あの胸糞悪い小変から数日が経った。あれ以来煉獄さんの来店はない。私と顔を合わせるのを避けているのか、仕事の関係なのかは分からないが、どちらにしても清々する。彼に振り回されない日常は、憑き物が落ちたように清々しいものだった。
「ごめんください」
 週に一度の暇を利用して、私は先日甘露寺さんが連れてきてくれた呉服屋兼甘味処の暖簾を潜る。先日拝借した浴衣をお返ししなければならない。
「あれ、名前さん?」
 女将さんの「いらっしゃいませ」よりも早く私の耳に届いた愛らしい声は、座敷で今日も夥しい数の甘味を頬張っていた甘露寺さんだ。彼女と会うのも先日の一件以来であり、私は慌てて頭を下げるも、彼女の向かいに腰をかける後ろ姿に心臓が跳ねる。大嫌いなあの男の後ろ姿にそっくりな甘露寺さんの連れと思しき人物が、私を振り返りぺこりと頭を下げた。
 女将に粗品と一緒に浴衣をお返ししたところで、甘露寺さんに手招きされた私は座敷に合流する。向かいに座る人物は、煉獄さんをそのままぎゅっと小さくしたような少年だった。どう考えても血縁者のはずだ。もしかすると兄弟かもしれない。
「名前さん、それから大丈夫ですか?」
「…はい。先日は本当にお世話になってしまって、ありがとうございました」
 店員に善哉を注文したところで甘露寺さんが心配そうに私の顔を伺うので、改めてお礼を述べてから向かいの少年に視線をやる。すると甘露寺さんが「あっ、そうでした」という表情を浮かべて、向かいの彼を紹介してくれた。私の予想は見事に的中する。
「煉獄さんの…弟さん」
「はい!煉獄千寿郎と申します!いつも兄がお世話になっております」
 居住まいを正して綺麗な所作で自己紹介をしてくれた少年は、容貌以外はあの男の血縁者とは思えないほど真面目で誠実そうな印象を受けた。煉獄さんの印象も最初はそうだったかもしれないが、そんなことはもう過去のことだ。
「私は苗字名前と申します。こちらこそ、煉獄さんにはお店を贔屓にしていただいていて…」
 心にもないことを言う自分の声が相当不機嫌で重々しいものになっていたのかもしれない。眉を顰めてこちらをうかがう二人が視界に入り、私は無理やり声の調子をあげる。
「と、ところでお二人はどうしてこんな所に?」
「私達もたまたまお店で会ったんですよ。千寿郎くんは呉服屋に用があって、私は今日もここの甘味が食べたかったので」
「はい。この呉服屋は煉獄家も贔屓にさせてもらっていて、着物や羽織の仕立てをお願いすることも多いのです」
ね、と二人は顔を見合わせて笑い合った。
「それにしても、名前さんに会えるなら、煉獄さんも誘えばよかったですね」
 私の気持ちを勘違いしている甘露寺さんが意味深な視線を送ってくる。彼女の中の私は「煉獄さんを慕っている女」になっているのだ。早急にこの汚名を返上しなければならない。「…兄は忙しい人ですから。誘ってもきっと来られないです」
 仮にも煉獄さんのご兄弟がいる前で、甘露寺さんにどう説明しようか思考を巡らせていると、千寿郎くん――勝手にそう呼ぶことにする――が煉獄さんとそっくりな顔に翳を落とし寂しそうにぽつりと呟いた。
「千寿郎君…」
 思わず甘露寺さんと同じ間合いでその名前を呟くと、千寿郎くんは眉を下げてぽつぽつと話始めた。
「最近の兄はとくに忙しそうです。時々、本当に自分の知る兄なのかと疑いたくなるくらい自暴自棄になっていることもあって…。あ、でも私のために何とか時間を作ろうとはしてくれるんです!兄は凄く面倒見がいいし、剣の稽古もつけてくれますし…」
 千寿くんが努めて明るく振る舞い話題を変えたのが分かった。甘露寺さんも千寿郎くんも煉獄さんを買いかぶりすぎだ。あんなに下劣な男はそうそういない。私が彼にされたことの数々を今ここで暴露してやっても構わない。
 そう思っていたのだが、千寿郎くんが物悲しげに微笑む様子を見ると、胸が抉られたみたいに切なく痛んで、とても言葉を紡ぐ気にはなれなかった。

「それじゃあ、千寿郎くん、名前さん。また会えたらお茶でもしましょう」
 お茶をすませて三人仲良く店を出ると、甘露寺さんが私の自宅とは逆方向に去っていく。彼女が身を置く環境を知ってしまったからこそ「また会えたら」という言葉が重く響いた。しんみりとした気持ちで遠くなる甘露寺さんの背中を見つめていると、千寿郎くんが行きましょうと声をかけてくれる。はからずも煉獄さんの弟さんと肩を並べて帰路につくことになってしまった私は、千寿郎くんにばれないように小さく息をつく。出来ればもう煉獄さんとは関わりを持ちたくないのだけれど。
「定食屋に来る兄はどんな様子なのでしょうか?」
 私の心中を当然ながら知る由もない千寿郎くんが、無邪気な顔でこちらをみる。こんなに目をきらきらさせて問われてしまえば、私も答えないわけにはいかない。本当に兄である煉獄さんのことを慕っている様子だ。私の知る煉獄さんと千寿郎くんの兄である煉獄さんは、本当に同じ人物なのかと疑念すら浮かぶ。
「ええと、煉獄さんはですね、いつも美味しそうに食事を召し上がってくださいます。お食事の量がとても多いので、お店としては有難いですが忙しい時は大変ですね」
当たり障りのない事実を口にして、なんとかこの場をやり過ごす。
