「うまいっ!!」
 昼餉の客で賑わう店内に、ひと際大きな声が響き渡る。店中の大半の客の吃驚した視線が一斉に声の主に集まるも、とうの本人は気にした風もなく熱心に当店自慢の鯛の塩焼き定食を頬張っていた。
 彼、煉獄杏寿郎さんは、私が勤める定食屋の常連さんだった。初めて彼がこの店にやって来たのはもう半年程前になるだろうか。その日も煉獄さんは鯛の塩焼き定食を注文し、今日のように大きな声で「うまい」を連呼しながら、周囲を驚かせていた。勿論私もその一人で、まるで底なしなのではないかと思う胃袋に舌を巻いた。うちの食事を気に入って、足繁く通ってくださる煉獄さんに「すみません、もう少し声を落としていただけますか」と注意を促しに行った回数は数知れず、気づけば私達は互いの名前を教え合う程度の間柄にはなっていた。しかし所詮は客と店員なので、普段から軍服を纏う彼が何者なのか、ということは当然知る由もなかった。
 今日も相変わらず大きな声だな、と苦笑して、私は日課のようになった注意喚起をすべく煉獄さんの座る席に足を進める。彼の話では美味しいものを食している時は、周囲が見えなくなってしまうそうだ。雄々しい見た目に相反して随分可愛らしい一面を持つ彼に会うたびに、何故だが小さな灯りがともったように胸が温かくなるのだ。
「おい、あのうるせぇ客をさっさと追い出せ」
「お、お客様!?」
 煉獄さんの席に辿り着く前に、私はいかにも人相が悪そうな体躯の大きな男性客に手首を掴まれ引き留められていた。
「も、申し訳ございません。すぐに私の方で対応しますので」
「あと、この飯。虫が入ってるぞ!この店は客に虫が入った飯を食わせんのか!?」
 男性客は店中に聞こえるように声を荒げ、座席の卓に置かれたお膳を指し示す。その指先を追うように視線を移せば、確かに男が言うように、天井に向かって湯気を燻らす熱々の吸い物の中に薄墨色の昆虫が浮かんでいた。勿論こんな大きな虫を、作り手が見逃すはずがないので、この男が自身で混入し店側に言いがかりをつけているのは明白だ。沸々と怒りが湧きあがり、首根っこを引っ掴んで店の外に放りだしてやりたい衝動に駆られるが、当然そんなことが出来るはずもない私は、お約束のように平身低頭する。
「お客様、誠に申し訳ございません。直ぐに新しいお食事にお取替えさせていただきますので」
「いや、でもな、食べ物を粗末にしちゃいけねぇ。ここの飯代、ただにしてくれたら今回のことは見逃してやるよ」
 男は脅すような尊大な口調で踏ん反り返った。なるほど。最初からこれが目的だったのかと納得がいき、あまりにも理不尽な要求に私は思わず強めの口調で切り返す。
「お客様。店の主人と相談して参りますので少々お待ちくださいませ。念のため確認させていただきますが、当店はお客様に食事をご提供する前に、必ず二人以上で確認をしております。お言葉ですが、本当にこちらは
「ふざけんなこのあま!!俺が自分で味噌汁に虫入れたとでも言いてぇのか?」
 逆上した男は掴んでいた私の手首を握りつぶすように掴み爪を立て、つばきをまき散らしながら真っ赤な顔で激しい怒声を浴びせてくる。
「いった…くぅ…お客様!やめてください
 手首に走った火箸にでも刺されるような激痛に、喉の奥から呻くような声が漏れる。
「お前の意見なんて聞いてねえんだよ!さっさと店の主人を
女性に手を上げるとは、関心しないな」
 白い羽織がふわりとまって、眼前に逞しい大きな背中が現れる。特徴的な金糸と、凛々しい低めの声は、紛うことなくうちの店の常連客の煉獄さんだ。
「だ、誰だてめぇは!離せ、いっ…!!」
「彼女に謝らないか」
 私の手首を掴んでいた手は一瞬にして煉獄さんにより捻りあげられ、男の顔が苦痛に歪む。
「痛えんだよ!ふざけんなっ!!」
「謝れと言っている」
 煉獄さんが男の腕を掴む手に力を加え、静かな怒りを凝縮したような低い声で言い放つ。有無をいわさぬ鋭い物言いに、男は蛇に睨まれた蛙のように立ちつくし、悔しそうに唇を噛み締めてぼそりと呟く。
「…………悪かったよ…」
「聞こえんな!」
「悪かったって言ってるだろ、もういいだろ、離せよ!!こんな店、頼まれても二度と来ねぇよ!」
