目を覚まして辺りをうかがう。また知らない場所だ、と思うと同時に、ちょっと前もこんなことがあったな、と思い出した。あの時は煉獄家で目覚めたのだった。今回はどうやら違うらしい。ここはどこかと考えてみても、眠る前に見た病室ではないことしか理解できなかった。
 扉の開く音に目をやれば、蝶の髪飾りが印象的な女性がこちらを見ているのに気付く。視線だけで会釈すると、彼女は口許に弧を描いた。
「やっと目が覚めました?」
「こんにちは、はじめまして。苗字名前です。ここには煉獄さんが連れて来て下さったのですか?」
「はい。ここは私の屋敷です。ご気分はいかがですか?」
「眠る前よりずっと楽になりました。ありがとうございます」
「そうですか」
 彼女は胡蝶さんという方で、煉獄さんの同僚なのだそうだ。ということは恐らく甘露寺さんとも知り合いということでもある。かつて煉獄さんに取りつかれていた魔の日々を知られているのではないかと肝を冷やしたが、全くそんな様子はないようで、私はそのことにひどく安堵した。
「煉獄さんが血相変えて名前さんを運び込んできた時はどうしようかと思いました」
「そんな様子だったんですか。それはお騒がせしました」
「敗血症との診断でしたが、まだ軽症でしたので、元の病院でも十分に治ったと思いますよ。担当された先生が若かったのかもしれませんね」
 あの死ぬほどのつらさが軽症? 私は敗血症の恐ろしさを身を以て知った。煉獄さんも両親も確かに私が死ぬような素振りを見せていた。それとももしかしたら私が大袈裟に弱りすぎていたのだろうか。
「煉獄さんはあなたのことがよほど心配だったのでしょう」
「そんなはずないです!」
 胡蝶さんの言葉を叩きつけるように否定する。そんなはずはない。あの男が、私を心配? あえていうならば、それは。
「あの人はただ責任を感じているだけですよ。いわば、義務ですね。自分のせいで私が刺されたから」
「まあ」
 私が顔を歪めて言うと、胡蝶さんは目を丸くしてくすくすと笑った。
「何か変なこと言いましたか?」
「いいえ。煉獄さんを嫌いな方なんて初めてお会いしましたから」
「そうですか? 最低な人間じゃないですか。私、あの人のことが日本で一番嫌いなんです」
 この前までは世界一嫌いでした、と付け加えると胡蝶さんは苦笑した。
「煉獄さんを嫌いな人はこの世に掃いて捨てるほどいるでしょうね。別に珍しいことじゃないでしょう。だって万人に好かれる人なんているはずないんだから」
「その中でも俺のことを嫌いな人間の筆頭は君だろうな」
 いつの間にか部屋に入って来ていた煉獄さんが私の背後から声をかけた。驚いて振り返ると、いつもの生き生きとした様子の彼だった。意識を失う前に見たあの表情は夢だったのだろう。あの、心配そうな、泣きそうな表情。
「どうもこんにちは。日本で一番嫌いなあなた」
 煉獄さんは私の言葉を微笑みで一蹴して、胡蝶さんに向き直った。
「胡蝶、すまなかった。名前を救ってくれてありがとう。あらためて礼を言わせてくれ」
「お礼なんて。名前さんはあと数日ほど安静にしていれば良くなりますよ。何かあったら呼んでください」
「恩に着る」
 胡蝶さんが羽根のように軽やかに去ると、煉獄さんは私の枕元に立った。
「……助けてくれてありがとうございます」
 人として最低限の義務のために礼を言う。元はといえばこの人が悪いんだけど、ど内心で悪態をついた。
「もうあの店には戻れないだろうなぁ。最近迷惑かけっぱなしだったし、その上何日も欠勤しちゃって……あれ、私が倒れてどれくらい経ちました?」
「三週間ほどだな! だが、心配はいらない!」
「え?」
 私が店を続けられるかどうかに煉獄さんがどう関係してくるのだろう。私は首を傾げて先を促す。
「名前が休みの間、店主に事情を話して俺が代わりに働かせてもらったのだ」
「……え?」
「初めての体験でなかなか楽しかったぞ。ああした世界もあるのだな」
 しばらくその言葉をかみ砕けなくて、脳内で何度も咀嚼した。
 煉獄さんが? 私の代わりに? 定食屋で? ――働いた!?
