魔法をかけて


 SNS事件も無事収束し、私は今までと何ら変わりなく養護教諭としての日常を送ることが出来ていた。心配していた周囲からの反応も杞憂に終わった所をみると、煉獄さんが言っていたように、天元が裏で火消し作業に動いてくれたのかもしれない。改めて彼にもお礼を言わなければと、職員室から保健室まで続く廊下をとぼとぼ歩きながら考える。
「じゃあ宇髄先生、約束ね」
「あー…そうだな。予定確認して大丈夫そうなら連絡するわ」
 階段下の自販機コーナーを通り過ぎようとした所で、今まさに脳裏に思い浮かべていた彼の声が聞こえて、私は思わず足をとめる。壁に隠れてそっと声のする方を覗き込めば、校内でも美人と名高い数学教諭と天元が、ぴったりと身体を密着させている様子が目に飛び込んできた。男女の密会現場を目撃してしまったようで、慌てて顔を引っ込めるも、胸中で燻り始めたもやもやした気持ちを無視することは出来そうもない。自分から天元を突き放したにも関わらず、自分ではない女性と彼が一緒にいると思うだけで劣情が刺激される。
「覗きなんて、趣味わりぃな。苗字先生」
 頭上から天元の声が降ってくると同時に、大きな掌がぽんと私の頭頂部を叩く。上背のある彼を文字通り見上げれば、「何やってんだよ」と言いたげな視線が注がれる。いつの間にか美人数学教師の姿はない。
「べ、別に。それより…早速新しいセフレ?あんな美人な先生捕まえて、相変わらですね、宇髄先生」
「なんだよ名前。まさか、妬いてんのか?」
「そっ、そんなわけないでしょ!?」
 むきになって思わず叫んでしまったことを心の底から後悔する。これでは天元の言葉を肯定してしまったようなものだ。
「そんなにむきになんなよ。冗談だろ、冗談」
 天元が苦笑して私の頭から手をどけると、形容し難い切ない思いに駆り立てられる。もっと彼に触れていて欲しいと思う自分は、一体全体どうしてしまったというのだろう。
「そういや、名前に話があったんだわ」
「話?私に?」
「今週末、剣道部の大会なんだよ。悪ぃけど、また引率頼めるか?」
「え…、それは構わないけど。大会で具合悪くなる子なんているかな?それに大会なら救護所も設けられてるだろうし」
 私絶対に用なしだと思うけど、と呟くように付け足すと、天元は口もとに悪戯っぽい笑みを湛える。
「まぁ具合悪くなるやつはそうそういねぇわな。ただな、名前が来ればさらに張り切る生徒が居んだよ。うちも今年は全国優勝狙ってるからな。そのために煉獄にも協力して貰ってるしな。ま、そういうわけだから宜しく頼む」
 天元の言葉に一瞬心臓が跳ねる。私が来て張り切る生徒とは、やっぱり我妻君のことなのだろうか。天元や煉獄さんの情報によると、我妻君の実力は相当のものらしいし、それを間近で見てみたいという思いが無い、と言えば嘘になる。
「分かったよ、今週末ね」
「助かるぜ。ありがとな」
「…お礼を言うのは私の方だよ。SNS事件のことで、裏で色々動いてくれてたんでしょ?だから私、学校で同僚にも生徒にも何も言われないんだよね。本当にありがとう」
 深々頭を下げた私の鼓膜に、細く息を吐くような天元の気配が届く。
「礼を言われる筋合いはねえよ。今回の件、悪いのは全部俺だ」
 本当によかったと囁くように呟くと、天元はもう一度私の頭を軽く叩いた。

