それからも私は煉獄さんが送ってくれる時に限って店仕舞いをし、必ずと言っていいほど彼と交わって帰った。相変わらず煉獄さんとの関係を言葉にしてもらうことはできなかったけれど、いつも愛しそうに抱いてくれることが愛の証明のはずと考える。最初は後片付けをさっさと済ませたことに疑問を持ちはしたが、考えてみれば当然のことだ。この前のような鬼が出るかもしれないのならのんびりなどはしていられない。彼は忙しい身。だから仕方ないのだ、と私は自分に言い聞かせていた。
 そんなことに思考を巡らせながら昼餉の客を捌く。視線はいつでも煉獄さんを探し、今か今かと来るのをそわそわ心待ちにしている。そんな私を見て、店主が言いにくそうに口を開いた。
「名前ちゃん。言いにくいんだが……」
 その時、入り口の扉がガラリと開いた。
「いらっしゃいませ! 一名様ですね!」
 待ちわびた煉獄さんの登場。私は店主の話も聞かずに彼へ歩み寄ると、懇切丁寧に座席へ通した。この席は昨夜も私たちが交わった座敷です。気付いていますか?
 そんな私の思いを知るはずもない煉獄さんは、お品書きに目を通していつも通りの表情だ。少しでもその視線を私に寄越してください。少しでも私に微笑んで。願いは通じることなく、煉獄さんは料理の名前を数品分呟いただけで、口を閉ざしてしまった。
「あの、煉獄さん。今日は甘露寺さんは?」
 注文の品を届けながらなんとか話題を探そうと共通の知人の名を挙げた。最近、二人が一緒のところを見かけない。内心かなり嬉しいと思ってはいたものの、少しばかり気がかりだった。
「甘露寺とは、別々に昼食をとることにしている」
「そうなんですか。何かありましたか?」
「思い当たらんな。急にそう申し出てきたのだ」
 私のせいだな、と内心思い当たるものの、まさか自ら株を下げるような馬鹿な真似をする必要はない。心配そうな表情を作ってみせ、相変わらずの彼のうまい! の叫びを聞きながら私は他の注文を捌いていった。
「名前」
 帰り際に煉獄さんが私を呼び止める。そのひと声に迷わず走り寄った私は、さながらご主人の命令を待つ犬のようだ。惨めだな、と心のどこかで声が聞こえた気がする。
「何ですか、煉獄さん?」
「今日の仕事は何時までだ?」
「ええと……」
 ここで嬉しい様子を見せたら鬱陶しがられるのではないか。ささやかな駆け引きで忘れてもいない今日の勤務予定を思い出すふりをする。
「昼時が過ぎたら今日は終わりです。あと二時間ですね」
「それはちょうど良い!」
 煉獄さんはにっと笑い、私の耳元に唇を寄せた。
「評判の甘味処があるのだ。一緒にどうかと思ってな」
「……行きます!」
「では仕事が終わった頃、向こうの川の橋で待つ」
 彼の姿を見送った私は、約束を胸に、もうひと頑張り、と拳を握り込む。
 殺人的な忙しさが過ぎ去った時、店主がもう一度私を呼び止めた。先ほど私が煉獄さんに夢中で話を止めてしまったことをようやく思い出す。すっかり客もいなくなり閑散とした店内に、歯切れの悪い店主の声が木霊する。私は耳を疑って、もう一度店主に話の主旨を問い返した。
「だからね、名前ちゃん。その、最近の店仕舞いの時、きちんと掃除をしてくれてないんじゃないかと思ってるんだ」
「どうしてそう思われるんですか? 私、机も座敷もしっかり掃除しています」
 店主の指摘に私は気色ばんで問い返した。元より心優しい店主が少し怯んだ様子で言葉を続ける。
「もちろん、名前ちゃんが手を抜くような子じゃないっていうのはとてもよくわかってる。ただ、朝になってみると店の周りが意外に汚れていたりとか、一部の座敷に水が零れていたりとか、そういうことがたまにあるんだ」
「そんな……」
 疑われて傷ついています、といった風に装い目を伏せる。しかし、内心まずい、と感じていた。店主の指摘は最もだ。店仕舞いの時確かに掃除はしているが、煉獄さんが現れれば途中で放り出し、すぐにでも彼に抱いてほしいとしなだれかかっている。座敷の汚れも、さっと済ませた後始末の見落としだろうということは簡単に想像がついた。
 店主は俯いた私におずおずといった様子で語り掛ける。
「落ち込まないでくれ、名前ちゃん。厳しい言い方をして悪かったね。夜は暗いから、汚れやごみの見落としもあるだろうし、仕方のないことだ。座敷もきっと鼠とかが入り込んで汚しているのかもしれないし、もし気付いた時は掃除してくれれば大丈夫だから」
「はい。私、頑張ります。申し訳ありません」
「いいよいいよ、名前ちゃん。じゃあ今日はもう帰って大丈夫だから」
 店主の心優しさに付け込んで、卑怯にも涙で苦境を乗り切った自分に反吐が出る。
 私、いつからこんなになったんだっけ?
