二次創作 | ナノ


  政務官の不祥事(シンジャ・マスシャル)




シンドリアは、世界中見ても他にない平和な国であることは、一度訪れれば分かる事実である。
そして、その平和はシンドリア国王であり、七海連合の長――七海の覇王と称されるシンドバッドと、シンドリアの守護を任せられる八人将により作られたものだ。
シンドバッドの冒険書は世界中で親しまれる冒険書であり、誰しも読めばシンドバッドに魅かれ、一目見てみたいと思うだろう。

七海連合をまとめあげるその統制力、迷宮を最初に攻略した武力、八人将や国民から絶対的な指示を受けるその人徳。
どれをとっても、右に出るものはまたといないと言えよう。
――しかし、そんなシンドバッドにも、暗いものが潜んでいることを、誰も知らないのだ。

ある一人の、部下以外は。




暗い愛





「終わっ…た」
シンドバッドの気まぐれのせいで増えた仕事をなんとか片付けたジャーファルは、机に伏して蚊の鳴くような声で呟いた。
部下の文官達もぐったりとしているが、ジャーファルは部下達を徹夜させず休ませるために、自分が仕事を多く持ったため、三日連続の徹夜である。
「ジャーファル様、お茶をどうぞ」
「ああ、すまないね…」
イムチャック族であるジャーファルの部下の女性から茶を受け取り、それを飲むと身体を伸ばし、大きくため息をついた。

ここ最近、政務官の仕事は増える一方だ。
心配した部下や八人将たちから言葉がかかっても、仕事はやり遂げる。――それが王への忠誠の証。
シンドバッドも信頼しているからこそ、国の政務をジャーファルに任せているのだ。
それが嬉しくて、つい、いつも我武者羅に仕事をしてしまう。
しかし今はそんな事を考えられる余裕も無く、三分に一度は自分の仕事が多くなる元凶であるシンドバッドに対し恨み節を呟いてしまうほど、ジャーファルは疲れていた。
重症だな、と自嘲しこめかみを押さえると、最後の一枚の書類にサインをした。

「…寝てきます。君たちももう下がりなさい」
「はい」
書類を片し、部下にそう声をかける。ジャーファルの目の下のある真黒な隈の存在を知る部下達は、早く自室にお帰りください、と急かした。
無論、本人もそのつもりで、覚束ない足で紫獅塔に向かう。今すぐ寝台に横になりたい――ただそれだけを考えていた。
いたのだが。

「ジャーファル!仕事は終わったか!」
「…シン様」

快活な笑みを浮かべながら歩いてきたシンドバッドは、ジャーファルの肩を抱き寄せた。
しかし、仕事を増やす元凶に爽やかに声を掛けられても、たとえそれが自分の君主で会っても、今ばかりは快く相手にできそうにない。
ただでさえそんな心理状況であるにも関わらず、目の前の主はとんでもないことを口にした。

「よし、飲みに行こう!シャルルカンも誘うか!」
「嫌です」
「え〜〜」
しらっと王をあしらったジャーファルは、拗ねるシンドバッドを突き放した。
「まだ夕方でしょう」
「もう夕方だ。ジャーファルも最近仕事続きだし、息抜きは必要だろう?」
「眠いんです」
「…徹夜したのか?」
「あれだけ多ければそうなりますよ!」
「…しかしお前、俺との約束はどうした?」

そこまで押し問答を続けて、以前シンドバッドに「俺が禁酒する代わりに徹夜禁止」を打ち出されたのを思い出した。
シンドバッドは僅かに怒気を滲ませている。
それだけ王は自分を心配していると言う事なのだが、素直に喜べず内心舌打ちした。なんとか正当化するために言いわけしようと口を開く。

「あの、シン。今回は仕方なくですね…」
「俺はお前が仕事終わるまで禁酒してたんだぞ?」
「…」
にやにやしながら言われ、頭にかっと血が上った。元凶がいけしゃあしゃあと!
「仕方ないでしょう!第一仕事が増えてしまったのはシンのせいなんですよ!」
「うむ、それはすまないと思っている。だが約束は約束だ」

譲る気がないシンドバッドは、ようやく酒が飲めると楽しみにしていたのだろう。
だが、それはそれ、これはこれだ。
「わかりました。酒を飲みに行っても構いません。店には私から言っておきます。ですが、私は同行できません」
「俺はジャーファルと久しぶりの酒が飲みたいのだが…」
「そんなこと言っても騙されませんよ」
何を騙すって言うんだ!心外だぞジャーファル!と喚く王にため息を吐く。
こうなると、シンドバッドは担いででもジャーファルを連れて行こうとするだろう。勿論、いつもならば簡単に逃げられるのだが、今は何せ三日連続徹夜中。シンドバッドと追いかけっこをする元気はない。

「…はぁ、わかりました。お供しましょう」
「うんうん、大丈夫だ。無理はさせない」
「いいですか?すぐに帰りますよ?すぐにです」
「そ、そんなにすぐか?」
「はい」
満足げに頷くシンドバッドと共に、街に出る。シャルルカンは誘ったのだが、今日は武官との稽古がハードで疲れたと言い自室に行ってしまった。
いつもなら、どれだけ疲れていようとシンドバッドの奢りならばついてくるのに、と不思議に思うが、わざわざ世話の掛かる人間を増やすのも面倒で何も言わなかった。
「あの、どちらに?」
「安心しろ。お前が休める場所にするからな」
「…はぁ」
爽やかな笑顔にさえ、今はうんざりしてしまう。きゅんとしている余裕すらない。
確かに国営商館ならば王の使用に金はかからないし、個室制の場所もある。しかし、今のジャーファルは酒を飲んでしまえば卒倒してしまいそうな程くたくただ。
酒癖のわるいシンドバッドをおいて、自分が眠ったりしてしまう事は避けなければならない。
ジャーファルは酒を飲まない事を固く誓って、商館へと足を踏み入れた。