 開会式に出席するという部員達より一時間ほど遅れて、私は会場の門を潜った。全国の選抜を決めるためのかなり大きな大会のようで、会場は想像以上の人でごった返している。見知った顔を探して既に試合が始まっている体育館をウロウロしていると、背後から私を呼ぶ可愛らしい声が聞こえた。
「苗字先生!」
 振り返ると胴着に身を包んだ栗花落さんと神崎さんがこちらに向かって手を振っている。
「栗花落さんに神崎さん!良かった〜なんか人が多くて全然皆のこと見つけられなくて」
 ほっと胸を撫で下ろして二人に駆け寄ると、神崎さんが慌てたように私の手を引き駆け出した。
「先生!遅いですよ!もう男子の試合始まってるんです、急いでください!」
 体育館の二階に設けられた、会場を一望出来る席まで連れて来られた私は、神崎さんと栗花落さんに促されるまま用意された座席に腰かける。眼下では激しい鍔迫り合いが繰り広げられているが、残念ながら面を装着しているため我が校の剣道部員の顔を判別することは困難である。どこがうちの学校なのだろう?と目を皿のようにして体育館中を見回していると、一つ前の席から黄色い声援が聞こえてくる。
「あ、今から出るよ、我妻君!ほら、あそこあそこ」
「本当だ!恰好いいよね〜!私、正直に言うと、四月の練習試合の時から目つけてたんだよね」
「そうなの!?でも競争率高そうじゃない?確か先輩も同じようなこと言ってるの聞いたし…」
 よく知った名前に身体が大げさに反応してしまう。キャッキャと楽しそうに彼の話をする女子高生の集団にそっと視線を移せば、どうやらうちの高校の生徒ではなさそうだ。まさか他校にまで我妻君の名前が知れ渡っていることに驚きだった。だって彼は、まだ高校一年生で剣道部にも入部したばかりだというのに。そして、我妻君がこんなにも同世代の女子高生から人気なことにも驚いた。だが一番驚いたのは、彼女達に嫉妬めいた感情を抱いている自分自身だった。
「苗字先生、ほら、あそこ!我妻君です。最近の彼本当に強いから、多分あっという間に試合を決めて――」
 神崎さんが私の肩を叩いて我妻君の場所を示すも、その一瞬の間に審判の「一本」という声が鼓膜に響いた。目にも止まらぬ速さで試合が終了したため、何が起こったのか全く分からない私は呆然として我妻君であろう人物を見つめる。
「あぁ、ほらもう一本取っちゃいましたよ。苗字先生、次はちゃんと見ててくださいよ。我妻君はとにかくスピードが速いんですよ」
 呆れ返ったように呟いた神崎さんに、私は曖昧な返答をすることしか出来なかった。瞬殺で試合を終えてしまった我妻君がこちらを見ていた気がしたからだ。私は彼から一瞬たりとも視線を外すことが出来なかった。

 大会の閉会式が終わる頃には、外は薄暗くなり始めていた。予想通り本日養護教諭の自分が出る幕は一切なく、結局ただ試合を観戦するに終始した。
 我が校の剣道部は圧倒的な強さで団体戦を制覇して、全国大会へと駒を進めた。その立役者となった人物はどう考えても我妻君だ。結局彼は、個人戦でも総合優勝をはたしてしまった。私はそんな彼の試合から、一時も目を離すことが出来なかった。うるさいくらいに暴れ回っていた心臓は、まるで我妻君に魔法をかけられてしまったようだった。
「好きです!…あの、今日本当に格好良かったです。良ければ…私と付き合ってもらえませんか?」
 帰路に就こうと会場の女子トイレを出たところで、何やら告白のシーンに遭遇する。数日前も似たような場面があったことを思い返しながら、野次馬根性で声の方に視線をやると見知った金髪が目に入ってドキリとする。
「ごめん。俺、好きな人がいるんだ。…凄く好きな人。だから君とは付き合えない。本当にごめんね」
「そうですか…分かりました。…突然すみませんでした」
 我妻君が迷うことなくきっぱりと自身の思いを告げた。可哀想なことにふられてしまった女子生徒が、赤く染まった目を伏せてこちらに向かって走ってくる。まずい、ぶつかる。と思った時にはすでに遅し。想像以上に強い衝撃があり、気が付けば私は尻餅をついていた。彼女は余裕がないのか、「ごめんなさい」と蚊が泣くように呟いて、そそくさと現場を後にする。好きな男性に振られてしまったのだ。辛い心情が推察されて、とても彼女を責める気になれない私の目の前に、にゅっと大きな掌が差し出される。
「名前先生、何してるんですか?こんな所で」
「あ…がつま、君」
「もしかして見てたんですか?」
 決まりが悪そうにこちらを見つめる我妻君の手を取ることが出来ずに逡巡していると、手首を掴まれて強引に立たされる。
「あ、ありがとう…。ごめん、聞くつもりはなかったんだけど、たまたま通りかかっちゃって。あ、それより今日は優勝おめでとう!我妻君て、あんなに強かったんだね。私なんかもう驚いちゃって」
 誤魔化すように話題を変えて恐る恐る我妻君を見上げると、いつになく真剣で熱い眼差しが向けられていた。やっと落ち着いたはずの鼓動が再びそのスピードを速めていく。
「ねぇ名前先生、俺が告白されたの見てどんな気持ちになった?」
「え、何言って――」
「早く言わないと、このままキスしちゃうよ」 
 我妻君が掴んだままの私の手をぐっと自身に引き寄せる。一気に距離が縮まって、熱い吐息が頬を掠める。
「我妻君、ちょ、近い」
「名前先生、もう時間切れ」
「い、嫌だった!………ちょっと、嫌だったよ」
 唇が触れる既の所で、我妻君に魔法をかけられてしまった私の口から、思わず本音が零れ落ちた。
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