あなたを知りたい
どうしようと思った。こんなに胸がざわめいているのは自分だけだという気がする。隣に座っている蓮汰の顔を見ようと思うことすら恥ずかしかった。できるなら早くこの時が過ぎてくれればいい。
雪菜は頬に熱が集まるのを感じて僅かに俯いた。
あなたを知りたい
「あぁ……っ」
画面の向こうから、女性の艶めいた声が聞こえてくる。
雪菜は今、雪菜の家で蓮汰とDVDを見ている最中だった。兄は仕事で、両親もいない。蓮汰と二人で過ごせる時間は久しぶりなので、雪菜は今日のデートを楽しみにしていた。
しかし、さきほど一緒に借りに行った話題のDVDを見た雪菜は固まってしまった。まさかこのように生々しい濡れ場があるとは思ってもいなかった。
洋画を甘く見ていたのかもしれない。
しかも重要なシーンであるようで、さきほどからそこばかりを重点的に繰り返している。どうも恋人のことをよく知りたいなら肌を重ねるべし、といった話らしい。唇を重ねたことはあるが、それ以上はない自分達にとって、このようなシーンは些か刺激が強すぎる。
陶器人形のように白く滑らかな女性の体がぴくりと反応を示す度、ごめんなさいと謝りたくなってくる。
「あっ!」
男性が愛を囁いている合間に、一際甲高い声が耳をつく。大切な人の全てを愛せることはなによりも素晴らしいことだと思う。これもそういうシーンなのだと理解できるが、気まずいものは気まずい。シーンが終わったのはいいがベッドの中で全裸で抱擁しあっているので、どうにも終わった気がしない。いつ女性が喘ぎ声を発してもおかしくない流れだ。
洋画はスケールが違う……そう思い、それとなく俯いたままでいると、隣からどこか心配したような蓮汰の声が聞こえてきた。
「雪菜? どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
いきなり名前を呼ばれ、びくりと肩が跳ねた。夜道で誰かに声をかけられたような反応だ。蓮汰が相手だというのに、なんだか自分でもおかしかった。
びくびくしながら視線を持ち上げる。いつもと変わらない鳶色の瞳と目が合った。
「な、なんでもないよ、心配してくれて有り難う……」
自然と声が震えた。平然としている蓮汰が少しだけ羨ましい。
蓮汰も雪菜が大丈夫じゃないと気がついたようだった。童話に出てくる王子様のように整った顔が僅かに強張り、眉間に皺が刻まれる。
「雪菜……! 顔も赤いし、やっぱりどこか悪いんじゃっ!」
蓮汰の手が、雪菜の存在を確かめるように手の甲に触れた。ひんやりとしたその手に、心の奥底まで見透かされてしまう気がして、冷や汗をかいてしまった。
蓮汰がなにか言おうと唇を動かしたとき。蓮汰の声を遮るようにテレビ画面からまた声が聞こえてきた。
「あ!」
画面を見なくても、二人が今なにをしているか容易に想像がついてしまった。蓮汰の重みを受けている方の手が、その声を聞いてびくりと震える。雪菜の動きに気付いた蓮汰は全てを把握したらしく、色素の薄い瞳が見開かれていくのが分かった。慌てた様子で重なった手が離れていく。
「あ、わ、悪い雪菜!」
端正な顔が赤く染まっていく。そのことに気付いてしまったため画面を直視できなくなったらしく、そわそわと視線を動かしており落ち着きがない。
蓮汰の顔を眺め、カーペットを軽く握り締める。
「ううん、わたしこそ……ごめんね。なんか、慌てちゃって」
同じく落ち着きなく返す。カーペットに視線を落としふっと考えた。
蓮汰と恋人になってから、それなりの時間が経過している。恋人になる前は幼なじみ同士だったのだから、蓮汰は雪菜の人生に欠かせない存在だ。雪菜がいじめにあっていた時も一番に気がついてくれた。こんなにも自分のことを理解してくれている蓮汰のことを、自分はどれほど理解しているのだろう?