「…ん」
清々しい目覚めだった。
しばらく眠っていなかったせいか、柔らかい布団で朝を迎えると、窓から朝日が差し込み、其れを浴びながら背伸びをする。なんとも穏やかな気分だ。
そして、ぼうっと窓から空を見ていたが、暫くして我に返った。

――ここはどこだ。
寝台から起き上がり、周囲を見渡すが自分の自室ではない。
その上昨日シンドバッドに同行し、酒を勧められてからの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。普段あまり悪酔いしない性質であるにも関わらず、だ。
しかし、自分の状況異常に気になって仕方がないのがシンドバッドの事だ。
普段はジャーファルが性病など身辺調査を行った女性をなるべくあてがってはいるのだが、今回はジャーファルの監視の目が無い。
酒を飲んだシンドバッドが、どんな不祥事をしでかしているかと考えると、ジャーファルは先ほどの清々しい目覚めなどふっとんでしまっていた。

しかし次の瞬間、其れ以上の衝撃がジャーファルを襲った。

「お目覚めですか?ジャーファルさま」
「え…」
頭を抱えていると、背後から聞こえてきた女性の声。身体が硬直した。入口は自分の目の前に見える扉だけの様に思える。そして背後は、寝台のみだ。
まさか、とぎこちなく後ろを振り返ればそこには、娼館の娘と思われる女性が寝台の上でシーツをかぶっていた。
「えぇっ…」
「あの、ジャーファル様?」
「あ、え、ちょっと…すみません」
自分の腕に眷族器がないこと、服が飲みに行く際着用していた官服ではないことに気づき、焦る。まさか――自分が不祥事を起こす側に回る事になるなんて。

「あの…もしや、ジャーファル様は昨日のことは覚えておいででないのでは…」
「……も、申し訳ありません!」
ジャーファルはその場で頭を下げたが、女性はふふ、と笑っただけだった。

「これが私の仕事ですので…その、ジャーファル様も…男性なんですね…」
女性の言葉に、身を切られる思いだった。自分がまさか女性とこんなことになろうとは。出来れば信じたくない現実だ。
酔ったからと言って、自分が娼婦と寝るような軽薄で呆れた人間だなんて思っていなかった――考えているうちにシンドバッドの顔が脳裏によぎったがそれは置いておいて――。
「こ、ここはどこでしょうか」
「商館の中でございます。シンドバッド様とお飲みになられて…ジャーファル様が寝てしまわれたので私が介抱していたのですが、その…」
顔を赤らめて話す彼女に顔から血の気が引いた。

性欲なんてものとは無縁だった自分が、こんなことをしてしまうだなんて。
それも、よりによってシンドバッドといる時に。

ジャーファルは少なからずシンドバッドに対し、尊敬とは異なる感情を抱いている。そのあたりの女性がシンドバッドに抱く思いよりも、余程強く、長く。
しかし男同士である現実と、自分が従者であることから想いを押し殺していた。

そんな自分が、女性とことに及んでしまうとは到底思えないのだが――。

「(どう考えても…事後だ…)」
空気や女性の身体を見て、確信してしまった。確実に自分と女性は関係をもってしまったのだと。

「服は、洗いにだしましたので…。あっ、ジャーファル様お仕事が…」
「あ、ああ、はい。えっと…その、すみません」
気付けばもう朝儀に向かわねばならない時間になっていた。
「いえ、仕事ですから」
にっこりと笑う彼女は、肌の色も髪の色もジャーファルによく似ていた。それに少し違和感を感じながらも、官服と眷族器を纏い商館を後にした。

シンドリア国民ならば、性病などの病気は持っていないだろうが、一応身元を控えた方がよかっただろうに、と自分を責めたが、ジャーファルはどうしても彼女の名前を聞けなかった。
聞いてしまうと、今後元の自分として生きていけないような気すらしていた。


「はぁ…」
「ジャーファルさん」
「うわっ!?」
商館を出て暫くして、突如現れたマスルールに度肝を抜かれる。もしや自分が商館から出てきたところを見ていないだろうか、と冷や汗をかいてしまった。
「ま、マスルール。どうかした?」
「ジャーファルさんが朝儀に来なかったんで、シンさん含め全員大騒ぎなんスけど」
「え…」
「ジャーファルさんが朝儀さぼったのなんて初めてじゃないスか」
「あ、ああ…」
マスルールに苦笑いし、ごめん、と謝りつつも内心穏やかでない。

シンドバッドは、自分が商館に泊ったことを知らないのだろうか。知られる事が恐ろしかった自分としては、嬉しいような気もするのだが、ジャーファルはどこか引っかかりつつマスルールと共に王宮へと戻ってきた。
「ジャーファル殿!ご無事でしたか」
「ああ、うん。心配かけたね、スパルトス」
「いえ」
スパルトスに出会い頭に心配の言葉をかけられ、何故かジャーファルは罪悪感に打ちひしがれていた。
女がらみの不祥事など、シャルルカンやシンドバッドならしょっちゅうやらかしているし、ジャーファルだけが駄目と言うわけではないが、自分が二人と同じように周囲に心配と迷惑をかけた事は、ジャーファルにとっては問題だ。
「…その、シンは」
「王でしたら、もう執務室にいらっしゃっています」
「そ、そう」

なんとなく顔を合わせ辛いが、今日は王の証印がいる書類の処理がある。
「…ジャーファルさん、顔色悪いスけど」
「え、ああ、ごめん…」
ジャーファルは悶々としつつ、執務室に入り執務を行った。国政を担う政務官として、たとえ自分が修羅場にあろうとも仕事はやりぬかねばならない。

