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憂鬱(後) 585

*憂鬱(前)のその後のお話ですがこちらだけでも読めます




結局あれから行ったコインランドリーは人が一杯で待つこと数十分、しかもバッツの持ってきた袋の口からは見事に雨水が入り込んでおり(だから傘くらい差してこいと言ったのだが)、何分か余計に乾燥させないといけなかったなどの様々なタイムロスによりすべての行程が終わったのは夜の9時くらいだった。腐海に帰ってきた俺の体中を脱力感と倦怠感が襲う。そもそも男一人暮らしだというのにこの洗濯物の多さはどういうことだ、いくら梅雨時だとは言え、と考えをめぐらした俺の視界にまさに答えが映りこんできた。

「黄色、黄色、黄色、赤、黄色」

ブツブツ言いながら筆を刷毛を果てはタオルまでもキャンバスに豪快に叩きつけているバッツはなにかに取り憑かれているかのようにも見えた。床に申し訳程度に並べられた、おそらく床が汚れるのを防ぐための新聞紙のみならず壁や体や服や至るところに色の飛沫が散る。意味を成していないじゃないか。俺は本当に芸術に疎いのだが、芸術家とは皆こんなものなのだろうか。所詮筆でチョコチョコ描くくらいのものだと思っていた、しかしこいつの場合はなんというか、一種のスポーツだ。たしかにいくら服があっても足りない。

「スコールに心から感謝感激雨霰してるんだぜ、おれは」
(……)
「黄色や赤だってお手のもんさ、うん、快調快調」
(……それは良かった)
「じつはこの絵のここにいるの、スコールなんだよな」
「は…?」

最後の一言だけは聞き捨てならなかった。ちょっと待て、今、なんと言った。俺を絵にしているだと、当然承諾したおぼえはない。

「…俺は許可してないぞ」
「え? 許可とかいるのか?」

そうだこいつはこういうやつだった。常識を通そうとしても豆腐に鎹、無駄なのだ。
諦めて改めてバッツの前に鎮座しているキャンバスをまじまじと眺める。分からない。似顔絵のようなものを想像した俺が間違っていたのかもしれないが、俺にはただ絵の具を乱暴に配置しただけの何かにしか見えなかった。赤や黄色が派手に飛び散ってはいるが、俺はこんなに明るく激しいイメージなのだろうか。むしろ黒しかうまく使えないと言っていたころのほうが俺っぽい絵だったんじゃないか、とここまで考えて変に自意識過剰な自分に嫌気がさした。そんなことはどうでも良すぎることだ。
それでも不審な顔をしていた俺を不審に思ったのか、バッツはすいっと近寄ってきて少し下から俺を見上げて、気に入らないところあるか?と屈託なく訊ねた。気に入らないも何も。俺はいつものごとく説明を省略した(さぼったともいう)が、変に敏いところのある彼はいつまでも食い下がったので、できるだけ端的に伝えた。

「俺はこんな明るい色は好まない」
「へ、そうなのか?」
「もし俺の服装を描いているんだとしたらおかしいだろう、俺は黒しか着ない」

インナーには白を着ることもあるけれど、赤や黄色は有り得ない領域だ。彼はきょとんとして俺の言葉を聞いていたが、不意に何かを悟ったような顔をしてずい、と迫ってきた。近い。

「いいか、いいか、おれはな、スコールの『ココ』を描いてんだ」

ついと伸ばされたバッツの手は俺の左胸の上にぴたりと合わさった。突然の意味不明な行動に鼓動が否応無しに速くなるのを隠せるはずもなく。おお動いてる動いてる、バッツは昆虫を見つけた子供みたいな声をあげて俺の胸を触っている、いろんな意味でくすぐったい、なんのつもりだ。
俺は盛大に溜め息をついて、はしゃぐバッツを押し返し背中を向けた。付き合いきれない。そもそも今日は平日で明日は学校なのだ。

「……帰る」
「そんなカッコつけたって意味ねーからな! おれにはわかるぞ、スコールは実はめちゃくちゃ寂しいし、できればここにお泊まりしたいと思っている」

……それはあんたの望みだろう。
当然のように無視して鞄を背負って玄関へと2、3歩踏みだしかけた次の瞬間、かすかな風とともに背中にどん、と鈍い衝撃を受けて俺は無様にゴミ袋の山に倒れ込んだ。

「スコール捕獲!」
「……!」

タックルしてきて俺の体の上に乗っかっている奴の顔はまんま、ガキ大将のそれだ。気づけば俺のベージュ色のシャツの裾に見慣れない赤がついていた。奴のシャツを見て確信する、先ほど接触したと思われる部分には赤い絵の具がべったり。
ふざけるのも大概にしろ。俺の中でなにかがプチリと切れた。おそらくは理性という名のストッパーだったのだろうが知る由もない、だいたい今日はこいつにおちょくられすぎた。
むんずとゴミ袋を掴んでバッツめがけて投げつける。バッツはおっとあぶね、と変に軽い身のこなしで避けたけれど壁にぶつかって情けない声をあげた。間髪を入れず次のゴミ袋を投げる。すると奴はあろうことか両手でキャッチしてこちらにぶん投げてきた。なんだそれ、反則だろ。いや、そもそも先に反則をおかしたのは俺なのかもしれないが。
雪合戦ならぬゴミ袋合戦はひとしきり続いた。


暑い、バッツのへたれた声で俺はふと我に返った。ゴミ袋だけではなく割り箸、靴、下着、空になった絵の具のチューブ、壊れたドアノブ、スケッチブック、テニスボールなどがそこらじゅうに散らばり、ただでさえも末期的だった部屋の状態はさらに深刻なものになっていた。
息が上がっている。肩を上下させながら唖然とする。

「ついに、はじけたな」

バッツは口元をおさえてくつくつと笑っていた。こいつも加担したとはいえ発端は俺だったという事実は変わらない。後悔以上に深い感情が押し寄せてくる。これを片付けなければならないのは他でもない、俺だというのに。

「おれはスコールのそういうとこ、好きだぜ」

バッツはさらりと言ってのけ何事もなかったかのようにキャンバスに向き直る。赤、黄色、赤、黄色と呪文のように繰り返される言葉。操られるように動く筆。キャンバスにはみるみるうちに激しい色が踊った。
認めたくはなかった。認めたくはなかったけれど。
白いキャンバスに弾ける無数の花火はたしかに、俺だったのだ。