はじめてのチュウ
修学旅行の夜、枕投げで盛り上がっていた最中大迫の急な巡視が入った。蜘蛛の子を散らすように各々隠れる
友人らに一瞬出遅れた嵐は隠れ場所を見つけきらず、生徒代表として大迫に怒られてもいいかと諦めかけていた。
「嵐、なにしてんだよ!こっち」
ぼうっと立っていた少女は急に手を引かれて押入れの下段に引き込まれる。真っ暗で埃っぽい布団と座布団の
隙間で、誰かが嵐のごく近くで呼吸をしている。
「大迫先生の拳骨痛いじゃん、何ぼーっとしてたの」
「ユキ?」
聞きなれた声に、自分を正面からゆるく抱きしめているらしいのが柔道部メンバーの雪隆だと知る。
「ほら狭いだろ?もちょい、こっち」
「お、おう」
ほんの少しずり上がって彼にすがる。こてんと胸板に頭を落とすと、どっどっど、と音が聞こえた。
「なんだ、脈が乱れてるな」
「当たり前だろ、この状態でならなけりゃ変だ。つか、俺結構やべぇよ?」
もしかしなくても、街中やドラマで見る恋人達のように雪隆と抱きしめあっている。それに気付いたとたん嵐
の心に、正体不明の爆発が起きた。
「や、はなせ、やだ」
「ちょ、っと暴れんな。見つかんだろ」
ますますきつく抱き締める腕に、混乱は深くなり抵抗する余裕も無くなった。柔道をしてるときの方がよほど
密着しているはずなのに、皮膚表面がとても熱くて呼吸も速くなり頭にまでその熱が回る。昔体が弱かった頃、
微熱が続いて何日も寝込み続けた時のようなふわふわと落ち着かない気分だ。ただ、頬が熱い。
酷く長く感じた暗闇を払うようにぱちんと部屋の明かりが点き、押入れの隙間から白い糸のような光が入って
くる。自然と押入れもぼんやり明るくなり、雪隆はりんごの様になっている嵐に目を奪われた。暗闇が油断を誘
ったのだろう、何の緊張感もなくぺたりと寄り添っていた彼女は青年と目が合うなり思い切り後ずさって、天井
に頭を打った。
「っつ―!った」
「何してんだよ」
頭を抱えて唸る嵐を引き寄せて、こぶになっていないかどうか髪を探る。
「や!」
大声で言ったものの、外でクラスメイトたちがざわついているのが聞こえ、口を噤む。大迫ちゃんヤサシーよ
な、とかそろそろ部屋帰るべー、などがざわざわ聞こえる。
薄い紙と木でしか隔てられていないのに、雪隆と抱き合っているなんて眩暈がしそうだ。
はぁ、と彼が深く息をついてぼそぼそと喋った。
「…俺、ちょっと落ち着いてから出るわ」
「お、押忍」
雪隆の溜息が妙に嵐の心に刺さった。悪いことをしているような、妙な気分になる。
「あ、ちょっと待て」
四つばいになり襖に手を掛けて外に出ようとした嵐の頬に、雪隆は素早く唇を触れさせる。これくらいは下半
身を疼かせた迷惑料だろうと思う。何をされたのか分からなかったらしい嵐は、無反応のまま外に出て行った。
ちゅう
稽古が終わり下級生が帰ってしまったあと、柔道場の片隅で嵐がパソコンを覗き込んでいた。床に置いたそれ
を覗き込むようにして、次の対戦校を研究しているらしい。
「どこの高校の見てんの」
「わぁ!なんだお前、帰ってなかったのか?」
急にかけられた声にびくりと跳ね上がった彼女は、それでもすぐに笑って雪隆に座るよう促す。柔道着の時は
殆ど正座で胡坐をかくことも多い嵐だが、制服のときはまれに女の子らしい座り方をする。あひる座りとかぺた
んこ座りと呼ばれるあれだ。今日もそんな風に座っていて酷くかわいい。
「ユキ?」
「あ、ああ悪ぃ」
上目に見上げてくる姿をまじまじ見ていたら不審そうに呼ばれてしまう。仕方なくパソコンを覗き込むように
座ると、嵐がぎゅっと身を寄せてきた。