「あの、ジャーファル様。今朝はどうなされたのですか?」
茶を淹れてもってきた部下に尋ねられ、ジャーファルはぴたりと手を止めた。女性である部下に下世話な話が出来る筈もない。
「ええ、と…」
「ジャーファル様が、その、紫獅塔ではなく街からいらっしゃったと、噂を耳にしまして…その…」
うわーーー!とジャーファルは叫んで逃亡したくなった。どうやらジャーファルが朝方町から帰ってきた事は王宮内で噂となっているらしい。
普段なら有り得ない政務官の朝儀欠席から、尾びれ背びれのついた噂が飛び交っているであろう事は確実だ。ジャーファルは内心頭を抱えつつ、にっこり部下に微笑んだ。

「貴方達に心配させたくありませんから、詳細は話せないのですが…どうしてもと言うなら」
「いえ!そんなことは!」
ジャーファルはいかにも「訳あり」を装って、しおらしく見せた。
「ただ、ジャーファル様が朝儀を欠席されるなど、なかったことですので。余程の事があったのではと…」
ありました、余程の事。とはいえず、ジャーファルは、心配をかけてすまなかったね、と穏やかにほほ笑む。
「大丈夫ですよ。貴方達に迷惑はかけられません。それより、書類が出来たので王の執務室へ行ってきます」
「はい…」

部下達は安心したような顔を見せていたが、どこかやはり心配しているようだった。ジャーファルは良心の呵責に耐えながら、なんとかシンドバッドの執務室へと足を踏み入れた。
「し、失礼します。王よ」
「ああ、ジャーファル!心配したんだぞ、朝までどうしていたんだ?」
やはり何も知らない様子のシンドバッドに、何を言っていいやらわからなくなってしまった。
普段散々シンドバッドの酒癖の悪さを責めている自分が、やらかしてしまったと言いだせるはずもない。書類を渡すと、やんわりと昨夜のことを尋ねた。
「シン、昨日のことなんですが…」
「?お前、酒を飲んだ後先に帰ると言ったのに、どこに行っていたんだ?」
「――先に帰った?」

とうとう自分がわからなくなってしまった。
酒が入っていたとはいえ、三日連続徹夜していたとはいえ、普段気にかけている酒癖の悪いシンドバッドを置いて自分が帰るふりをして、娼館に行くなどあり得ない。何かの間違いだと思いたかった。
しかし、シンドバッドが嘘を吐いている気配もなく、ジャーファルは混乱するばかりだ。
「え、あー…その、不審な男を発見して、尾行していたら朝に…」
「何?不審な男だと?」
ああ、何言ってるんだ私は、と思いながらも、不審な男を尾行し朝までかかったが、結局何もなかったとスラスラ説明した。嘘をつくのにももう慣れたものだが、流石に胸が痛んだ。
何より自分の主を騙している事に、心がくもっていく。

「そうか。大丈夫なのか?」
「え?何がです?」
「いや、お前。それなら四日連続徹夜ってことになるだろう」
ジャーファルはしまった、と思ったが既に遅い。
「今すぐ自室に戻って休め。身体に障る」
「し、しかし…」

実際は気持ちのいい目覚めだったわけで…眠気のかけらもない。しぶっていると、シンドバッドが柔らかい笑みを浮かべた。
「大丈夫だ、仕事なら俺がやろう」
「し、シンがですか!?」
シンドバッドが自ら仕事をしようと申し出た事に、ジャーファルは腰を抜かしそうになる程に驚いた。そこまで自分の身体を案じてくれていたとは――罪悪感に胸がじくじくと痛む。
「大丈夫です。仕事はもうすぐ終わりますから!その後、すぐに寝ますから…」
「本当か?ジャーファル、お前…」

顔が近付き、心臓の鼓動が速くなる。まさか気付かれたか、と思うが、身なりは完ぺきに整えているし、情事をにおわせるような痕跡は一切ない。
「…し、シン様?」
「また少し痩せたんじゃないか?」
「えっ…」
「ちゃんと食事をとっていないだろう。少し早いが昼食に向かおう。どうせ朝も食べていないだろう」
小食のジャーファルを心配しての、シンドバッドの行動に胸がきゅっとなる。そして同時に、自分がシンドバッドを騙している事がたまらなくなった。
しかしやはり言いだせず、そのままシンドバッドとの食事を終えたジャーファルは、仕事を片付け自室に戻った。

寝台の上で、眠くも無いのにただひたすら目をつぶっていた。
罪悪感から逃れるために――シンドバッドの、あの優しい笑みから逃れるために。




いつ、自分の起こした不祥事を、あの夜のことを気付かれるかと、最初は気が気でなかったが、仕事の忙しさから記憶が薄れ、気がつくと三年が経過していた。
誰にもあの夜のことは知られることはないが、いまだに朝起きた時の記憶は脳裏にこびりついている。生まれて初めての体験だったのだから仕方がない。

しかし、アラジン達に出会い、食客として迎え入れた年。
ジャーファルは煌帝国へ向かった王の代わりに執務をこれまで以上にこなし、彼女とのことを思い出す暇などなくなっていた。

そして煌帝国からシンドバッドが帰還して、数週間後。

「ジャーファル、最近新設した孤児院に視察に行こうと思うのだが」
「孤児院ですか?」
「ああ、バルバッドに行く前に設営を決めた施設があっただろう」
シンドバッドの要望に、スケジュールを確認し頷く。
シンドリアは家族単位で亡命してくる難民は多いが、親をなくしたまだ小さな子供も中にはいる。その子供たちを育てるためにシンドバッドがいくつか孤児院を設立している(勿論ジャーファルの手配あってのことだが)。
そのうちの一つが最近完成したので、視察をしたいということだった。
「わかりました、仕事は大丈夫です。それにしても、この時間にシンがきちんと仕事を終わらせているなんて珍しいですね」
「うん?ああ、そうか?」

