★憂鬱(前) 585 じめりと湿気が体を満たした。 たしかに室内に足を踏み入れたはずなのに屋外と湿度がまったく変わらないのはどういう了見だろうか、アトリエとは名ばかり、彼がその言葉の意味を本当に知っているかどうかすら定かでないのだ、だってこの惨状は。 俺はコインランドリーに行ってきてくれ、としか頼まれていなかったはずだが本当にそれだけで大丈夫か? 小さな呟きは腐海の奥の住人に届くはずもない。多分俺が来たことにすら、まだ気づいていない。 しかしすでにお手上げだ、洗濯物とゴミの見分けがつかない。半透明でない、白のビニール袋が乱雑に何十個も置かれている。こんな袋じゃゴミ収集車に見捨てられるんじゃないか、そもそも今どきこんな袋売ってるのか、俺はひとつずつ中身を確認しなければならないのか、 思わず頭を抱えたところに部屋の主であるバッツが姿を現した。バッドタイミングというかグッドタイミングというか。よれたTシャツの胸元に青が溶けていた。袖口には黄色と赤と黒が混ざり合った花火のような跡があった。 「悪い、締め切り明日でさ」 今日はカンテツだな、と笑う声には覇気がなかった。いつものことだ。計画的に進めろ、と言ったら無理無理!芸術に計画なんて立てられないんだぜ、と無駄に明るく返されたことを思い出した。 バッツは他でもない、俺のいとこなのだが、親兄弟親戚をはじめ俺のまわりの人間はみな彼の家に行くことをこぞって反対した。ゴミ袋に囲まれていつもだらしなくフラフラ絵ばかり描いているかと思えば派手に遊びに出て夜じゅう呑んだくれて朝日が昇るころにわあわあとなにやら演説をぶちながらマンションに戻ってくるような奴だから仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。俺とてこうもお近づきになりたいわけではなかったのだが、何故か懐かれてしまった。おれの絵10万で売ってやるよ、スコールだけの特別価格だぜ、と熱のこもった瞳で迫られて丁重にお断りした。生憎芸術は分からない。 洗濯物だと渡されたゴミ袋は一回で持ち運べる量ではとうてい無かった。早くせめてバイクの免許を取りたい、と水たまりを避けて歩きながら思う。 ふと気配がした。ピチャピチャと大げさすぎる水の音。振り返ると、バッツが傘もささずに立っていた。両手にビニール袋を持って。 来ちゃった、と軽く首を傾げる。締め切りは大丈夫なのかと訊くと、んーと少し考え込む様子でまたピチャピチャと水たまりを踏んづけた。 ふたつの袋を器用に抱きかかえ、さも当たり前のように俺のビニール傘に入ってくる。ふわり、とカップラーメンの匂いがした。 「なんか、いきなりさみしくなって、なあ」 気づいたら黒しか使えなくなっちまったんだ、と一見意味の分からないことを言うバッツの手首には黒い絵の具がたしかにこびりついていた。大きな瞳は伏せられて、長い睫毛が頬に影をおとしていた。胸がつまされるようだった。この狭すぎる傘の中で縮こまっている彼に、なぜか違和感をおぼえて仕方なかった。うまく言えないけれど、彼はこうあるべきではない気がしたのだ。 ほんの小さな空間のすぐ隣で、袋がどさりと地面に落ちる音がした。何事かと意識をやる前にすぐ体に細い腕が巻きついて、「ごめん、」と声がした。蚊の鳴くような声だった。何がごめんなのかやそれ以前にこの状況は何なのかとかは考えるだけ無駄な気がして思考を放棄した俺はとりあえずなるがままに小さな体を抱きとめた。こんなに小さかったのか。俺の知っているバッツはこんなのじゃない。 いや、俺は彼の何を知っていただろうか。 ごめんな、彼はもう一度繰り返した。それ以上は聞きたくなかったから少し力をこめて口元を塞ぐようにもう一度抱きしめた。 俺は、バッツを何も、知らなかった。 そのことが、こんなにも怖いだなんて。 雨は止まない。 打ち捨てられた白いビニールの塊はただ黙々と雨粒を弾きつづけていた。 |