記憶の中の君は


 先程までの盛り上がりが嘘のような重々しいムードに、私は息が詰まりそうになる。お酒の勢いも加わって、結局煉獄さんの元カノをこの場に呼びつけてしまった天元に、鉄槌を下してやりたいと思う程だ。
 煉獄さん、天元、私、煉獄さんの元カノという奇妙な組み合わせで、私達は改めて杯を上げる。
 それにしても、だ。私は自分の隣の席に腰掛けている煉獄さんの元カノにこっそりと視線を送り、改めてその可愛らしさに瞠目する。煉獄さんは、絶対に外見よりも中身で女性を選ぶタイプだと思っていたが、案外面食いなのかもしれない。いや、きっと煉獄さんが選ぶ女性だ。きっと中身も素晴らしい女性なのだろう。
「それにしても久しぶりだな。最近はどうよ?まだ結婚はしてねえんだろ?」
「宇髄先生、女性にそんなこと聞くのセクハラだからね」
 事情を知らない天元が、あまりにもお気楽な口調で口火を切ったものだから、私は思わず強めの口調で横槍を入れる。
「いいんです、気にしないでください」
 煉獄さんの元カノは品のある笑顔を湛えて私を見る。やはり可愛らしい。こんな笑顔を向けられればどんな男もイチコロなのではないだろうか。
「うん、結婚なんてまだまだ」
「ふ〜ん。でも彼氏はいんだろ?」
「宇髄くん、なんでそんなことまで知ってるの?」
「ふふん。俺様の派手な情報網をなめんなよ」
 天元は鼻孔を膨らませて圧倒的なドヤ顔をしているが、煉獄さんの陽が翳ったような表情を見て、まだそんな態度がとれるものだろうか。
「なぁ、お前ら本当になんで別れたんだよ?もう時効だろ?」
「宇髄、いい加減にしないか」
「んだよケチくせぇな」
 煉獄さんが不機嫌さを凝縮したような低音で天元を諫めるも、逆に天元がイライラしたような口調でビールジョッキを煽った。煉獄さんと元カノを二人きりで残していくことに不安を覚えつつも、これ以上この酔っぱらいをこの席に置いておくのはどう考えても危険だ。
 天元を連れて一先ずこの場を退散しようと、私は自身の荷物を掴む。テーブルの下で天元の脚を軽く蹴って、店を出るよと目で合図した所で、煉獄さんの元カノが辛そうな声音で呟いた。
「全部……私が悪いの。私が、杏寿郎を結果的に裏切る形になっちゃったから」
「…裏切る?」
「これ以上話す必要はないだろう。宇髄、悪いが俺はもうこれで失礼する」
 静かな怒りを眉間に這わせた煉獄さんが立ち上がり、怒気を孕んだ眼差しで天元を見る。まずい。いよいよ煉獄さんを本気で怒らせてしまったようだ。今度は強めに酔っぱらいの脚を蹴り上げた所で、煉獄さんの元カノさんが泣き出した。もう、これ、本当に何の会なの?我が校の剣道部の優勝を祝した飲み会だったのでは?天元、まじで殺す。
「杏寿郎っ、本当にごめんなさい。…私、凄く後悔してる。杏寿郎の気持ちが大きすぎて、プレッシャーを感じちゃったの。だから、逃げたくなってあんなこと…本当にごめんなさい」
 煉獄さんの元カノのめそめそとした言葉が鼓膜を叩く。プツリ、と頭の中で何かが切れた音がした。全身の血が逆上し、頭が燃えるような怒りで熱した私は、立ち上がってテーブルにバンと叩いた。
「あんた達、マジでなんなの!?いい加減にしてよ。まず天元。あんたは余計なこと詮索しすぎ。人には触れられたくない過去の一つや二つあんのよ!親しき中にも礼儀ありって言葉知ってる?それと貴方!煉獄さんの気持ちが大きい?プレッシャー?贅沢なこと言ってんじゃないわよ。自分のことをそんなに思ってくれる人に出会えることなんてね、奇跡に近いことなのよ!自分から逃げておいて、挙句の果てにごめんなさい?後悔してる?冗談も休み休み言いなさい!裏切られた方の気持ちがどんなものか考えたことあるの!?」
 言い終わった頃には、全力疾走をした直後のように息が弾み、肺が激しく上下していた。眼前には鳩が豆鉄砲を食ったような顔――実際は見たことがないのだけれど――をした三人が私を見ていた。周囲からの好奇の視線に加えて、店員の「お客様」という宥めるような声が聞こえると、私の頭は正気に戻り少し遅れて羞恥が込み上げてくる。
「ご、ごめんなさい、私…。本当にごめんなさい!」
 天元はまだしも、初対面の、あろうことか煉獄さんが大好きだった元カノに、一体私は何てことを言ってしまったのだろう。
 途方もない恥ずかしさと後悔に苛まれ思考も停止した私は、今度こそ自分の荷物を引っ掴み、逃げるように居酒屋を後にした。