関係の長さからある程度は理解しているつもりだが、一つだけ雪菜には分からないことがあった。それは蓮汰の体だ。サッカー部なだけに人よりも焼けたその体が、何に喜び、何を嫌うのか一つも知らなかった。
体を繋げれば、よりその人を理解できる。
さきほど女性が語っていた言葉を思い出し、思わずごくりと唾を飲み干していた。
自分はもっともっと蓮汰を理解できるのだ。それはなんと魅力的なことなのだろう。
そのためには――。
「……蓮ちゃん」
勇気を出して、蓮汰の袖に腕を伸ばしている自分がいた。その手は蓮汰が着ているセーターをつまんでいる。
雪菜の呼びかけに気がついた蓮汰が、顔をこちらに向ける。
「ん?」
蓮汰が小首を傾げる。
テレビからは滑らかな英語の発音が聞こえてくる。いつの間にか、普通のシーンに戻っているようだった。それでも構わなかった。
「あのね、笑わないでほしいんだけど……」
「雪菜の言葉を笑うわけないだろ。なんだ?」
画面から視線を外した蓮汰が身体をこちらに向けてくる。蓮汰の言葉を嬉しく思う反面、一層気恥ずかしくなったのも確かだ。
「私、蓮ちゃんのこと……その、もっと知りた……い……の」
恥ずかしくて恥ずかしくて、後半は蚊が鳴くような声で伝える。自分と目を合わせていた蓮汰の瞳が、それを聞いて僅かに開かれる。この状況で、雪菜の言葉の意味が分からないような蓮汰ではない。理解したい――それがどのような意味か分かっているに違いない。
だからこそ驚いているのだ。雪菜が切り出すなど、かけらも思っていなかったのだろう。
「駄目、かな……?」
頬に熱が集まるのが分かりながら、蓮汰の様子を窺うように言う。まじまじとこちらを見つめてくる蓮汰の視線が少し痛い。
部屋の中を沈黙が包んだ。
「雪菜……雪菜がそう思ってくれて嬉しい。オレも、雪菜をもっと知りたい」
慎重に一言一言言葉にする蓮汰を見て、胸の中に温かな気持ちが押し寄せてくるのが分かった。
雪菜は張り詰めた糸が切れたかのようにへにゃりと蓮汰にもたれ掛かり、微笑を浮かべて返す。
「蓮ちゃん……ありがとう。好き」
自分を受け入れてくれた蓮汰が嬉しい。肩から伝わる僅かな体温が余計に嬉しかった。
「オレも好きだ、大好きだ、雪菜」
優しく、太陽のように明るい大好きな人の笑顔。それに安心感を覚え、雪菜は全てを蓮汰に委ねるようにふっと目を閉じた。
唇に柔らかな感触が触れたのはそれからすぐだった。
誰も家にいないとは言え、服を脱いで裸になるのは恥ずかしい。蓮汰も服を脱ぎ、思ったよりもがっしりとした肉体を露にしたため恥ずかしさも増してしまった。思えば蓮汰の裸を見るのは幼稚園ぶりな気がする。一つ、蓮汰を知れた気がして嬉しかった。
改めて向き合い触れるだけの口づけをしばらく交わしていると、雪菜の肩にそろりと蓮汰の手が乗る。壊れ物を触るように慎重な手は蓮汰も緊張しているからなのだろう。彼らしくない動作が少しだけ可笑しくて、くすりと笑いが漏れてしまった。
「……なんだよ」
雪菜をカーペットの上に寝かせていた蓮汰が、僅かに目尻を赤く染め拗ねたように言ってくる。
「なんでもないよ」
笑顔で返すと、背中に固いものが触れるのが分かった。横になったのだろう。
「雪菜、痛くないようにするけど、もし少しでも痛かったら言えよ。分かったな?」
念を押してくる蓮汰が嬉しかった。自分を気遣ってくれているのだと分かる。蓮汰も緊張しているはずなのに人を気遣えるなんてそう出来ないことだ。胸の中に温かな感情が流れてくるのが分かり、強張っていた体からゆっくりと力が抜けていく。
「うん、分かった」
小さく頷くと、小ぶりながらも形のいい雪菜の胸に蓮汰の手が触れた。自分の体を誰かの手が這うなんて初めてだ。蓮汰の触れているところからぴりぴりと不思議な感覚が伝わってきて、少しだけ痛痒い。
「ん……っ」