「今度練習試合してもらえる所なんだけど…」
あ、これとイヤホンを片方差し出してくる。一つのイヤホンを二人で使うことにもどぎまぎする。
「お、おう」
何とか笑ってイヤホンを耳に突っ込んでも、ろくろく試合の音声など耳に入らない。正直画面よりも、ああだ
のこうだの指差す少女のほうが気になる。接触する太股や肩が熱い。
「で…、っておい、聞いてんのか!」
眉間に皺を寄せた少女は、べちんと気を逸らしている雪隆の胸を打った。
「いてっ、んだよー」
「真面目に聞け!」
そのまま頬を掴まれてぎゅうっと横に伸ばされる。
「…いひゃいれす」
「気を逸らした罰だ」
身長に差が有るため、嵐は膝立ちだ。大体年頃の娘さんが男に対して無防備すぎなのだ、と怒りが湧き、すば
やく腰に手を回して自らの胡坐の中に抱き込んだ。
「らいらい、あらひがくっ付いてくるのが悪いんだよ、修学旅行ン時で懲りなかったのか!」
まだ状況がつかめていないらしく、きょとんと見上げてくる嵐は、つねりあげていた青年の頬から手を外した。
その隙を狙って、あの時と同じように左の頬にキスをする。
「わ、わぁ、っ」
「ほーらー、思い出したかー」
嵐は自分を包んでいた膜がはがれ雪崩れ込んできた感情と情報に圧倒される。正面向きにだっこされるよう
な現在の姿勢はもちろん背中に回る腕の熱さだとか、あの押入れのときと同じくらいにどきどきしている雪隆の
左胸だとか、呼吸するたびに上下する胸郭や制服の感触もすべて体と心の熱を上げていく。
「やだ、離せ!」
「気づくのが遅い!もう五分抱っこの刑だ!」
はははは、と乾いた笑いを上げる彼は半ば自棄になっているようだった。
「やだ、やっ、やだ…」
「へ?」
どうにでもなれとばかりにぎゅうぎゅう締め付けていると、腕の中から小さな嗚咽が聞こえてきた。
「なんでこんなことするんだ?私、何かしたか?」
ぐすぐすと涙を零しながら、嵐が見上げてくる。あまりの斜め上で天然な質問に呆れてしまう。
「あのなあ、お前無防備すぎ。悪いやつに攫われるぞ」
きょとんとしたあと鼻水をすすった彼女に、タオルを差し出す。
「プールのバイト中だってわざわざお前の前で溺れるヤツがいるらしいし、舎弟にしてくださいっつーあいつら
だって、お前に手を出さないように協定結んでるだけじゃん」
「何言ってんだ、ユキ」
「ジョギングだって、もう少し気をつけろ。夜中俺がバイトしてるコンビニに来るのも止めてくれ」
醜い嫉妬やエゴがどんどんあふれ出す。自分が女性であるという自覚が薄いことが、これほどにも厄介だとは
思わなかった。
何を言われているのか分からないと言った風にタオルを握り締めて、腕の中に収まる嵐を見ているとイライラ
が増してくる。放置してしまったパソコンディスプレイがスクリーンセーバーに切り替わっているのが横目で見
えた。
「なあユキ。私、何にもわかんないんだ」
逃げることをしなくなった嵐が真っ直ぐ見上げてくる。泣いた跡はあるものの、雪隆の好きな、潔い肝の据わ
った顔をしている。
「修学旅行の…、アレも嫌じゃなかったし、今こうしているのも嫌じゃない。最近ずっともやもやしてたのがこ
うしてると落ち着く」
「嵐…」
「でも、それの正体が分からないんだ。ユキが何でイライラしてるのかも分からない、どうしたらいいんだ?」
どうしたら良いかと聞かれると、雪隆もぐっと詰まってしまう。周囲から夫婦と呼ばれようとも、二人は親友
のように付き合ってきたのだ。しかし、もう友達としてでは足りないと、そうお互いの感情がが訴えているかも
知れない。だから無駄にドキドキしたりするのだ。
