「名前、実は貴方に縁談の話がきているの。お断りするつもりだったけど、すっかり体調も良くなったみたいだし。…どうかしら、この辺りで身を固めるのは」
 世話になった定食屋を辞めて少しばかり日が経ち、次の勤め先はどうしたものかと考えていた矢先のことだった。目の前の母は、少し遠慮がちに冊子を差し出して、どうかしら、と伺うように私をみた。写真の中の男性は、お世辞にも素敵とは言えなかった。ここ最近「顔は良い」男に見慣れていたせいだろうか。
「お母さん。縁談なんて、まだ早いよ」
「なに呑気なこと言ってるの。貴方ぐらいの齢なら、子供がいてもおかしくないわよ?ほら、とてもお優しそうな方じゃない」
「でも…」
 かなり齢が離れているんじゃないの?という不服をなんとか飲み込む。よくよく考えてみれば、私を貰ってくれるという人がいるだけでも有難い話ではないか。私が嫁げば両親も安心だろう。今回は、かなり心配をかけてしまっていたし。しかし、自分が慕っているわけでもなければ、見目も好みではないとなると、果たしてこの殿方を心から愛することが出来るのだろうかと不安になる。
「名前、もしかして…先日診療所にいらっしゃった軍人さんと、恋仲なのかい?」
 母は覗き込むように写真に目を落とす私を見る。彼女の瞳は好奇心と期待が入り混じったような色を湛えていた。軍人さん、とは間違いなくあいつのことだ。
「それって、煉獄さんのこと?やめてよ、あんな人と恋仲なんて」
「そうなの…、でも随分名前のこと心配して色々してくれてたみたいだったから。ほら、治療にかかったお代も出していただいちゃったし」
「あのね、お母さん。そもそも私がこんなに大変な目にあったのも、あの男のせいなの。治療費を払ってもらうのも、見舞ってもらうのも、私には当然の権利なの」
 ふん、と鼻をならしてそっぽを向くと、庭の桜の木がいくつもの蕾をつけているのが目に入る。あんなに底冷えする日々が続いていたはずなのに、入院している間に、随分と春が近づいていたようだ。
「そうなの。残念ね。…でもそれならこのお話、お受けしてしまってもいいかしら」
 いいわよね、と目に物言わせる母に、私は黙って顎を引いた。

 春らしい乙女色の着物に身を包み、いつもよりも気合を入れて化粧を施した私は、半歩前からこちらを見る男性に慎ましやかに微笑んだ。
 縁談の話をお受けして、晴れて婚約者となったこの殿方に、私は少しも胸の高鳴りを感じることが出来ないでいた。やはり、齢がかなりはなれているからなのか。それとも、自分の好みではないからなのか。いや、人を見た目で判断するなど愚か者のすることだ。と、心中で様々な思いを巡らす自分に自嘲する。もう縁談の話は受けてしまっているのだから、私にはこの目の前の婚約者と添い遂げるしか道はない。そもそも最初から拒否権はないのだから。
「名前さん、ここの甘味がとても美味しいと評判なんですよ。よければ少し寄っていきませんか?」
「いいですね。私も、甘いものには目がなくて…」
 見覚えのある店構えに、私は一瞬息を呑む。一人音のない水掛け論を繰り広げていた私は、今自分がどこを歩いていたのかもよく分かっていなかった。
 促されるように外の縁台に腰かけると、やはりここは団子と餡蜜とたい焼きが上手い、勝手知ったる店だった。あまり宜しくない展開だ。だってこの店は、私が日本で一番嫌いなあの男も贔屓にしていたのではなかったか。
「名前さんは、何を召し上がりますか」
「あ、えっと」
「どうかしましたか?」
「な、なんでもないんです。ここ、私も時々足を運ぶ甘味処だったので」
「それはよかった。それで、何を召し上がります?」
「じゃあ、私は…団子と餡蜜で」
 諦念の溜息を吐くと、仕方なく私の中では定番化している商品を注文する。一方隣の婚約者は、団子と餡蜜とたい焼きと善哉を注文した。どうやら煉獄さんと一緒で、かなりの大食漢のようだ。そんなに食べるから肥えてしまったのでは?と喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み込む。 