シンドバッドの仕事量は決して少なくはない。真面目に取り組んでも多くの時間がかかることもあるのだが、なんと今日は昼前に仕事を終わらせていた。
「…そんなに視察に行きたかったのですか?」
懸命に仕事に取り組む理由としては、些か不自然ではあった。普段シンドバッドは仕事を早めに終わらせるのは飲みに行く約束がある時や、宴がある時だけだ。
「そういう訳ではないんだが…まぁいいじゃないか。ジャーファル、お前も同行してくれるか」
「私もですか?わかりました」
仕事の少ない時期なので、命を聞き二人で街へ降りたが、二人とも昼がまだだったので、街の食堂に入ることになった。

「いらっしゃいませ!シンドバッド様、ジャーファル様」
「俺は魚介類の蒸し焼き、ジャーファルには貝類のスープ、それとパンを頼む」
「はい!」
「ちょっとシン、勝手に…」
「どうせこれだろう?」
食堂に入り勝手に注文をしたシンドバッドに文句を言うが、確かに頼もうとしていたもので黙ってしまう。

よくよく考えれば、ここ数年のシンドバッドにはどこか違和感があった。シンドバッドは昔から気さくだし、ジャーファルの事もよく理解している。それなのに、どこか違うのだ。
――どこか、甘い。
ジャーファルに向ける目もそうだが、幸せだと全身から語りかけているような気さえする。そういえば、最近外遊びも減って、女性との不祥事も起きない。

まさか良い人でも出来たのだろうか。

「ジャーファル?冷めるぞ」
「…シン」
「うん?どうした」
指摘されるまで、運ばれてきた料理に気付かず、見つめ続けていたジャーファルは、ぼうっとしたまま尋ねた。
「最近…いい人でも出来ましたか?」
「ぶはっ」
シンドバッドは頬張っていた白身魚を吹き出してしまった。
「汚いですね…」
ささっと片付けていると、シンドバッドが信じられない、と言う目でジャーファルを見ていた。

「…なんです?」
「お前、最近俺が外に遊びに出ていない事は知っているだろう?」
「夜にはそうですね。ですがたまに昼にお出かけになるので、そこで珍しく健全なお付き合いをなさっているのかと…」
「…そう思うのか?」
そう言われ首を傾げた。シンドバッドなら女性を口説き落とすのもお手の物だし、肉体的な関係を持つのも簡単だろう。
それもこれも、恐らくは本人に”結婚の意思”と”恋愛への意欲”が無いからではないかとジャーファルは考えている。しかし、健全的なお付き合いに関しては全く想像できない。
例えば、シンドバッドがこんな風に――ジャーファルと一緒の時の様に隙のある緩んだ態度をとるとは思えないし、相手と気軽になんでも話すとも思えない。

「…最近貴方が幸せそうなので、そうではないかと、少し考えただけで…」
「幸せそうに見えるか?」
シンドバッドがあまりに嬉しそうな顔をしたので、ジャーファルは呆気にとられてしまった。
「見えます、なんというか…全体的に」
「そうか…、まぁ、なんだ。もうすぐ、ずっと欲しかったものが手に入りそうなんだ」
「?欲しかったもの、ですか?」

訳が分からず聞き返す。何もかもを手に入れてしまったシンドバッドには、今はもう殆ど物欲がないと言える。それなのに、欲しい物があったとは、と驚いてしまった。
ジャーファルは、それを知らない。シンドバッドの事ならば、いつでも察せるようになっていたつもりだったが――ここ最近のシンドバッドには、謎が多すぎる。
まさか、煌帝国で姫と何かあったのでは。
「…」
色々と詮索したい自分に内心首を振る。
駄目だ、ただの従者が、王にあれやこれやと聞くものじゃない。

「?ジャーファル、どうした?」
「なんでもありません」

食べ終わって二人、施設に向かう道すがら、何故かひそひそとこちらを見ながら話す周囲の声が聞こえた。
王を前にして、このようなことは今迄なかった。普段は黄色い声をあげる女性が、今は何故か訝しげにこちらを見ている。目が合うと顔を真っ赤にして、目をそらしてしまった。
「なんなんでしょうか…」
「どうかしたか?」
「…皆の様子がおかしいので…、ああ、着きましたよ」
「おお!ここか!」

坂道の途中にある大きめの建物には、小さめの庭があり、そこで子供たちが遊びまわっていた。
「王様だ!」
「シンドバッドさまー!」
小さい子供たちがシンドバッドめがけて突進してきた。
ジャーファルはどうにかしようとしたが、シンドバッドは子供を抱き上げぐるぐる回したりと実に楽しそうにしている。
「シン!」
「まぁいいじゃないか!お前は施設の責任者と話して来い。実情を詳しくだ、足りないものがあれば控えておけ」
「はぁ…分かりました」

ジャーファルはため息を吐きながら、施設内に入った。
小奇麗な内装と、子供たちが書いたであろう”シンドバッド王”の絵に心がなごんだ。
「子供か…」
ジャーファルは、無類の子供好きである。庭で遊びまわるシンドバッドが羨ましい限りだ。昔は子供なんて、と思っていたが、マスルールやシャルルカンが小さい頃世話をしているうちに、自然と子供好きになっていた。
自分がシンドバッドに思いを寄せている限り、子供なんてできないだろう。そう考えると少し寂しい気持ちになった。
叶わぬ恋をしている上に、子供も望めないのだ。

「ジャーファル様、よくぞお越しに…」
「あ、はい」
奥の部屋から出てきた施設の責任者は、初老の女性だ。子供に好かれそうな人物だな、と一目で確信する。こういった人材は貴重だ。
「何か困ったことはありませんか?資金は足りていますか?」
「大丈夫です。王のご加護のお陰で、子供たちも順調で…。…あの、ジャーファル様」
「はい?」