「あとは、危ない時に助けていただいたことが何度かあります。この間もお店の客で…」
 一体私はこの少年とどこで別れればいいのだろう。この話をいつまで続ければいいのだろう。にこにこと嬉しそうに兄の様子を聞く千寿郎くんに申し訳なさを感じつつ、頭ではそんなことを考える。
「――最近の煉獄さんの所のご長男、どうしちゃったのかしらねぇ」
 私と千寿郎くんは思わず顔を見合わせて足を止める。声の方に視線を向ければ、御婦人たちの井戸端会議が繰り広げられており、その渦中の人物がどうやら煉獄さんのことのようだ。私たちに気が付く様子のないご婦人たちは、声を潜めることもなく話を続ける。
「本当よねぇ。小さい時はあんなに素直でいい子だったのに」
「男前に成長したのが良くなかったのかしらね。だって、今日も中村さんの家の娘さんと蕎麦屋に入る所見かけたわよ」
「私も、一昨日高橋さんの娘さんとの逢瀬を見ちゃったのよ」
「やっぱりお母様が亡くなられたのが良くなかったのかしらねぇ」
 御婦人達の話に顔面が蒼白する。何故なら、千寿郎くんに聞かせていい話ではなかったからだ。正直煉獄さんにどんな噂がたとうと知っちゃこっちゃない。自業自得だ。しかし千寿郎くんはどうだ?こんなにも兄を慕っている純粋無垢な少年を、絶望の淵に追いやるには十分な情報が会話の中で飛び交っていた。
「千寿郎くん、もう行きましょ――」
「あら、お母様がお亡くなりになったのは随分前よ。ほら、あの子よあの子。なんでも不慮の事故か何かで亡くなったっていう許嫁の子。あの子が亡くなってからじゃないかしら」
 千寿郎くんの腕を取り、直ぐにこの場を立ち去ろうとした私をご婦人の言葉が食い止める。
「そうねぇ。確かにあれはお気の毒だったわね。結局死因はよく知らないけど、四肢や頭がちぎれて酷い状態のご遺体だったって噂よ」
「あらやだっ!まだお若いから気持ちのやり場がないのね。まぁ、それにしても無節操じゃないかしら」
「そのうち刺されてしまうかもしれないわね」
「兄上を悪く言うのは止めてください!!」
 強烈な井戸端会議に呆然自失としている間に、千寿郎くんは私の腕を振りほどきご婦人達に割って入っていた。
「あ、あらやだ、あなた。千寿郎ちゃん」
「ご、ごめんなさいね」
「兄上を侮辱しないでください!!」
 千寿郎くんの顔に感傷の色が浮かぶ。穏やかな口調が尖り、小さな体は怒りに震えている。なんてことだ。大切なご家族にこんな顔をさせるなど、やはり煉獄さんは最低な男だ。
 まさかの千寿郎くんの登場により慌てたご婦人たちが、ごめんなさいねと呟いて、そそくさとその場を後にする。
「千寿郎くん…」
「すみません、名前さん。こんな情けない姿をお見せしてしまって」
 無理やり作り笑顔を貼り付けた千寿郎くんが私を見る。その目尻にはうっすらと光るものがあり、こちらまでやりきれない思いになって息が詰まる。私は千寿郎くんの視線に合わせて小さく首を振り、その腕を再びとって歩き出した。

 どのくらいの時間こうして歩いたのだろうか。私の自宅へと分岐する道はとっくに通り過ぎており、ここがどこなのか、千寿郎くんが暮らす煉獄家に近づいているのかすら分からなかった。千寿郎くんが何も言わないところを見ると、きっと間違ってはいないのだろうけど。
 先程から顔に翳を落とし一言も発しない千寿郎くんに何と声をかけるのが正解なのだろうか。しかしさっきのご婦人達の話も気にかかる。
――不慮の事故か何かで亡くなったっていう許嫁の子
――四肢や頭がちぎれて酷い状態のご遺体だったって噂よ
 もしこれが事実なのだとしたら、煉獄さんが受けた心的外傷は相当なものだ。かといって彼がしていることが正しいとも思わないのだけれど。思考の渦から抜け出せず、胸に溜まった息を吐きだした私の耳に、怒気を含んだ男性の声が響く。
「おい、貴様、煉獄とかいうやつの弟だな!?」
 私の暇は椿事しか起こらないのだろうか。私達の行く手を阻んだのは、激しい怒りの形相を湛えた若い男だった。額には青筋が張り、目尻が恐ろしい程吊り上がっている。そしてあろうことか、手には物騒なものが鈍く光った。これは相当にまずい状況だ。
――そのうち刺されてしまうかもしれないわね
 先程のご婦人の言葉が蘇り、成程言いえて妙だと感心するもそんな呑気なことを考えている場合でもない。
「貴様の兄貴が、俺の婚約者を寝取ったんだよ。おかげで俺の縁談は破談だ」
「っ…」
 じりじりと間合いを詰める男の激しい怒りに気圧されて、私達はその場に立ちすくむことしかできない。
「意味分かるか糞餓鬼!」
「そ、そんなの千寿郎くんは関係ないでしょ!?文句があるなら兄貴に直接言いなさいよ!」
 私は決死の覚悟で反論するも、激昂した男には火に油だった。きっと煉獄さんには手も足も出なかったのだろう。悔しそうに唇を噛んだ男が憤激の雄たけびを上げて、私達に飛び掛かる。やられてしまう、と思った瞬間、私は咄嗟に千寿郎君を抱えんでいた。鈍い音とともに、肩に杭を刺されたような激痛に襲われると、私の意識はそこで途絶えた。
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