揺れる思い


 校長から電話があったのは日曜日の昼時だった。職場へ出向くよう命ぜられた私は、自分の行く末に暗澹とした気持ちを抱えながら、校長に指定された学校の応接室への道を急いだ。本日の職場には来客用の駐車場に多くの車が停まっており、ふと、今日は何か行事でもあっただろうかと考える。記憶を思い起こして答えにたどり着くと、私の吐いた息は溜息の重さになる。今日は確か、四半期に一度のPTA総会の日ではなかったか。
 一昨日SNS事件があったばかりだ。きっと総会に出席したPTA会長が怒り狂って校長に私の解雇を直談判しにきたのだろう。そしてきっと私にも一言文句をつけてやろうと待ち構えているに違いない。嫌な想像ばかりが脳裏を去来し、執務室へ出向く脚がさらに重くなる。
「名前先生?」
 約束の時間まではまだ少し時間があったため、嵐のようにざわつく気持ちを静めようと、階段下の自販機コーナーで熱い缶コーヒーを購入する。すると背後から声をかけられる。慌てて振り返れば、部活終わりの様子の我妻君が僅かに目を見開いてこちらを見ていた。シャワー後なのか、美しい金髪の毛先が僅かに濡れており、妙な色っぽさを醸し出していた。
「我妻君…。部活終わり?大会近いんでしょ、頑張ってるね」
「だってさ、名前先生は強い人が好きなんでしょ」
 それは、私が会話の流れで何気なく言ったあの時の言葉だ。そんなことをいちいち真に受けて、こんなにも努力を重ねている我妻君についついキュンとしてしまう。
「我妻君、凄く強いんだってね。…聞いたよ。昨日私の名誉のために戦ってくれたって。ありがとね」
「…名前先生は?今日は日曜でしょ。…ひょっとして本当に辞めるなんてこと」
「そんな顔しないでよ、我妻君。これは全部私が自分で蒔いた種なんだから。自業自得。…我妻君のことも傷つけて、本当にごめんね」
 眉尻を下げて、叱られた犬のように悲しげにこちらを見つめる我妻君の頬を挟むようにパチンと叩く。
「金曜日のことだけど……高校生だからって理由であんなこと言ったわけじゃないよ。君は、素敵な子だよ。…私はこう見えても我妻君より大人だから、色々な恋愛を経験してるのよ。まぁ、色々あってね。……怖いの、本気で相手を好きになっちゃうのが。裏切られるのが――」
 最後の方は蚊の鳴くように呟いて、ね、と問いかけるように我妻君を見る。すると彼は強い力で私の肩を押し、身体を自動販売機に縫い付けるように押し付ける。高校生といえども、ここ一年で脅威の成長を見せている彼との圧倒的な体格差に、抵抗しようにも私の身体はぴくりとも動くことが出来ない。
「名前先生。俺、絶対に先生のこと悲しませない自信あるよ。そんな過去、俺が忘れさせてあげるよ。だから、だから俺のこと、ちゃんと見てよ」
 噛みつくように口付けられる。SNS事件の渦中の私が、よりにもよって生徒とキスする現場なんて、総会に出席しているPTAに見られでもしたらそれこそ身の破滅。それなのにどうしてだろう。私は彼の口付けを拒めない。一体なぜ、こんなにも胸が高鳴ってしまうのだろう。
 