茶をだされ、飲みながら話を聞いていると、責任者に思わぬ一言を掛けられた。
「…ジャーファル様は、その、三年ほど前に女性と関係を持った、ということはございませんでしたか?」
がしゃん、と茶の入った容器を落としてしまった。
「……ジャーファル様」
その反応は肯定と同じだった。
しかしジャーファルは、何故目の前の孤児院の責任者が、そんなことを知っているのか訳が分からず、ただただ混乱していた。

「…あの、その…何というか…」
「……」
「私も、その、若くて…酔っていて…その…何故…?」
「…こちらにどうぞ」
戸惑い絶句していたジャーファルを部屋に案内した責任者は、ある一人の子供を指さした。
「あの子なんですが…」
「…はい」
「以前、娼婦の娘が生んだ子で、その子が病気にかかり育てられないからと、最近来た子なんですが…よく見てください」

ジャーファルはおそるおそる、その子供の顔を見た。
愛らしくぱっちりとした黒い目、陶磁器のような白い肌、珍しい灰色の髪。

その子供は、ジャーファルにそっくりだった。まるで生き映しの様に。




シンドバッドは子供の無邪気な姿を見ながら、ジャーファルが出てくるのを待っていた。
「ジャーファルにも、これくらいの時があったんだよなぁ…」
2歳ほどの、よちよち歩きの赤ん坊を抱き上げながら呟く。シンドバッドはジャーファルの幼いころを知っているが、もう暗殺者としての道を歩んでいる児童期からだ。
「見てみたかったな…」
「うー?」
ふにふにの頬をつついてやると、きゃっきゃと笑う子供は愛くるしい。しかし、自分にとって何より愛しいのは、美しい女性でもなければ、わが身でもない。

立ち上がり、施設の方をちらりと見た。
「ジャーファル遅いな…」
「ジャーファルさん?」
「ん?」
ジャーファルの名前に反応した一人の少女に、シンドバッドが振り返る。

「どうかしたのかい?」
「うん…あの、王様…」
少女は顔を真っ赤にしてシンドバッドを見上げていた。可愛らしいその姿に、頬が緩む。
「ジャーファルさんって、彼女さんいるのかなぁ」

少女はまだ10歳程だったが、えらくませたことを言ってシンドバッドを笑わせてくれた。しかし、心外だとばかりに少女の顔は真っ赤に染まり、ぎゅうと自分の来ている服の裾を握っている。
「真面目に聞いてるんだよ!」
「ははは、すまない。君はどうして、そんな事を聞くんだ?」
しゃがんで少女の顔を覗き込むシンドバッドは、傍から見れば王様として似つかわしいが、シンドリア国民は親しげな素晴らしい王だと絶賛している。
少女も王と間近で話せてうれしいだろう、と大人は思うところなのだが――少女は固まっていた。
シンドバッドの瞳から逃げられない事に、半ば絶望しながら、その恐怖と闘っていた。

「あ…おう、さま?」
「どうしてかな?」
「…っ、あの…」

笑顔であるにも関わらず、怒りと何かどろどろとしたものの滲むその瞳に、少女は理解が出来ないが――それでも、シンドバッドが現在、いつもの明るく素晴らしい王ではないことは分かった。
じり、と足を後ろにさげたとき、少女の目に緑色の影が映った。
「シン…、そんな小さな女の子まで手を出すおつもりですか?」
「ジャーファル!話は終わったか!」
少女は、足から崩れ落ちてしまった。威圧感がぷつりと途切れたおかげで、身を支配していた恐怖も緩和される。何より、ジャーファルが来たことが安心できた。

「それで、何か問題はなかったか?」
少女に向けていた目とは打って変わって、その美しい瞳には明るい光を宿している。そして少女は気付いてしまった。
王様は、ジャーファルさんをとられたくないんだ、と。

子供のような執着心を持つシンドバッドに。

少女はいまだ、と思い急いで建物の中に入った。不思議に思ったジャーファルはその姿を目で追った。
「今の子に何かしてませんよね」
「馬鹿言うな。俺があんな小さい子に手をだすと思うのか?」
「……わかりました。それはいいとして…見てください!この子を!」

ジャーファルはヤケクソ気味に、自分の背後に待機させていた子供を抱き上げ、シンドバッドの目の前につきだした。
その姿を暫く凝視し、ようやくシンドバッドが言葉を漏らす。
「…じゃ、ジャーファル…だな」
「やはり似てますか…。…私の子供かもしれません」
「はぁ!?なんだと?お、お前…いつのまにこんな、大きな子供を!」
「そんなに大きくありません!まだ2歳くらいです!」

シンドバッドのオーバーリアクションに、庭を覗いていた野次馬が騒ぎ始めた。ひそひそ噂をされていたのは、この施設にいるジャーファルそっくりの子供を見かけていたからだろう。
しかし、ジャーファルはもう吹っ切れてしまったようで、子供を抱きかかえて言い放った。

「この子の母を探してみます。責任を取らなければなりませんし…」
「待て、ジャーファル。其れ以前に…誰との子供だ?いつできた?聞いてないぞ!?お前が女性とそういう関係を持った事があるとは」
「王に自分のシモの話なんてするわけないでしょう!…恐らく、三年前に…。詳しくは王宮に返ってからお話ししますから。とりあえず帰りましょう」
「あ、ああ…。…連れて帰るのか?」
「当然です」

ジャーファルはふわふわした子供の髪を優しく撫でた。クリクリの黒い眼がじっとシンドバッドを見つめている。シンドバッドは我慢できず、手を差し出した。
「…なんです。この手は」
「俺も抱きたい。だってお前…お前の子だぞ?」
「だからなんだっつーんですか」
「可愛すぎる。このちょっと愛想のない感じが昔のお前そっくりだ…」
「…」