「と、取り合えずだ。目ェつぶれ」
「わかった」
大人しく目を瞑ってほんの少し上向く嵐の唇に、自分の唇を宛がった。
これで彼女がどう反応するかで、今後のすべてが決まる、いわば踏み絵のような行為。そんな思惑があったの
だけれど、いざやってみるとあまりの幸福さに雪隆の思考は吹っ飛んだ。
じわっと目を開けた嵐は、何をされたのか分からないといった顔をしている。
「今の…、何だ?」
心底きょとんとする様子に、青年はがっくりとうな垂れる。そうだ、恐らくキスなんかしたことのない彼女が、
予告もなしに目を瞑った状況で奪われても分かるはずはなかった。
「じゃ、もう一回」
「え?」
彼女の人を射抜く黒目勝ちな瞳が珍しく困惑の色を映している。それを無視してもう一度、唇を触れさせた。
ゆっくりと離れて、抱き締める腕に少し力を入れてみる。自分の唇を何度か指でなぞった嵐は、間をおいて一
気に赤面した。
「え、あ、なに、って、うわ…」
「こーゆーの、嫌じゃない?」
ニタリ、と笑って聞いてくる雪隆の顔が見られない。何故目を瞑れといわれた時に気付かなかったのだろう、
と嵐は自分の鈍感さを悔いた。頬が燃える様だ、でも嫌じゃない。抱き締められている体勢も、嫌じゃない。こ
れを何と呼んだら良いのかだけが分からない。質問の答えを待つ彼に、こくりと頷くことで返事をする。普段な
ら、はいは一回だけなどと説教をしているのに声を出すことも出来ない。
「嫌じゃないなら、良かった」
そして彼はにっこりと笑う。嵐は胸が痛くなった。胸が痛すぎて涙が出て、それを見られるのが恥ずかしく青
年の肩に顔を伏せる。
これが友人がよく言う、恋、なのかも知れない。
青年は走った。走らないとどうにかなりそうな気がしたから、ペースなど考えずに全力で駆ける。
とっぷりと日は暮れ、所々に灯る街灯のまるい光の輪だけが白く浮いていた。
晩秋の冷たい北風が吹きすさぶ海岸沿いの道には彼以外には誰も居らず、奇異の目を向ける者もいない。その
ままガードレールを飛び越えて砂浜に降り、ざくざく砂を蹴立てて波打ち際に突っ込む。
「や…やったー!俺はやったぞーー!」
肺を焼くような酸素不足と急激な運動による心拍数の増加で誤魔化しているが、それ以上の興奮が雪隆を突き
動かしていた。
稽古ではなく密着したからだの感触と、彼女の呼吸や心音、筋肉が動く緩やかなリズムがまだ腕の中に残って
いるような気がする。ほんの数秒唇を重ねただけなのに、全身が燃えるようだ。嵐が好きだという気持ちが鮮や
かに後から後から湧き上がる。
今日は眠れそうにない。
「かー、高校にもなってキス一つで浮かれるとか、やっすい男だよな。なあミヨ」
「そんな事言って、本当は羨ましいんだろう」
あからさまに浮かれた様子でふらふらと歩いてくる雪隆を眺めながら、カレンは悪態をつく。元々さっさくっ
付けと思っていた柔道部夫婦だが、いざそうなってみると純情すぎて見ていられない。
「本当に大事な人が見つかることなど早々ない」
「まあ、そうだけどねえ。俺のプリティちゃんも早く現れないかな」
学校で一番モテる男の発言にみよは眉間に皺を寄せ、筮竹で彼の頭を打った。本来の自分を隠して人に好まれ
るよう人格を繕っているうちは無理だ、ときつい言葉を投げたくなる。
「よっ、みよ、カレン」
軽く腕を挙げて噂の当事者が声を上げた。手には弁当と一リットル紙パックのお茶が提げられていた。
「オーッス」
「ああ」
何話してたんだ、と聞く浮かれ男にカレンが組み付き、いつもの取っ組み合いに発展する様をみよはお茶をす
すりながら眺めていた。