捏造マラソン大会 柔道部

「いい?皆きちんと走るのよ、怪我したら駄目だからね」
 マラソン大会の前日、部活を終えた柔道部員達は緊急ミーティングを開いていた。と言っても、その実は元マ
ネージャーによるお説教である。やれ準備体操をきちんとしろだの、ふざけて走ったりムキになって体調を悪く
したりするなだの、母親のような口調で言い募る。
 その横で、普段の堂々とした様子を引っ込めて初代と二代目の部長がうな垂れていた。ここまでくどくどと深
雪が説教をするのはこの二人のせいである。
 一昨年は、嵐が水泳部の級友と本気で勝負をし過ぎて腱を痛め、去年は新名が友人とふざけて走って転び、広
範囲にわたる擦り傷と酷い打撲を負った。
「もちろんあなた達が心配なの、だけど三年続けて柔道部からけが人が出るなんてみっともないからね?」
 にっこりと笑って釘を刺す深雪に、一二年は慄いて頷く。
「いい?普段のジョギングと同じように、走ればいいのよ」
 お返事は、と優しい声が冷たく響く。
「お…押忍!深雪さん!」
「分かればよろしい」
 がくがく頷く下級生達を見回した後、深雪はくるりと歴代部長に向き直り二人をぎろりと見据えた。
「嵐くん、新名くん、明日は頑張ってね、応援してるから」
 新名は青褪め、嵐は目線を床に投げて押忍と呟く。ここまで深雪が怒っているとは思っていなかった二人は、
驚きも手伝って動けなくなっていた。
「寒いのに引き止めてごめんね、皆気をつけて帰るのよ」
「押忍っ!」
 蜘蛛の子を散らすようにばらばらと部員達は帰りだす。他の運動部に課せられた、何分以内に帰って来いとい
うノルマや何位以下は駄目だという決まりよりも、深雪の怒りが恐ろしかったらしい。
「嵐さん、ラーメンでも食いにいきません?」
「…そうだな、行くか」
 先ほどまでの怒りが嘘のように後輩マネージャーと笑顔で片づけをする深雪をちらりと振り返り、二人揃って
溜息をついた。

ベタをやるには力が要る

 結婚一周年記念だから、そう言って一体大柔道部のコーチは奥さんと旅行に出かけていった。
 むさくるしい柔道部内では純粋にコーチを羨ましがる者が多かったが、嵐はふとわが身を省みた。誕生日には
何かしらの贈り物をしているが、何かしらの記念日を意識したことはなかった。
 指を折って脳内を整理すると、ちょうど来月に深雪と初めてキスをした日があった。あまりに近くに居すぎて、
恋人とそうでない時の区別がつき難いので一応その日を区切りとしてみたのだ。
 うん、と頷いてその日に何か贈り物をしようと思い立つ。が、しかし年に一度の誕生日の贈り物ですら決める
のにとても神経を使うのだ、そうそうよさそうな物等思いつかない。更に、深雪は嵐が贈ったものを非常に大切
にする。それはとても嬉しいことだが、気を使わせているようで悪い気もする。
 やはり花や食べもの等、一般的に消え物と呼ばれるものが良いだろう。

「花と菓子と、どっちが良いか」
「ハァ?」
 単刀直入に聞かれた新名は、きょとんとしてしまう。
「フツー指輪とかじゃないっすか、アニバーサリー的な物だと」
「身に着けるものはどうもな」
 まあ嵐なりの考えがあるのだろう、言っても無駄かと新名は反論を止めた。
「まー、深雪さんならどっちでも喜ぶとオモイマスよ?ダイエットとかしてないっしょ」
 料理の上手な深雪は、美味しそうに物を食べるし甘いものも好きだった筈だ。
「そうか…」
 顎に手を当てて考える嵐に、新名はからかいを含めた妙案を考え付く。
「あ、あー。そういや俺、知り合いに花屋がいるんですけど、結構オンナノコに人気あるみたいで。そこどうで
しょう」
「いいのか?」
 思わぬ助け舟に、嵐が顔を上げる。
「モチロンっすよ」
 ニタリ、と新名が笑ったことに気づいた者は誰も居なかった。

 深雪の歳の数だけ、つまり十九本の真っ赤な薔薇に白いカスミソウという赤面ものの花束を貰った深雪が、頭
から湯気を出して倒れそうになる事など、嵐には予想も出来るはずもない。


その先を

※結婚後子供ネタ厳重注意

 特に合同練習も遠征も無い日曜の午後、嵐は休日を満喫していた。個人的なトレーニングメニューは午前中に
こなし、愛する妻と息子と暮らす家でごろごろとテレビを見るという幸福に与っている。先ほどまでは三人一緒
に寛いでいたのだが、布団を取り込むと言い残し深雪は庭へと出て行き、元気に這い回る息子も母親についてい
ってしまった。
 取り残された父親はほんの少し寂しさを感じながら、くわと大欠伸をしぬいぐるみを抱いてだらしなく伸びる。

「あなた!」
「ん?なんだ」
 余り声を荒げたりしない深雪の悲鳴に、がばりと瞬時に起き上がる。息子が怪我でもしたか、と大またで庭に
出ると、ぼすんと妻が抱きついてきた。
「早く!見て!」
 そして彼女が指す先では、息子が物干し台につかまり、よろりと立ち上がっていた。
「…立った」
「うん!あ、カメラ!携帯!」
 あわあわと家の中に転がり込もうとする深雪を押しとどめ、息子へと歩み寄る。
「ぉとー」
 生後一年ちょっとの幼児は小さな手を父親へと伸ばそうとして、よたと踏み出すが当然かくんと柔らかな足は折れてしまう。
その体を左手で抱き、嵐は思い切り頬ずりをした。
「よくやった、えらいぞ」
 右手には感極まって泣き出す妻、左手にはすくすくと健康に育つ息子を抱き締め、そのまま庭に座り込む。飼
い主一家の盛り上がる雰囲気を察してか、雑種の白い雌犬も犬小屋から駆け寄ってきた。
「なんだ、お前もか」
 べろりと嵐の顔を舐めた飼い犬は、小さく鳴いてぺたりと座った。
「うっく、ひっ、うー」
「ほら、泣くな深雪。こいつも心配してるぞ」
「だって、あなた…」
 目を開けた、笑った、寝返りを打った、ハイハイした、離乳食を食べてくれた、名前を呼んでくれた。そのど
の瞬間もが感動的で愛おしくて仕方がない。
「まぁま?」
 俯き人に縋る母親が珍しいのか、息子がその頬に触れる。
「ごめんね、お母さん泣き虫でごめんね」
「深雪…」
 ぎゅうと縋ってくる妻も、息子に負けず劣らず愛おしい。こんなに幸せでいいものか、と嵐も二人を抱き寄せ
る腕を強める。
 深雪が落ち着くまで暫く、一家と飼い犬で庭に座り込んでいた。
「これからこいつは、一生自分の足で歩き続けるんだよな」
 大人しく抱かれている息子を見て、しみじみそう呟くと、深雪がひゅっと息を呑んだ。
「もう!折角涙が止まってきたのに、そんなこと…っ、ふぇ」
 立ち上がり、歩き、いろいろなものに触れ、困難にも直面し、それでも生きている限り歩き続ける。そう思い
をはせると、嵐もこみ上げる熱いものを堪えられなくなった。



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