抱きかかえると、子供はぺたぺたとシンドバッドの頬を触ってから、くたりとシンドバッドに身体を預けて眠りだした。
「…!」
シンドバッドは何故か感激に撃ち震えた顔をしている。
「…重くないですか?」
「大丈夫だ。それにしても、ジャーファルに似ているなぁ」
「…相手の方も同じような髪色でしたし…」
「そうなのか。まぁソレは帰ってからな」
「はい…ああ…もう…なんでこんなことに…」

八人将がこの子供を見たらどう思うのか、考えるだけで恐ろしい。スパルトスなど、ジャーファルを妙に”神聖”で”性と関係のない人物”だと思っている節が時々あるため、卒倒しないか心配だ。
ピスティやシャルルカンはジャーファルをからかうだろう。

「…アラジンたちにはどう説明すれば…というより、本当に私の子なんでしょうか…」
「ヤムライハやアラジンにルフを観察してもらえばいい。…ただ、俺はお前の子だと思う。似すぎてる」
「……そうですか」
出来れば、皆には暫く隠しておきたかったのだが、シンドバッドがいうならば仕方がない。

シンドバッドが腕に抱いている幼子を見た者は、その幼子があまりにもジャーファルに似ていることから、事情を察する者もいたが、中には「王様と政務官殿の子供では」などと有り得ない噂も飛び出す始末である。
「ジャーファルさんが小さくなったー!」
「お前…」
「すみませんすみません!冗談です!!」
大袈裟に驚くシャルルカンに、ジャーファルが眷族器を構えたところで、シンドバッドが子供を抱えたまま会議室の椅子に腰かけ子を膝の上に載せた。
子供はそのままじっとしている。

「…誰の子スか」
会議場に集まった八人将たちは、まじまじと子供を見つめ、ジャーファルと子供を交互に見た。
見れば見るほどそっくりだ。
「ジャーファルがシンドバッドより先にガキ作るとは思わなかったな」
「ヒナホホ殿、そんな、まさか…ジャーファル殿が子作りなど…そんな…」
「スパルトス君現実をうけとめたまえよ」
ピスティがからかうようにそう言った後、ふにふにと子供の頬をつついた。

「かわい〜!ジャーファルさんにそっくり〜、で、いつ産んだんですか?」
「私が産めますかっ!」
「え、じゃあ誰との子なんですか?」
「…わ、わからないんです」
場が沈黙する。
誰も何も言わなかったが、八人将の頭の中では「あのジャーファルが、自分が行為に及んだ人間を把握していないなんて…」という驚きが広がっていることだろう。

腹をくくったジャーファルが、三年前の出来事を掻い摘んで説明した。皆が驚いた様子だった、ジャーファルが酒に酔って不祥事、それも女性関係を起こすなど考えられない事だからだろう。
関係を持った女性がジャーファルとよく似た髪色だったことも説明したが、顔立ちがジャーファルに似すぎていて、それは然程状況を瓦解できる事実ではなかった。
「つまりジャーファルさんの子かもわからないってことスか」
「あ、うん、まぁ…ヤムライハ、私のルフとこの子供のルフは似ているかい?」
「そうですね…子供でまだ成長過程なのでなんとも…。ただ根本的な部分は似ているように思います」
「…そう」

がくりとうなだれたジャーファルの腕の中で、子供がもぞもぞと動いた。短い足を動かす愛らしい動作に、ヤムライハはほう、と溜息を吐く。
「流石ジャーファルさんのお子さんだけあって可愛らしい…」
「だろう?俺も一目見た時から美人になると思ってるんだ」
「…美人?えっ、この子供は女児なのですか?」
スパルトスの問いに頷くシンドバッド。ジャーファルはそんなやりとりを見て、頭を押さえた。

「女の子は父親に似るっていうからなぁ〜」
「シン、そんな悠長な事言ってられませんよ。とりあえず私は不祥事を起こしたのですから政務官と八人将を辞任し、その後――」
「待て待て、なんでそうなる?」
突然の申し出だが、ジャーファルとしては当然の処分だ。
「このような不祥事を起こして、信頼第一の政務官などやっていられますか。八人将も同じです」
「俺は気にしないが…」
「それは貴方の貞操観念が破綻しているからでしょう」

ばっさり切り捨てたジャーファルは、子供をシンドバッドから取り上げ、抱き上げた。
「おい!」
「とりあえず、暫くは紫獅塔の中で暮らさせて頂きます。次の職と母親を見つけなければなりませんし」
「だから、お前が辞める必要はないぞ!」
「そう言うわけにはいきません!!」

二人が言い争いを始めると、残る八人将たちはそれを静観し、暫くただ見ていただけだったのだが、ヒナホホがある事に気づいてぎょっとした。
「あの子、泣いてるぞ」
「え?」
ヒナホホが指摘した通り、シンドバッドと言い争うジャーファルの腕の中の子供は、声を上げずに涙を流していた。
「えっ、ジャーファルさん!その子泣いてるみたいですよ」
「…へ?」

我に返り、自分の腕の中の子を見ると、確かに泣いていた。子供らしくない、何かを堪えるような涙だった。
「び、びっくりしましたか?」
おろおろしながら、子供をあやすが一向に泣きやまない。
「ジャーファルさん私が泣きやませてあげる!」
「ちょっ、ピスティ…」
小さい体で子供を抱いたピスティは、よろめきながら子供をあやした。しかし、今度は声を上げておお泣きし始めた。

「な、なんで?」
「お前が怖かったんじゃねーの?」
「シャル!」
茶化したシャルルカンが子供を抱き上げて背中をぽんぽんと撫でるが、子供は泣きやまない。
「やっぱ母親じゃないと駄目なんじゃないすか」
「母親って……」