「……ふっ……あははっ、煉獄さん、何してるんですか」
「むぅ。笑うことはないだろう」
「だって……ふふっ、おかしいっ! 私も見たかったなぁ、その姿」
 煉獄さんといえばあんなお屋敷に住んでいるくらいだからきっと定食屋などで働いたこともないだろうし、恐らく一生縁のない仕事だったに違いない。二度と見れないであろうその姿を見れた人が羨ましくすら感じる。だってきっととても不慣れで苦労したことだろうから。
「名前の笑った顔を久々に見たな」
「そうですか? だって煉獄さんが定食屋なんて、おかしくって……ふふふっ」
「名前がそうして笑ってくれるなら、時間の許す限り定食屋で働くとしよう」
「何言ってるんですか? 私が復帰したらもう煉獄さんの居場所なんてありませんよ。残念でした」
 私が笑うなら、とはどういう意味かと聞きたかったけれど、この男には思い上がりで何度も煮え湯を飲まされている。もう二度と期待もしないし希望も持たない。ただここに運び込んで治療してくれたことだけに感謝しよう。そして私はもう煉獄さんと関わるのはやめよう、と心に誓った。

 胡蝶さんの言いつけ通りに数日間安静にした私は、無事に家に帰ることができた。両親に心配かけたことを謝ってから翌日、私は定食屋に赴いた。
「名前。昨日戻ったばかりでもう働いているのか」
 昼時に合わせてやってきた煉獄さんが、店主と私の顔を交互に見た。張り切って来た様子を見ると、今日も定食屋の従業員として働くつもりだったのだろう。
「はい。昨日までありがとうございました。私は今日から復帰するので、煉獄さんも今日からはまたただのお客様ですよ。ご注文は?」
 席に案内しながら問いかける。煉獄さんはお品書きを眺めていつも通り莫大な量を注文した後は、落ち着かない様子で店内をうかがっていた。
「どうされましたか?」
 いくつかの料理を運びながら、そわそわしている煉獄さんに声をかける。彼は困ったように笑った。
「昨日まで店員の立場だったから落ち着かないのだ」
「お客様として座るのは久々ですもんね」
「そうなのだ。実は料理は密かに口にしていたのだが」
「何してるんですか、だめですよ!」
 その後、煉獄さんは落ち着かない様子を見せながらも料理を次々と平らげていった。相変わらず見事な食べっぷりに清々しい気持ちになる。最後の日にこの光景を見れてよかった、と思いながら私は店を出ようとする煉獄さんに声をかけた。
「お味はいかがでした?」
「うむ。いつも通りうまかったぞ!」
「それはよかった。またいらっしゃいますか?」
「そうだな。この店は俺の贔屓なのだ。来れれば明日にでも来ようと思うが」
「そうですか。では、また今度」
 大嫌いな人だけれど最後くらいは笑顔で見送ってやろうと思い、愛想笑いで手を振る。結局、人の細かな気持ちの機微などわからない煉獄さんは私の行動に疑問も持たずにさっさと店を出ていった。
「すみません。お話があります」
 静まり返った店内で私は店主に声をかけた。
「ここのところご迷惑ばかり申し訳ありませんでした」
 私が頭を下げると、人の好い店主はすぐに慌てた声で返した。
「いいんだよ、名前ちゃん。君のせいじゃないことはわかっているんだから」
「でも、これ以上ご迷惑はかけられませんから」
 私が苦笑して言うと、店主はその先の言葉を察したかのように穏やかに微笑んだ。
「……辞めるのかい?」
 私は頷く。ひどく心が穏やかだった。
 これだけ人間関係がこじれた職場にいるのは、正直なところ辛いのだ。また誰も知らないところで、まっさらに生まれ変わってやり直したいと思う。それに、あれだけ嫌いな人間とこれ以上関わるのは苦痛だし、貸し借りなしになった今が撤退するのにいい時期だろう。
「はい。今までお世話になりました」
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