あの件から一週間と少し、一人で定食屋の暖簾を潜った煉獄さんを見て私は瞼が痛くなるほど目を見開いた。
「…煉獄さん、どうしたんですかその顔?」
 煉獄さんを定食屋の座席に案内した私は、両頬を真っ赤に腫らしてまるで木の実を頬張る動物のようにも見える彼に問いかける。
「俺のしてきたことを考えれば、仕方あるまい。当然の報いだと思っている」
「…もしかして、今まで無節操に手を出してきた女性達にやられたんですか?」
「そうだ!関係を清算したいと申し出た所、先日の名前の比にならない威力で平手打ちをかまされてしまってな」
 大きな声で叫ぶように言ってのける煉獄さんに、私は思わず吹き出した。
「む、何故笑うのだ」
「いや、馬鹿だなぁって」
「馬鹿とは心外だな」
「だって馬鹿ですもん。私、ますます煉獄さんのこと嫌いになりそうです」
「むぅ」
 けらけらと笑う私を見てふてくされてしまった煉獄さんは、私が恋い焦がれていた彼とはまるで別人のようだった。家族や同僚から慕われ頼りにされる根っからの兄貴肌の煉獄さんの素顔は、実は私達が想像しているよりもずっと不器用で臆病な男なのかもしれない。
 それを思うと、本当に、本当に少しだけ可愛く見えてしまったのは、彼が今までの自分の行いを悔い改め行動を起こしたからだろうか。そこに関してだけは評価してやってもよい。「町で一番嫌いな男」に昇格するには、一万歩以上あるけれど。
「それで、今日は何を召し上がります?」
 お客様は神様なので仕方なくおもてなししますよ、と青色吐息の私に煉獄さんは今度は豪快に笑った。ころころと表情を変えるさまは、さながら子供のようだ。
 本日も夥しい量の注文を私に告げ終えると、煉獄さんは思い出したようにこちらを見る。
「今日の仕事は何時までだ?」
「煉獄さんには言いたくありません」
「仕事が終わったら、先日話していた甘味処に行かないか」
「行きません!いいですか、私は煉獄さんのこと許したわけじゃないんですから、馴れ馴れしく誘わないでください」
「だが千寿郎が名前を連れてきて欲しいと申していたのだ。先日の礼が言いたいと」
 うっ、と私は言葉に詰まる。ここで弟の名前を出してくるのは卑怯である。眼の前の男は嫌いだが、千寿郎くんは無下に出来ない。
 仕事は昼過ぎには切り上げられる予定であったが、本日私はその足で自宅近くの医者に掛かるつもりでいた。先日の刺傷部分の治りが今一つで、酷く痛むのだ。少量ではあるが浸出液もみとめている。
 しかし、千寿郎くんのがっかりした顔が瞼の裏に浮かんでしまう。先日の一件できっと深く落ち込んだであろう千寿郎くんを思うと、軍配は彼に上がる。
「……今日は三時前には上がれると思います」
「そうか!それはよかった!丁度小腹が空いてくる時間だな」
「言っておきますけど、千寿郎くんのためですからね」
 あなたと出かけるわけじゃないと言わんばかりの渋面を作った私に、川の橋で待っている、と煉獄さんは苦笑した。

 今日の煉獄さんは、約束を反故にすることなく橋の傍で私を待っていてくれた。端正な顔立ちに加えて上背もあり、何かと人目を引く姿形の彼は、道を行き交う女性の視線を欲しいままにしていた。この人はこうやって屹立しているだけで異性が寄ってきてしまうのだから、心底腹が立つ。
 私もまんまと煉獄さんの手練手管で手玉に取られてしまった。あぁ、嘆かわしい。それでも今日の煉獄さんは、女性の熱っぽい視線に興味を示すことなく私の手をとった。
「ちょっ!触らないでください!煉獄さんと並んで歩くのなんてごめんなんですからね」
 彼の大きな掌を振り払うように肩を回すが、煉獄さんが眉を顰めて私を見る。
「どうしたのだ?」
「どうしたって、何がですか」
「とぼけるな。身体が物凄く熱いではないか」
 図星をつかれて思わず息を呑む。煉獄さんのご指摘の通り、彼が昼餉を済ませて店を後にした辺りから、肩の刺傷が燃えるように痛み、体中の血が凍ってしまったような寒さに襲われた。それはまるで、ひどい風邪をひいた時の悪寒に勝るとも劣らない。
「だ、大丈夫です!煉獄さんに心配されたくなんてありません。千寿郎くんを待たしちゃ悪いから行きますよ」