シャルルカンの言葉に、どうにもできないでいたジャーファルの代わりにヤムライハが抱いてみるが、やはり子供は泣きやまない。それどころがひどくなった。
「…逆じゃないですか?女性に抱かれている時の方が泣き方が酷いような」
スパルトスの指摘は尤もで、マスルールが次に恐る恐る抱いた時は、ヤムライハの時より泣き声はましになったようだった。
「ジャーファルさん…」
小さな子供を、自分の力で潰してしまいそうで怖い。そんなマスルールの気持ちが伝わってきたので、シンドバッドが抱くのを代わると、子供はしばらくくずくずと泣いていたが、やがて静かになった。
「シンさんが落ち着くみたいスね」
「うむ。俺に懐くとは流石ジャーファルの子だ!」
「どういう意味ですかアンタ」
「ていうか、ヤムとか私が抱いた時なんであんなに泣いたのかな?」
「そんなこと今はどうだっていいです」

はぁ、と溜息を吐き椅子に腰かけた時、会議室の扉が開く。
「ヤムおねえさーん!例の命令式ができたよ!」
「まぁ!アラジンくん凄いわ!後一日はかかると思ってたのに!」
入ってきたのはアラジンで、修業の成果をヤムライハに見せたいということだった。ヤムライハは嬉しそうにはしゃいだが、ジャーファルとしては「どうしてここで」と言いたい気持ちだ。
ただでさえ、今自分の状況に腹が立っているのに、アラジンに自分の不祥事を知られたらと思うと――。

「あれ?シンドバッドおじさん、その子…」
アラジンが子供を指さす。そしてジャーファルと子の顔を確認するように何度も見た。
「ジャーファルお兄さんにそっくりだねぇ」
「……」

もう…やめてくれ…。
切実にそう思ったが、アラジンははしゃぎながら子供を撫でた。
「でも、この子ちょっと怯えているみたいだよ?」
「?怯えている?どういうことだ、アラジン」
「うん…多分だけど、この子、女の人が怖いみたいなんだ」
「女?」
「ヤムさんが僕と話している時、その子のルフがざわついてたんだ」

そう言われてみれば、子供はヤムライハやピスティに抱かれた時、泣き方がかわった。
「しかし、孤児院の責任者の女性には普通に接していましたが…」
「それは恐らく慣れか、その責任者の人徳によるものだろう。しかし、だとしたらこの子が女性に恐怖を抱いたきっかけなんて…」
「…」

シンドバッドは無言で、子供を抱いたまま部屋から出ていった。ジャーファルは後を追うか迷った後、遅れて部屋から出る。
「皆はもう仕事に戻ってください!シャルルカン、ピスティ、さぼらないように!」
走って後を追うと、シンドバッドは王の執務室に入っていった。
「シン!どうしたんです!」
「…ジャーファル、見ろ」
「え?」

シンドバッドは、子供の服を捲りあげた。
そこには、いくつもの青い痣があり、白い肌のせいで、余計に痛々しく見えた。
「お前が関係を持った女は、病気で子供を育てられなくなったと言っていたが…それは嘘なのかもしれん。とりあえず、施設の責任者とお前の記憶から女を探すぞ」
「まさか…」
頭が真っ白になる。
自分が、あの女性を孕ませてしまったせいで、彼女が生んだ子供を、愛せなかった可能性はある。シンドリア国民とはいえ、娼婦が子供を産めば、後の仕事にも差し支えるだろう。
ジャーファルのせいで、子供も女性も、不幸に――。

「ジャーファル!」
「っ…は、い」
「気にするな。お前だけが悪いんじゃない」
「しかし…」
「あの時、お前の様子は少しおかしかった。俺もお前の異変に気付けなかった…すまない。だが、この子が生まれる元になった行為を後悔するのはやめろ」
シンドバッドの言う事は尤もで、ジャーファルは俯いたまま黙り込んでしまった。

自分は、同性愛者で、女性と関係を持ち、子供をつくりたいという訳ではない。
それなのに、子供をつくってしまった挙句、子供も女性も自分の行いのせいで不幸にしてしまったのだ。後悔、せずにはいられなかった。
だが、シンドバッドの腕に抱かれる幼子が生まれたことに、何の罪も無い。

「…シン…すみません…」
「謝らなくていい。…ジャーファル」
シンドバッドは、子供を抱えたままジャーファルの頭を撫でた。
「もし、母親が見つかったとしても……、いや、今はやめておこう」
「…?」
「ジャーファル…、もし、母親が見つからなかったらでもいい。俺とお前の子として、この子を育てないか」
「……えっ」

突然で、さらに突拍子もない申し出に、ジャーファルはぽかんと口をあけ、固まった。
「何を言ってるんですか?私たちは、男同士で、…それに、生物学上子供は恵まれないはずで…」
「しかし、この子は女性に恐怖を抱いている。お前が新しい女を見つけたとしても、母親にはなりえん。そうなると片親ということになるが、お前の子供だし…俺としては両親と育てて愛情をだな…」
シンドバッドの言わんとしている事がわかった。
ジャーファルには両親に愛された記憶が無い――その分、子供には愛情を注いでやりたいということなのだろう。それに気づき、胸が温かくなる。
ああ、どうして、この人は。

「…シンはシンドリアの王です。部下…それも男の子供を一緒に育てようだなんて…国民や周辺国がどう思うか…」
「何を言っているんだジャーファル。俺が変わっているのは、シンドバッドの冒険書を見た人間ならだれもが気付く事実だろう?」
「しかし…」

引き下がらないシンドバッドに、唸っていると子供がジャーファルに小さな手を伸ばした。
「だっこ」
ここにきて初めて、しっかりした言葉を聞き、驚きながらもシンドバッドと交代した。子供は満足したように、ジャーファルの腕の中でおとなしくしている。
「…」
「ジャーファル、この子のためでもある」
「…しかし…」
「しかししかしとうるさいぞ!ジャーファル!」
「は、はい!」

