目を覚ました時、しばらくは記憶をさかのぼるのに難航した。知らない景色、知らない空気――知っている声。ようやく、ここが煉獄家なのだと合点したとき、世界一嫌いな男が私の顔を覗き込んだ。
「目が覚めたか。気分はどうだ」
「最悪ですね。あなたの顔を見たから」
「そんな口がきけるなら問題ないな!」
 軽快に笑った煉獄さんを私はさめた目で見ていた。何、笑ってるの? こっちは痛い思いをしてるんだけど。
「あのね、私は……」
「すまなかった。肩の傷の完治には一週間ほどかかるとのことだ」
 一言言ってやろうと口を開いた時。煉獄さんが畳に頭をつけた。最近最低なとこばかり見ていたから忘れていたけれど、きっと本来はこうしたしっかりした人間のはずなのだ、彼は。煉獄さんを慕っている様子の甘露寺さんや千寿郎くんを見ればわかるじゃないか。どうして今まで忘れていたのだろう。
 勢いを殺がれた私は長く息を吐いた。気分がひどく悪かった。
「顔を上げて下さい。あなたが謝ったところで傷が癒えるわけじゃない」
 だけど私は許せなかった。刺された左肩は確かに痛い。でも本当に痛いのはこんな傷なんかじゃない。本当に謝ってほしいのはこんなことじゃない。
 煉獄さんはやがてゆっくりと顔を上げ、すまなそうな表情を作って見せた。
「私が誰に刺されたか、どうして刺されたか……事情はご存知ですよね」
「弟の千寿郎から聞いている。よもや君たちが知り合いだったことにも驚いたものだが――」
「それで、どんな気分ですか? あなたのせいで刺された馬鹿な女を見て」
 私の言葉に沈黙が生まれる。我ながら酷い言い方をするな、とどこか冷静に思うが、私は目の前のこの男が嫌いだった。思いやりのない行動に思いやりのない言葉を返したまでだ。誰にも責められる謂れはないだろう。
「詳しく話してください。私には知る権利があるはずです」
 そう続けると、煉獄さんは先ほどの私のように長く息を吐いた。話すかどうか検討中、といったところか。どこまで私を馬鹿にするのだろう。
「話してくださらないなら千寿郎くんに聞くからいいですよ」
 最後の駄目押しに、さすがに参ったという表情を見せた煉獄さんは、渋々といった様子で口を開く。
「名前を襲ったのは、近所に住む娘さんの元許嫁だった」
「そのようですね」
「元、というのは俺が横槍を入れて破談にしてしまったためだ」
「そこまでは知っています。私が知りたいのは」
 わかっているでしょう? と視線で問うも、その瞳がこちらを見ることはない。
「どうしてそんなことをしたのか、です」
 庭で鶯が鳴く。春の訪れはまだ遠い。ここ最近の気候は、永遠に冬が続くかもしれない、と思わせるほどに寒かった。日暮れなら尚更。果たして雪解けは来るのか。
「……酷く虚しいのだ」
 長らくの沈黙の後、煉獄さんがぽつりと呟く。あまりに静かに呟くものだから、ともすれば聞き逃してしまいそうになる。
「煉獄さんの婚約者が亡くなられたからですか」
 私も驚くほど小さな声で問い返した。静止画をゆっくりと送るように煉獄さんが首肯する。
 哀れな男だと思った。この世のどこにも喪われた愛を求めて女を渡り歩く。それにどれほどの意味があるだろう。それがわからないほどこの人は愚かではないと思っていたのだが。
 いや、善悪の区別もつかなくなるほど、そんなことどうでもいいと思えるほどに、空虚な心を埋めたかったのだろう。理解できなくはない。だが、それでは穴埋め要員とされた女たちの気持ちはどうなるのだろう。そんなことすら、他の女の気持ちすらどうでもいいというほどに婚約者を愛していたのか。
「彼女は、どうして?」
 煉獄さんは振り絞るような声で答える。
「鬼にやられた。俺があと一時間早く着いていたら、彼女は死ななかった。遺体には面影すらなかった。俺は代々鬼狩りの家系という使命感だけで鬼殺隊に入ったが、鬼殺隊としての本当の人生はそこから始まったといえるだろうな」