 結局私は我妻君を突き飛ばし、彼を置き去りにしてその場を去った。あの場合、どうするのが正解だったのか、いくら考えても答えは出てきそうもない。身を切られるような思いで引いた一線を、どうして彼はこうも易々と飛び越えてきてしまうのか。
「失礼します」
「あぁ、苗字先生。来たね、入りなさい」
 我妻君とのやり取りで、余計にざわつくことになってしまった気持ちをどうにか静め、私は応接室の扉を叩く。校長の声が聞こえたことを確認し、私は恐る恐る扉を開けた。
「苗字先生、休みの日にすまないね」
「とんでもないです。ご迷惑をおかけしているのは私の方です。本当にすみません」
「まぁ、とりあえず掛けなさい。その前に紹介しなければならないのが…」
 校長の言葉で、私は自分の推測が正しかったことを確信する。やはりPTA会長が解雇を直談判しにきたのだろう。もういい。どうにでもなれ。教師なんて窮屈なだけだ。そもそも養護教諭に拘らなくたって、仕事なんて沢山あるのだから。
「こちらは、我が校の後援会の会長の煉獄様だ。直接お会いするのは初めてかな?」
 校長から告げられたまさかの名前に吃驚し、私は下げていた頭を勢いよくあげる。そこにはよく見知った姿…に、少し渋み加えた容貌の男性が立っていた。年齢は四十代前半くらいだろうか。彼の正体は、恐らく…いや間違いなく…
「君が、杏寿郎が話していた養護の先生か?今回は随分と大変だったみたいだな」
「あなたは…まさか…煉獄さんの」
お父様?
 私の言葉の続きは、校長の詳細な説明により遮られる。
「こちらの煉獄槇寿郎様は、我が校のOBでね。学校の運営でも様々な方面から援助をしていただいているんだが…。今回はご子息を通じて君の危機を知られたようで、PTA会長に話を通してくださったんだよ」
「えっと、すみません。私情報が混乱してて」
 晴天の霹靂とも言えるまさかの展開に、当然ながら私の脳内は混乱し、縋るような視線を二人に投げる。そんな様子に微かに笑った煉獄さんのお父様が、私の得心がいくように説明を加えてくれる。
「PTA会長は私が昔世話してやった後輩でね。私には頭があがらんのだよ。教師だって一人の人間だ。業務時間外に何をするのも自由だと、私も思う。…それよりも、愚息が世話になっているみたいだね。あいつも色々あって、最近は恋人どころか女性の話もまるで聞かなかったものだから。普段から私に頼ることも滅多にないあいつから、君の話を聞かされたときは驚いたよ。…これからも杏寿郎と仲良くしてやってくれ」
 煉獄さんのお父様が少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そんな…煉獄さんにお世話になりっぱなしなのは私の方で」
「とにかく苗字先生、煉獄様のお陰で今回は勿論お咎めなしだ。そういうわけだから、明日からまた我が校の養護教諭として宜しく頼むよ。なに、人の噂もなんとやらだ。最初は教師も生徒も後ろ指を指すかもしれんが、そのうち気にならなくなる」
 校長と煉獄さんのお父様が、これにて一見落着というような表情で私を見ていた。身に余る処分と心からの安堵で瞼に涙が溜まっていく。零れないように唇を噛み締めて、私はもう一度大きく頭を下げた。

 往路の鬱々とした気持ちが嘘みたいに私のこころは晴れわたっていた。校舎を後にしながら、今回のことを教訓に節度ある行動を心掛けることを、日本晴れの真っ青な空に誓う。そして、今回もまたもや煉獄さんに感謝しなければならない。私は何度こうして彼に助けてもらえば気が済むのだろうか。
――普段から俺に頼ることも滅多にないあいつから、君の話を聞かされたときは驚いたよ
 先ほどの煉獄さんのお父様の言葉が脳裏を掠め、心臓をぎゅっと掴まれたような切ない痛みが走る。煉獄さんは私のことを、どんな風に思ってくれているのだろうか。
「――苗字さん、また会ってしまったな。…その様子だと、父が上手くやってくれただろうか」
 今日はやけにこのパターンが多い、と思いつつも分かりきっている声の主を振り返る。予想通り、恐らく大会直前の剣道部を指南していたであろう煉獄さんが立っていた。彼の溌溂とした笑顔が目に飛び込んできて、胸の締め付けと痛みが増していく
「煉獄さん!直ぐにでもお礼を言わなければと思っていたんです。…その、本当にありがとうございました。先ほど、お父様にお会いしてお聞きました…。本当に、本当にいつもいつも助けていただいてばかりで」
「礼には及ばない。先日の苗字さんの話を聞いて、俺も考えるところがあった。俺は俺の考えで行動したまでだ。それに、君が辞めてしまったら悲しむ生徒も多いだろう」
 煉獄さんから飛び出た「生徒」という言葉に私の身体がピクリと反応する。
「そういえば宇髄も苗字さんをかなり心配していたぞ。あいつは多くは言わないが、今回の件で、彼なりに裏で動いていたみたいだ」
 はたまた煉獄さんから飛び出た「宇髄」という言葉にも私の身体は敏感に反応する。まるで煉獄さんがわざと言っているのではないかと思う程だ。
「苗字さんはもう帰りか?俺も帰る所だ。よければ送っていこう」
 煉獄さんはそう言うと、口元に小さく笑みを浮かべて来客用の駐車場へ向かって歩き出す。突然の申し出に心臓が跳ね、「お願いします」と返して煉獄さんの後を追う。
 どうしたことか、あんなにも本気の恋を恐れていた自分が、三人の男性の間でこんなにも揺れ動いている。こんな私に、果たして煉獄さんの車の助手席に乗る資格があるのだろうか。そうはいっても、煉獄さんへの胸の高鳴りももう抑えようがない。
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