 言うが早いか、煉獄さんに頭を引き寄せられて、彼の額が私のそれにこつんと重ねられた。「ちょっ…」
「名前、この熱さは異常だぞ!千寿郎のことは気にするな、とにかくすぐに医者に診てもらった方がいい」
 煉獄さんは有無を言わさぬ様子で私を横抱きにして地面を蹴った。この男の腕の中なんてもう真っ平ごめんなのに、熱の篭った私の身体が煉獄さんに抗う気力など、当然あるはずもなかった。
 煉獄さんは、彼の家が贔屓にしているという医者に私を診せた。医者の診察によれば、肩の刺傷が化膿して全身に炎症を起こしているとのことだった。傷の処置が甘かったのだろうか。いずれにせよ、この時代感染症にかかることは命を落とすことに等しい。
「俺のせいだな。本当にすまない」
「本当ですよ…」
 私は入院施設が併設されている診療所の寝台に横たわっていた。私が働きに出るくらいだ。当然ながら苗字家には、私が入院出来るほどの余裕などない。腹立たしいことに、私の大嫌いなこの男が、入院の手配をしてくれたのだ。いや、冷静になって考えてみれば私が刺された元凶は煉獄さんなのだから、このくらいしてもらって当然だ。
「どうして傷があそこまで酷くなるまで放っておいたのだ」
 寝台の傍で腕を組んで仁王立ちする煉獄さんは、私を見下ろし静かに叱りつけるような口調で言ってのける。どうして私が責められなければならないのだ、と理不尽さを覚えつつも、勢いづいて反論する気力も沸かない。
「…別に放っていたわけじゃないです。毎日ちゃんと包帯も変えてましたし」
「痛みもあったのだろう。何故もっと早く医者に掛からなかった」
「今日掛かろうと思ってましたよ。でも煉獄さんが誘うから」
「む…」
「煉獄さんのためじゃないですよ。千寿郎くんを悲しませたくなかっただけです。煉獄さんのことなんてどうでもいいですもん」
「名前…」
「このことは千寿郎くんには言わないでくださいね。彼、きっと凄く自分を責めると思うので」
 煉獄さんの目が瞬く。どういう感情の表情なのかは分からなかったが、続いた彼の声は酷く優しかった。
「名前は……優しい娘だな」
「今更気づいても遅いですよ……」
 悪態を吐く気力は残っていたが、瞼が鉛のように思い。霞がかかったように意識がぼんやりしてくると、煉獄さん越しに病室の引き戸を慌ただしく開ける両親の姿が視界に入った。煉獄さんは私の髪をひと撫ですると、白い羽織をふわりと翻した。

 あれから数週間ほどたっただろうか。残念なことに、私の具合が回復することはなかった。医者が両親に「敗血症」と説明したのを、ぼんやりとした意識の中で確かに聞いた。「敗血症」とは感染症の悲惨な末路だ。日を追うごとに重くなる自分の身体が、死期が近いことを証明していた。
 次第に私を見舞う両親の足が遠のいた。誰しも、人間が確実な死に一直線に向かう様をみるのは辛いものだ。それが自分の身内であれば尚更だ。両親の気持ちは理解出来たし、恨み言を言う気もない。
 そんな中、煉獄さんは毎日私を見舞った。流石に責任を感じているのだろうか。いや、感じてもらわなければ困るのだけど。
 しかしもう私には、彼を責める血気はない。それどころか、毎日どこか怯えたような色を浮かべる大きな瞳が心配で堪らなくなってくる。やはり煉獄さんは、不器用で臆病な男だ。
「…何、泣きそうな顔してるんですか」
 針のように細くなってしまった指先を、私を見下ろす煉獄さんの頬に這わす。死ぬ間際に見る顔がこの男のものとは皮肉なものだが。
「…名前、君はこのままでは助からない」
「そうでしょうとも」
 魂が抜けたような生気のない声で呟く。もう死を受け入れる覚悟は出来ている。別に怖いこともない。
「俺は………君に生きていて欲しい」
 立派な眉のあたりに決意の色を浮かべた煉獄さんが、今までで一番優しく私を抱きかかえる。
「すまないが、ある場所に連れて行く」
「れ、煉獄さ」
「なに、死なせやしない」
 煉獄さんが軋む床板を蹴って歩きだす。どうやら私はまだ、黄泉の国へは行けないようだ。
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