疲れているようだから、と店主の好意で仕事を切り上げるよう言われた私は、まだ日も高い青空の下をのんびりと歩いていた。明日からまた頑張ります、と頭を下げた私の肩を優しく叩いた店主に、今までの罪悪感がこみあげてきた。本当に、明日からはこの空のように晴れやかな気持ちで心機一転働かなければ。
 この前約束を反故にされた橋にたどり着く。相変わらず優雅に鯉が泳いでいた。餌は持ってないよ、と思いながら眺めていると、道行く男女の楽しそうな声が耳に入る。私も一度は煉獄さんと楽しげに街を歩いてみたかった、とあらためて思えば、瞳に涙が滲んでくる。でもそれはもう叶わない。だって私は彼と恋仲でも何でもなかったのだから。
 確かに私は好きだ、愛している、などと眩暈のするような甘い言葉は言われていない。だけれども確かに私を抱く腕に愛情は込められていたと信じたい。たとえその瞬間だけだったとしても。
 悔しい。悲しい。だけど、私は確かに煉獄さんを好きだった。失恋がなんだ。生きていればそれなりに経験する。それより何より、彼に一発食らわせられたことに、胸がすいてしょうがない。もしあそこで煉獄さんを殴れていなかったら、私はきっともっと引きずっただろう。
気分転換に少し先の飲食街まで足を伸ばす。せっかくお暇をいただいたのだ。甘いものでも食べて元気を出そうではないか。
「おっ、名前ちゃん。久しいねぇ」
 顔なじみの店員が私に笑いかけてくる。私は愛想笑いで返して団子と餡蜜を注文した。 店先の座敷で通りの人々を眺めながら注文の品を待つ。
 すると偶然とはなんと恐ろしいことか。煉獄さんが通りかかったのだ。私に気付いた煉獄さんがハッとした様子で立ち尽くす。無言の気まずい空気が流れた。やがて視線を逸らした煉獄さんが立ち去ってゆく。
 と思ったのも束の間、なんと彼は私と同じ甘味処に入り、更に私の隣に腰かけているではないか。何を考えているの? と心の中がざわつくも、何も気にしない風を装い、私はひたすら通りの人々を観察した。
「煉獄さん、久しいですねぇ。あれ、頬赤くなってませんか?」
 喋り好きの店員が煉獄さんの赤い頬に気付いて指摘する。今の言葉からすると、どうやら煉獄さんも割合この店の常連らしい。場合によっては今日がこの店の甘味の食べ収めかもしれないな、と思い、私は水を一口啜った。
「少し仔犬をからかいすぎたのだ」
 冗談とも本気ともつかない煉獄さんの言葉が鼓膜を揺らす。へぇ、仔犬。それって私のことですよね。ものすごく白けた気分になり、私は自身を鼻で笑った。
「お待たせしました」
 店員が私の団子と餡蜜に煎茶を添えて運んでくる。まずは団子を一口頬張って、この凍った心を甘く溶かした。やはり甘味は偉大なものだな、とほっと息を吐いていると、横から私の世界一大嫌いな男が話しかけてくる。
「団子と餡蜜か」
「団子と餡蜜ですね」
「では俺もそれにしよう」
 この人が何を頼もうが知ったことではない。相槌も打たずに私は甘味に舌鼓を打っていた。座敷に至近距離で並んで座っている私たちは、見ようによっては男女の仲に見えるだろうか? もしかしたらこの前反故にされた約束の埋め合わせを、今まさにしてくれているのかもしれない、と都合のいい考えが頭を過ぎる。
「あの日、行こうとしていた甘味が休みだったことを思い出したのだ」
 私は何も答えなかった。空気に向かって独り言を呟く奇人変人として道行く人から好奇の視線を注がれるがいい。先日の死人さながらの自分を思い出しながら餡蜜を一口頬張る。
「連絡しようとしたのだが、ちょうど急な会議が入ってしまってな」
 はいはい、そうですか。頭の中だけで相槌を打つ。それにしたって、今日のあの態度はないでしょう。
「お待たせしました。お団子と餡蜜です」
「ありがとう。……うむ、うまい!」