 肌に感じる温度や、風の匂いが夏のそれに移り変わる頃、すっかり文化祭ムード一色の放課後の校内を、私はのんびりと歩いていた。勿論たださぼっているわけではない。養護教諭としての学校環境衛生巡視という名目があるため、水場や一つ一つの教室を覗いては、手元のチェックリストの「問題なし」に流れ作業でレ点をつけていく。そして、最後に体育館に脚を向けた私は、期待と憂鬱が混じった妙な気持ちになる。心臓が妙な打ち方をして落ち着かない。
 件の、煉獄さん元カノ事件――私はそう呼ぶことにした――があってから、幸運なことに煉獄さんと会う機会はなかった。元々彼は、この学校の教師ではないのだ。私が剣道部と関わることがなければ必然的に会う機会は少なくなる。狂ったように叫び散らしてしまった私を見て、煉獄さんは一体どう思っただろうか。
 放課後の体育館で、ひょっとすると煉獄さんに遭遇してしまうかもしれない。そんなことを考えていた矢先、想像が現実となる。
「苗字さん、仕事中か?あの夜以来だな」
「――煉獄さんっ!!び、びっくりさせないでください」
「む、驚かせたのならすまない」
 体育館の入り口から恐る恐る中を覗き込んでいた私の肩を、背後からとんとんと叩いたのは煉獄さんだった。これから練習に合流するのだろうか、煉獄さんはワイシャツとスラックスという出で立ちでいかにも仕事帰りの様子だ。捲ったワイシャツの裾から見える鍛え上げられた逞しい腕に、思わずどきりとしてしまう。
「お、お久しぶりです。…その、先日は煉獄さんの元カノさんに大変失礼なことを申し上げてしまって。…本当にすみませんでした。私ったら、たまに激高してしまうことがあって。直さないと、とは思ってるんですけど…これがなかなか、はは」
「いや、俺の方こそ巻き込んでしまって申し訳なかった。…後日、彼女と二人で話をしてな」
 煉獄さんが逆に私に謝罪の言葉を述べると、落ち着いた口調で続ける。彼女と二人で話し合った結果、どうなったというのだろう。まさか、寄りを戻すことになったと報告でもされるのだろうか。心臓に刃物が差し込まれたように切なく痛みだす。
「彼女への気持ちに、とっくに整理がついていたのだと気が付くことが出来た。どうやら俺は過去に囚われすぎて、必要以上に臆病になっていたようだ」
「…そうだったんですか。ということは、彼女さんと寄りを戻したわけでは…」
「今の話の流れから、当然そうはならんだろう」
「そ、そうだったんですね!」
 嬉しい事実に不自然に声が上擦ってしまう。想像以上に頬が緩んでいたのかもしれない。煉獄さんが一瞬驚いたような表情を湛えたのがその証拠だ。まずい、と思って慌てて口元を引き締めると、煉獄さんは大きな掌で私の髪を数回撫でた。
「貴方のおかげだ。苗字さんの言葉に、こちらも色々と気づかされた。ありがとう」
 煉獄さんと触れ合っている部分から急速に熱が全身に伝わっていくのが分かる。きっと今、私の耳は真っ赤に染まっているはずだ。
「もう一つ、謝らなければならないな」
「え…?」
「以前苗字さんを、彼女に似ていると言ってしまったことがあっただろう」
 覚えているだろうか、と問いかける煉獄さんに、二人で食事に行った際の車中での出来事を思い出してこくりと頷く。
「あの発言は撤回させてくれ。苗字さんは、彼女とは違う。俺の恋人は、あんなに真っ直ぐに自分の意見を言ってくれる子ではなかった」
「煉獄さん…それはいい意味で捉えてもいいのでしょうか」
「当然だろう。…泣いたり、笑ったり、怒ったり。苗字さんは本当に見ていて飽きない。出来ればもっと色々な貴方を見てみたいものだな」
 煉獄さんの温かな掌が、私の頭から頬に滑り落ちる。触れた部分が、熱く、甘く、痺れる。端正な顔を綻ばせ、殺し文句を残して去っていく煉獄さんの顔を、私は直視出来なかった。

 両手を団扇がわりにして、火照った顔を冷ますように風を送りながら、私は保健室までの復路を急ぐ。煉獄さんの全てに心臓が跳ね回って、とても冷静でいられそうもない。
「苗字先生!校庭で怪我人が、早くきてください!」
 ふわふわとした夢見心地の気分を一気に現実に引き戻す、甲高い叫び声が鼓膜に響く。肩越しに声の方向を振り返れば、女子生徒二人が慌てた様子でこちらに向かって走ってくる。
「何があったの?どんな様子?」
「文化祭用に製作中の看板が倒れてきて、足首を捻挫しちゃった子がいるんです!」
 状況を聞くに、救急隊を呼ぶような緊急事態ではなさそうなことに一先ず安堵し、私は保健室から救急箱を引っ掴み、女子生徒達に案内されて現場に向かう。既に倒れたであろう看板は元の位置に戻されていたが、男子生徒が苦痛に顔を歪めて足首を抑え蹲っている姿が目に入る。どうやら彼が怪我人ということで間違いなさそうだ。
「大丈夫?ありゃりゃ、もう腫れてきてるね。大丈夫だよ、今から応急処置するからこのまま――」
 蹲る男子生徒の隣に腰を落とし、一般外傷時の応急処置でもあるRICEを思い起こしながら、救急箱からアイスノンとテープを取り出していると、悲鳴に似た叫び声が私の耳を貫いた。
「苗字先生!!上っ!!危ないっ!」
 声につられて頭上を見れば、こちらに向かって倒れてくる看板が視界を覆った。
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