 そもそもこの量を食べたら大半の人は肥えるだろう。煉獄さんが異常なのだ。ここで私は、煉獄さんと隣の婚約者を比べていることに気が付いて、自分自身に眉を顰める。一体なぜ。あんな奴のこと、一瞬たりとも思い出したくはないというのに。
 そうこうしているうちに注文の品が運ばれてきて、私達はそろって甘味を口に入れる。
「美味しい!」
 と、落ちそうになる頬に手をやって笑みを零す私とは対照的に、今度は隣の婚約者が眉を顰める番だった。
「…あまり美味しくないな」
「えっ!?」
 私は耳を疑った。ここの甘味を美味しくないという彼の舌はいったいどうなっているというのだ。きっと煉獄さんであれば、「うまいうまい」と無邪気な笑顔でぺろりと平らげてしまうだろうに。あぁもう、また彼を引き合いに出している。
「あっちの店の方が上手い。場所を変えましょう」
「いや、でも、こんなに注文して残して帰るのも、御主人に悪いですし」
「こちらは客です。構うことはないですよ」
「で、でも、食べ物を粗末にするのはよくないですよ、ね」
「私の言うことが聞けないのですか!?」
 婚約者の語気が強って、所詮女の私は逆らうことは許されないのだと匙を投げたような気分になった。すったもんだの末、重い腰を持ち上げようとした私の脳天に威勢のいい声が降る。
「名前ではないか!よもやこんなところに居たとは」
 足元に翳が落ちる。大嫌いなあいつの気配がした。やはりこの辺りは彼の生活範囲だったのだ。顔を上げるが早いか、煉獄さんは向かいの縁台に腰を下ろす。
「どうしてあの定食屋を辞めたのだ?」
 不満そうな表情を眉間に浮かばせた煉獄さんが、偉そうに腕を組みながら単刀直入に言った。
「そんなこと、煉獄さんには関係ありません」
「心配したぞ。いきなり店主から辞めたと聞かされた時は」
「なんで煉獄さんに心配されなきゃいけないんですが。…私は、もう貴方に会いたくないからあの店を辞めたんですよ」
「む…」
「名前さん、この男は?」
 煉獄さんの登場により、私の手を掴んでいた婚約者の存在をすっかり忘れていた。婚約者は怪訝そうな表情で私と煉獄さんを交互に見遣る。
「俺は、煉獄杏寿郎だ。…君こそ、名前の何なのだ?」
 煉獄さんが不機嫌さを凝縮させたような表情で、私より先に婚約者へ問いかける。何故、煉獄さんがこんな顔をするのか理解に苦しむ。私のことなんて、どうせなんとも思ってないくせに。
「私は――」
「煉獄さんもういい加減にしてください!」
 煉獄さんの挑発的な発言に、買い言葉を返そうとする婚約者の言葉を遮った。二人が少し驚いたように私へ視線を移す。
「煉獄さんは、どうして私の中にずかずかと土足で入り込んでくるんですか。私がどういう気持ちであの定食屋を辞めたか分かりますか?」
「名前…」
「もう煉獄さんと関わりたくないんです。貴方といると本当に碌な目に遭わない。…少しでも私のことを心配してくれているなら、もう二度と私の目の前に現れないでください」
 流石の煉獄さんも二の句が継げないようだった。凛々しい眉が下がり、酷く悲しげな瞳が私を見つめていた。
「行きましょう」
 甘味のお代を置いて縁台から立ち上がった私は、婚約者の手を取り煉獄さんから逃げるようにその場を後にする。食い逸れた甘味を後悔する余裕もない。
 別に、この婚約者と夫婦になることが正解だとも思わない。味の好みも合わなければ、男尊女卑の気も垣間見え、外面だけでなく内面も到底愛することなど出来そうにない。それでも、それでもきっと煉獄さんよりは歓迎できる男だと信じたい。そう思わないと、どういうことか目じりに溜まった熱いものが溢れてしまいそうだった。
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