「……うるさい」
 いつものようにうまいと叫ぶ彼に顔を歪めて抗議する。最初は可愛らしいと思っていたこの癖でさえ、今はとても腹立たしく感じる。今ならあの四人衆の気持ちがわかってしまうから皮肉なものだ。
「すみません。たい焼き追加で」
 挙手して店員に追加注文を告げる。甘いものばかりで胸が悪くなるかと思いきや、この店ではそんなことにならないから不思議なものだ。きっとそれぞれの商品が甘すぎないからだと思う。
「そういえば、店はどうしたのだ? まだ昼の忙しい時間のはずだが」
 まさかとは思うが、この男はまだ私に話しかけているのか? 徹底的に無視を決め込んだ私は、たい焼きが来るまでの間、相変わらず道行く人々を眺めていた。いっそ席を移動しようかと店内に視線を彷徨わせるが、空いているのはこの男の反対側の席だけ。この店も昼時だけあってそうとう繁盛している。
「次に店仕舞いするのはいつだったか。良ければまた送っていこう」
「いえ、結構。あなたに送られるくらいなら下衆男に襲われた方がいいです」
 しつこく話しかけてくる男に冷たく返すと、彼は「むぅ」と小さく呟き、団子と餡蜜に夢中になった。
「たい焼き、お待たせしました」
「ありがとうございます」
 熱々のたい焼きを冷ましながら頬張る。隣にこの男さえいなければもっと最高なのに、と思いながら。
「名前はもう俺のことが嫌いになっただろうか」
「気安く呼ばないでください」
「この前まであんなに俺の腕で可愛く鳴いてくれたというのに」
「その私はもう死にましたので」
 話せば話すほど心が冷たくなっていく。この男に今まで抱かれていたかと思うと怖気が走って仕方ない。何で私はこんな人を好きだったんだろう。どうしてあんなに抱かれたいと思っていたんだろう。
 私は息を吐いて煎茶の湯呑をコトリと置いた。
「煉獄さん」
「何だ、名前?」
 ようやく話してくれる気になったか、というような表情を正面から見据え、私は顔を引きつらせながら口を開いた。
「あなたのことが嫌いです」
 するとどうだ。その瞬間、あまりに悲しそうな表情をするから私まで傷ついたような気持ちになってしまう。私は俯いて座敷に拳を叩きつけた。
「何よ、その顔は!」
「名前……」
「何、傷ついたみたいな顔してるのよ。さんざん人を振り回しておいて。今更、何なの? 離れていくから急に惜しくなった? あんたなんか嫌いよ。当然よね、あんなことしたんだから」
 昼間の反省を活かし、大声を出さないように、少しでも理性的に彼を責め立てる。煉獄さんは困ったように笑った。
「すまない、名前。俺は……」
「あ、煉獄さん! お待たせしましたぁ」
 煉獄さんが何かを言おうとした時、可愛らしい声が空を裂く。見上げてみれば、華やかな着物を身に纏った可愛らしい女性が煉獄さんを見つめている。
「今日はこちらの甘味処に誘ってくださって嬉しかったです。おすすめってありますか?」
「そうだな。ここは団子と餡蜜とたい焼きがうまい」
「どれも大好きですぅ。ね、終わったら行くんでしょ? お蕎麦屋さん」
「もう次の話か? せっかちなことだ」
「うふふ」
 華やかな女性は煉獄さんの向こう隣に座り、彼にしなだれかかるようにして笑顔を振りまいている。絡められた腕と掌から、そうとう親密な仲であることをうかがわせた。
 この期に及んで、まだ自分が愚かな期待をしていたことに気付いた。別にこうして並んで甘味処にいるのはこの前の埋め合わせでも何でもなく、ただ単に他の女性と待ち合わせていたからにすぎなかったのだ。
 もうこんな男は絶対に信じない。私はすでにこちらを見てすらいない男に冷たい一瞥をくれると、席を立ち代金を支払って店を出た。
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