 煉獄さんが男の腕を掴む手を緩めるのが分かる。それを見逃さなかった男は捨て台詞を残して脱兎の如く店を後にした。固唾を呑んでことの成り行きを見守っていた店内の客からは、ほっとしたような安堵の溜息と煉獄さんを称賛する声が湧いた。
「名前、大丈夫か?」
 くるりと方向転換し、煉獄さんは私を見下ろしながら心配そうな視線を注ぐ。
「はい。助けていただいて、ありがとうございます」
「いや、元はといえば、言いがかりをつけられたのは俺が原因だろう。いつも君に、食事中は静かにしろと注意を受けているのに。すまないな」
 煉獄さんが申し訳なさそうに私の頭を撫でると、不思議なことに心臓が早鐘を打ち始める。触れてくれた大きな掌が、物凄く熱いような気がした。
「とんでもないです。きっとさっきの客は、最初からお代を踏み倒すつもりだったのだと思います。だからつい私も、かっとなっちゃって」
 私は今更のように痛み始めてきた手首をさすりながら、小さく首を振る。どうやらかなり男に強く爪を立てられていたようで、少量の血が滲んでいるのが目に入った。
「威勢がいいのはいいことだが、あまり無茶をするものではないぞ!む、…出血しているのか、どれ見せてみろ」
 目ざとく私の出血に気が付いた煉獄さんは、私の手首を優しく掴んで自分の口元に持っていくと自身の舌でべろりと舐めた。
「っ…!!」
 熱くざらりとした舌の感触に、私の身体がびくりと震える。
「既に血は固まりかけているから問題なさそうだが、後で消毒はした方がいいだろう」
「…は、はい」
「では、俺は今日はこれで失礼する。代銭は卓の上だ。今日もうまかった!また来る」
 まるで何事もなかったかのように私の手を離すと、煉獄さんは羽織を翻して店を出た。その突風のような速さに呆然としていた私が、経験したことのない胸の高鳴りに気が付いたのは、彼が店を去って暫く経ってからのことだった。

「うむ、今日もうまいっ!!」
「本当ですね、煉獄さん!頬っぺたが落ちちゃいそうです」
 あれから数日後、「また来る」の宣言通りに煉獄さんは店にやってきた。しかし今日の彼は一人ではなく、撫子色のおさげがなんとも可愛らしい妙齢の女性を連れたっていた。煉獄さんと同様に軍服に身を包む彼女は、やはり仕事仲間か何かなのだろうか。とにかく二人は物凄い勢いで本日の定食を美味しそうに頬張っており、その姿は店の給仕としては嬉しくもあり微笑ましいのだが、何故だかみょうに胸が詰まるような気がした。先日の一件があってから、私の心臓は妙な打ち方をしているのだ。
「今日も美味かったと主人に伝えてくれ!それと、いつぞや傷を負ったところは問題ないか?」
 堆く積み重なった二人分とは思えぬ量の善を下げ、食後の煎茶を提供する私に煉獄さんが問いかける。
「は、はい。あの後少しばかり内出血もしましたが、今はすっかり良くなりました」
「そうか!それは良かったな」
 どれ、とまた躊躇いもなく私の手首を掴んで傷の様子を確認する煉獄さんに心悸が早まり、顔に熱が集まる。男性にこうして触れられたことなど、この人生で殆どないのだ。緊張するなという方が無理な話ではなかろうか。 
「あのお」
 一人勝手に赤面する私の耳に、柔らかく可愛らしい声が響く。眼前から聞こえてきた声の主は、当然ながら煉獄さんの連れの女性であり、どういうご関係で?とでも言うように私と煉獄さん交互に視線を走らせていた。
「申し遅れましてすみません。あの、私は苗字名前と申しまして、この店の給仕です。煉獄さんには、有難いことに何度も店に足を運んでいただいておりまして。…その、先日は危ない所を救っていただいたのです」
 撫子色の髪の女性にぺこりと頭を下げ、かいつまんで件の事件も説明する。
「そうだったんですね!私はてっきり煉獄さんと恋仲なのかと
 とんでもありません、と慌てて私が否定するよりも先に、煉獄さんが両手に机を勢いよくついて立ち上がる。昼時を過ぎて閑散とした店内に響いた大きな音に、私と連れの女性は面食らってぽかんと口をあける。
「甘露寺、俺は任務のため先に出る。では、また来る!」
 いつもとは何か様子が違う煉獄さんが、羽織を翻して颯爽と去っていく。甘露寺と呼ばれたその女性と顔を見合わせ首を傾げながら、何か気に障ることでも言ってしまっただろうかと、私は暫く考えていた。
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