もう我慢できない!と言わんばかりに、シンドバッドは叫んだ。
「俺はお前が好きだ!だからお前の子供もお前も幸せにしたい。同性愛がどうとか、シンドリアでは偏見を持つようなことはないぞ!つまり、お前と俺が一緒になったとしても問題はない!」
「…ちょっと待ってください」
シンドバッドは自分が何を言ったのか分かっているのだろうか。

ジャーファルの耳が可笑しくなければ、今、シンドバッドはジャーファルに愛の告白をしたはずだ。

「シン、あなた」
「俺は本気だ。お前が嫌がろうと譲らない。お前を幸せにすると、俺はお前に出会ったばかりのころから決めていた。…堪忍しろ。ジャーファル」
真剣な顔つきでそう告げられ、目から涙がこぼれた。

これは夢なのだろうか。叶わぬ恋が、まさか、恋慕していた相手に叶えられるなんて。

「…おおせのままに、王よ」

涙声でそう言ったジャーファルに、シンドバッドは満面の笑みでこたえた。



その後、シンドリアをくまなく調査したが、ジャーファルの子供の母親は見つからなかった。船で国外に出てしまった可能性もあることから、ジャーファルはそこで捜索を打ち切った。
彼女を見つけても、自分が出来ることなど、最早何もなかった。

「しん」
「かわいいなぁ〜ほら、果実ジュースだ」
「ん」
シンドバッドは子供にでれでれになり、公務に支障が出るほどの父親(?)っぷりだ。
今やほぼ全国民から、あの子供はジャーファルとシンドバッドの子供でルフの奇跡で授かった、という有り得ない解釈をされているのだが、シンドバッドはそれを正そうとしなかった。
「…はぁ」

ジャーファルは政務官、そして八人将として現在も働いている。
国民や部下から「いつ王様と結婚するんですか?」という疑問を投げかけられるが、それはシンドバッドの心次第である。

中庭でジャーファルが休憩していると、後ろから声をかけられた。
「ジャーファルさん」
「あ、マスルール」
「最近どうスか。シンさんと」
「うーん…まぁ、ぼちぼちかな」
「…そうスか」
マスルールはジャーファルの隣に座り、何故かそわそわしている。

「…どうしたの?」
「…ジャーファルさん、今、幸せスか」
「いきなりどうしたの?」
思わず笑ってしまったが、マスルールがあくまで真面目に訪ねてきたのだと気づき、微笑んだ。
「幸せ、だよ。シンに思いが伝わって、シンからも貰って。こんなに幸せになる日が来るなんてね…」
「…なら、いいっス」
「え?」
「……」

マスルールは、屋根伝いにどこかに行ってしまった。その様子に、首をかしげていると、時刻を告げる鐘が鳴った。

「仕事に戻りますか」










「…シンさん」
「なんだ?マスルール」
執務室。
子を女官に預けたシンドバッドの前に立ったマスルールは、重い口を開いた。
「……これでよかったんスか」
書類に書き込んでいた手が止まる。シンドバッドは、顔を上げ、マスルールを見るとうっそりと笑んだ。
「何がだ?」
「…ジャーファルさんを、騙して、っス」
「ああ。そんな事か。問題ないだろう。ジャーファルも俺も愛し合ってるんだ」
シンドバッドの目に浮かんだ狂気。
それに少しばかりの恐怖を抱きつつも、続きを促した。

「ジャーファルさんは、責任感強いスから。今後も色々あるんじゃないスか」
「ああ…あいつがあの女を気に病んでいる事に関しては、その内、都合のいい知らせをでっちあげればいい。たとえば、別の男と結婚して幸せに暮らしていると言う手紙をつくるとかな」
「…」
「しかし、あの女が子供を虐待するのは計画外だった…。だがマスルール」

満面の笑みに、瞳には狂気の色――。
マスルールでなければ、今すぐ逃げ出していただろう。

「お前に任せてよかった。俺たちの信頼関係に嘘はなかった」
「…当り前スけど」
「そうだな。マスルール、何か褒美が欲しいなら――」
「じゃあ…なんか肉食べたいです」
「はは、わかった。手配しておく」

最後にもう一度、快活に笑ったシンドバッドに頭を下げ、部屋から出たマスルールは、その場に座り込んだ。

ジャーファルが関係を持ったあの女性はもうこの世にいない。
そもそも、三年前のあの時。
ジャーファルと女性が関係を持つよう、仕組んだのはシンドバッドだ。

酒に睡眠薬をいれ、女性と共謀しジャーファルと成功に及ばせ――子を孕ませた。
ジャーファル似に生まれるよう、遺伝性の弱い民族の女性を国外から連れてきてまでして。

母親には、数年経てば褒美とシンドリアでの地位を約束し、三年後孤児院に入れるよう仕向けた。

その通り実行した母親に、褒美を渡す役として、マスルールが出向き、国外に追放する――それが当初のシナリオだったが。
「お前、そんなとこで何してんだ」
「…先輩」
シャルルカンが廊下を通りがかり、マスルールの顔を覗き込んだ。
「…お前、顔色悪くね?どうかしたのかよ。大丈夫か…?」
「…先輩」
「お、おう?」

珍しく弱った様子のマスルールに手を伸ばされ、されるがままシャルルカンは抱きしめられた。
「ど、どうしたお前。急に赤ちゃん返りか?ははは…」
「…」
「…なんかあったのかよ」

シンドバッドは女を許さなかった。
マスルールは森深く女を誘導し――そして。

「先輩」

マスルールはシャルルカンを抱きこんで、そのまま暫く動かなかった。いつもは面倒で、鬱陶しい先輩でも、今はよかった。
今は誰かと触れていたかった。

脳裏には、政務官の幸せそうな笑顔がこびりついていた。





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