 静かな空間だった。煉獄さんは過去に生きている人なのだとようやく私は悟る。彼の魂は今を生きておらず、永遠に彼女の面影を求めて彷徨い続けるのだ。虚しい人生。彼の評した通りだ。
「彼女はどんな人でしたか?」
「何故そんなことを」
「いいじゃないですか。聞かせて下さい、彼女のこと」
 ずっと一人でしまっておくつもりですか? 私の言葉に煉獄さんは息を吐く。
「向日葵のような女性だった。いつでも笑顔で明るい、表情の豊かな娘だ。まだそれぞれが小さい頃、千寿郎の方が彼女と結婚したがっていて兄弟喧嘩になったこともある」
「微笑ましいですね」
「ああ。その上、彼女はとてもしっかりしていた。道理に厳しく、曲がったことは許さない芯の強さがあった。けれども過ちを許す優しさもあり、結婚していたら頭が上がらなかっただろうな」
 それからも煉獄さんは亡くなった婚約者の話を聞かせてくれた。彼女はとんだお転婆娘で、走り回り、木に登り、時には家出をし、などで色んな人の手を焼いたそうだ。誰からも人気があった女性であったことは話の中から充分に伝わってきた。後に彼女を襲う悲劇など誰が想像できただろうか。
「彼女のご両親も、彼女の死に絶望して自殺してしまったのだ。亡くなる間際に責められた時はさすがに言葉も出なかった。今でも一言一句覚えている。『鬼狩りのくせにどうしてあの娘を守ってくれなかったの』と……何もかも言う通りなのだ」
 そこまで話したところで、つまらない話をしたな、と煉獄さんが私に水を向ける。
「いえ、聞いたのは私ですから」
「そうであったな! 久々に彼女のこと思い出すと、どうもしんみりしてしまう。どうだ、この後は食事でも」
「行きません」
 即座に答えて、寝かせてもらっていた布団から抜け出した。身支度を整えて、煉獄さんを振り返る。
「私、煉獄さんのことが世界で一番嫌いです」
「むぅ……」
「当然でしょう? あれだけのことをしたんだから」
 煉獄さんに告げると、困ったような表情を向けられる。そんな顔したって許さない。
「だけど、煉獄さんにも事情があるってことだけはわかりました」
「そうか」
「だから、しょうがないから、日本で一番嫌いな男にまで格上げしてあげます」
 私の言葉に煉獄さんは豪快に笑った。いつも通りのらしさを取り戻してきた煉獄さんに、少しだけ安堵する。
「亡くなられた方は、花や虫、動物、他には風や月に姿を変えては生前に縁のあった方々に寄り添ってくれるそうですよ」
 どこかで聞いたありがたいお話を不意に思い出す。亡くなった方々は、そうして私たちをさりげなく支え、励まし続けてくれるのだという。
「ならば彼女は向日葵だろうな!」
「きっとそうですね。笑顔で明るい、道理に厳しいしっかり者……」
 彼女の人物像を想像しながら姿を思い描く。なぜだか真逆の、寂しそうな後ろ姿の女性が脳裏に浮かんだ。
「そんな彼女が今の煉獄さんを見たらどう思うでしょうね」
 私の言葉に煉獄さんの表情が凍った。いつもの笑みはない。困った顔でもない。ただ愕然と、呆然と、彼はその場に立ち尽くした。
「帰ります」
 私は今度こそ踵を返して煉獄家を出た。彼が可哀想な男だった、とわかったことが酷く胸糞悪かった。悲劇を持った人は非道な振る舞いをしても多少の免罪符になるというこの世の風潮に嫌気がさした。亡くなった婚約者の女性は過ちを許す度量があったというが、生憎私はそんなに心は広くない。
 だけど、もしも少しでも悔い改めて反省するのであれば、「町で一番嫌いな男」くらいに格上げしてやらないこともない。
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