 夕暮れの街を歩きながらぼんやりと考える。煉獄さんのこと、甘露寺さんのこと、私のこと。
 ――恋って素敵ですよね。
 甘露寺さんがそう微笑んだのがずいぶん昔のことに思える。
 そう、本来だったら恋は素敵なものだろう。私も煉獄さんに恋をしている。ただし、これが素敵なものかと問われれば、否。
 どうしたらこの恋が素敵なものになるんだろう。煉獄さんに恋していても苦しいだけだ。
 だけど今日は、初めて甘味処に誘われた。私は抱かれるだけなのかと思っていたが、きちんと逢瀬の時間を作ってくれている。きっと彼は今まで忙しくて時間が取れなかっただけだ。評判の甘味処とはどんなところなのか。煉獄さんと一緒ならどんな甘美な味わいになることか。どうして期待に胸を膨らませずにいられるだろう。
 待ち合わせの橋に着いても、まだ煉獄さんは来ていない様子だった。好きな人が相手だと待つのも楽しいものだな、と思いながら、私は道行く人々を眺めた。恋仲と思われる男女、夫婦と思われる男女が輝いて見える。少しの時間の後には、私もこの中に混ざり込み、人々から羨望の視線を送られるのだ。しかも、相手はあの見目麗しい煉獄さんなのだから。
「煉獄さん、まだかなぁ」
 川を見下ろし優雅に泳ぐ鯉を眺める。気付けば辺りは薄闇に包まれ、雨が降り出していた。掌で水滴を受けながら、煉獄さんの身を案じた。何かあったのではないか。急遽任務が入ったのだろうか。
 夜になるまで立ち尽くしても、待ち人は一向に現れなかった。

 とぼとぼと帰り道を行く。今ならあの四人衆に襲われてもいいとさえ思った。だってそうすれば、私に危機が訪れれば、煉獄さんはきっと来てくれるから。
 なぜ彼は来なかったのだろう。私が待ち合わせ場所を間違えていたのだろうか。だが、彼が示す川とはここ以外に思いつかないし、念のためと思って橋を何十往復したかも知れない。裏切られたのだ、と頭の中で思ってはいてもそんなはずない、とすぐに私の中の偽善が反論してくる。きっと彼は急な任務が入ったに違いないのよ。
 確かにその可能性もなくはないだろう。しかしだとしたら、彼は何らかの方法を使って私に知らせてくれるだろうことは明らかだった。あれだけ立派な刀や隊服を支給されていながら何の連絡手段も持たないはずがないのだから。
 雨に打たれた酷い格好で幽霊のように歩き回る私を人々が好奇の眼差しで見守る。おかしいな。本当だったら素敵な恋人と歩いて羨ましがられているはずだったのに。
 飲食街を過ぎればもう間もなく我が家だ。あれだけ甘味処へ思いを馳せていたのに、全く空腹も感じない。ただ一歩一歩、家への道をなんとか進んで、早くこの冷えた体を温めたかった。
「煉獄さん、今日も楽しかったわ」
 疲れ切った脳にその名が響く。私は顔を上げて辺りをうかがった。今、聞こえた。煉獄さんの名前。どこ? どこにいるの?
「煉獄さん……どこにいるの……?」
 すれ違う人々が私を見て悲鳴を上げる。垂れた濡れ髪の隙間から目を光らせて男を探す様は、さながら死臭を放つ西洋の化け物のように見えることだろう。鬼狩りに狩られてもおかしくはない。
「ねぇ煉獄さん。今日もとっても素敵だったわ」
「そう可愛いことを言ってくれるな。放したくなくなる」
「放さないでください。私、一晩中でも一緒にいたい」
「困ったものだ」
 少し離れた蕎麦屋。聞こえる。愛しい煉獄さんと、そこに昨夜の私のようにしなだれかかる女の声。誰、あの女は。甘露寺さんではない。
「そうだ。甘味処、また連れて行ってくださいね。もちろん蕎麦屋も……」
 甘味処? どうして? 私と行くはずではなかったの?
 その女が煉獄さんに口づけるのを見た時、私はガクリと膝をついた。
 どれくらいそうしていたことだろう。何者かにより、座り込む私の頭上に傘が差し出される。
「……ありがとうございます……」
 これが誰かなんてどうでもいい。今はただ、この傘だけが私の唯一の味方であるような気がした。
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