いいでしょ?」
 はっきりとした声が耳を掠める。さっと階段の隅に身を寄せ、闇夜に姿を溶かした。
「しつこいっつの」
「あれから私、すごく頑張ったの。ねぇ、だからお願い。あと一回だけでいいから」
 甘えたような声が鼓膜に絡みついた。この声は、美人数学教師だ。前に天元と何らかの約束を交わしていた現場を見たことがある。
「でもなぁ……お前、すぐ疲れたとか痛いとか言うじゃねぇかよ。しかも、この前も一回付き合ったばっかだぜ」
「今度は本当に痛いとか言わないから。私、頑張るわ。だから天元で試させてよ。きっと満足させてみせる」
 交わされるやり取りに耳が熱くなる。二人の会話から秘密も秘密、トップシークレットな会話であることが簡単に想像できる。バクバクと跳ねる心臓に手を当てながら、私は思わずしゃがみこんだ。
「まぁ、考えとくわ。文化祭終わった後にでも予定確認しとく」
「お願いね、天元。私、どうしても天元と」
「わかったっつの」
 辟易とした声音の天元が鬱陶しさを隠そうともせずに返事をすると、その数学教師はしばらく黙った。
「じゃあ、今日は帰るね」
「ああ。お疲れさん」
 落胆した女の声が廊下を通り過ぎた後、ふう、というため息が聞こえて、一人分の足音がこちらに向かってくる。
「で、名前は何を盗み聞きしてんだよ」
「天元。気付いてたの」
 やはり天元は只者ではないな、と思いながら立ち上がる。
「俺様を誰だと思ってんだよ」
 ふん、と鼻を鳴らした天元が得意げに私を見た。私は申し訳なさに目を逸らしながら、
「自販機でコーヒーでも買おうと思って」
と言い訳でもあり事実でもあることを口にする。
「まだ残業か?」
「うん。もうちょっとだけ」
「無理すんなよ」
 頭に軽く掌が降る。胸の高鳴りを隠すように、私はその手を振り払った。
「気安く触らないでよ。今はあの先生とセフレなんでしょ?」
 なぜだか震える声が廊下に響く。声が返る様子はないことを確認してから、私は目的地である自販機に向かおうと踵を返した。瞬間。
 逞しい胸の中に抱かれていた。
「なに、天元……放してよ」
「放さねぇよ。お前、俺に言うことあんだろ?」
 もはや懐かしくなった温もりと香りに包まれながら、無意識に息が上がるのを感じてしまう。何でもいいからこの状況から逃れたくて、私は必死に弁じたてた。
「うん、そうだね。この前の飲み会の時はごめんね。飲み会の雰囲気壊しちゃった。せっかく楽しかったのにね。私ももしかしたら酔ってたのかも。でも、あの日言ったように天元もやりすぎだったと思うよ。だって煉獄さんも元カノさんも困ってたし。まぁ結果的に煉獄さんは過去を決別できたみたいに言ってたからよかったのかもしれないけど」
 あとは何を話そうとしていたのだろう。私の動く唇は、天元のそれにより強引に停止させられる。
「他の男の名前は聞きたくねぇ」
 唇を離した天元が、静かに、それでいて有無を言わさぬ口調で告げた。気圧されて思わず頷くと、天元が唇に弧を描く。
「あの教師との仲について、文句の一言でも言いたいんじゃねぇのかよ」
「……言いたいよ」
 キッと天元を見上げる。余裕綽々といったような表情が私を捉えた。馬鹿にされてる、と判断した私の頬が朱に染まる。
「なんでまたセフレなんて作ってるの? 同じ学校でなんて私も気まずいし、やめてよ」
「何が気まずいんだよ。俺の勝手だろ」
「天元がうっかり口を滑らせたりしたら、私とあの先生の仲が」
「そうじゃねぇだろ」
 もう一度天元がキスで言葉を塞ぐ。ちゅ、とリップノイズが耳に響く。
「俺がセフレを作るのが気に入らねぇんだろ」
「……そう思いたければ思えばいいよ」
「素直じゃねぇな」
 やれやれといった様子で肩をすくめた天元が、長い息を吐いた後にこう告げた。
「あの教師とはセックスしてねぇよ」
「え?」
 そんなはずはない、と思いながら目を瞬かせる。
「あいつ、マッサージの資格取ろうとしてるらしくてよ。体格のいい俺を実験台にしてよく色々試してくるんだ。だから、お前が思ってるような関係じゃねぇ」
 安心しな、と言い残した天元が踵を返し、暗闇に溶け込む。
 よかった、と思う気持ちと、何で安堵してるの? という答えのわかり切った問いが胸の中で交差する。
 一本のコーヒーすら入らないほどに胸がいっぱいになってしまった私は、しばらくその場に座りこんでいた。できればあの先生の誘いは断ってほしいな、と思いながら。
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