・この話には素晴らしい元ネタ様がいらっしゃいます。ハル様がpixivにアップされたコチラです。
可愛くて、ほのぼのとしてとても良いです。
・藍沢先生と歩いていると、男共に出会ってしまいました
・バンビ→大川美空・一体大柔道部マネージャー
・オリジナルモブがわらわら出ます
注意 嵐が本気でバンビに恋をして、振られています お気をつけください。

 プロローグ

 とある大学の社会人向け講義を聴講する、という藍沢に着いていってもいいですかと美空は飛びついた。
「集中講義だから、今週・来週・再来週の日曜通しで参加するぞ」
 シラバスを見ながら、現役大学生である美空の予定が合うのかどうか聞いてくる。
「良いですよ!特に何もありませんし!」
 まあ色々な講義を受けるのが好きなのもあるが、どちらかといえばインドアであまり出かけるタイミングの合
わない藍沢と、三週連続で外出できることが嬉しいのだ。勿論わくわくしている少女の様子から、そんなデート
の期待くらい藍沢はお見通しだ。でもまあ、悪い気はしないので軽く頭をなでて、じゃあ行こうかと申込書を用
意した。
「渋滞…学?」
 きっと、文学史や哲学、芸術史を聴講すると思っていたのだろう、見慣れないはずの科目名におもしろそう、
と少女の目が輝きだす。こういった知的好奇心が旺盛なところを、藍沢はとても気に入っていた。
「導入と概論、物理数学としての渋滞、社会的な渋滞緩和の実践と展望、だな。渋滞学を始めた教授の講義だぞ」
「うわぁ、私なんかが受けて良いんですか?」
「一般開放講義だから大丈夫だ」
 やった、と小躍りする美空は早速藍沢がコピーしたシラバスを熱心に読んでいる。私なんかが、とは言ってい
るが彼女も日本を代表する体育大学の教育を真面目に受け、単位以上の勉強もしているようだ。
「今から楽しみですっ」
「ああ」
 満面の笑顔はやはり天使としか形容しがたく、手を伸ばしてぎゅっと抱き締めずにはいられない。びっくりし
たように硬直していた彼女も、少し遅れて背中に手を回してくれる。
 最近やっと、この甘すぎる幸福になれることができた。もう、彼女を知らなかった頃には戻れない、と思うと
その重すぎる依存心に自分でも辟易する。
「えへへ、秋吾さん、だいすき」
 腕の中から真っ直ぐに臆面なく伝えられる言葉は、甘く酸っぱく藍沢に刺さった。

・桜井兄弟→絡む

 第一週。講義のある私大に行ったことのない美空は、藍沢のマンションの地下にいた。
 基本的にあまり藍沢に負担をかけたくないと思っているので現地集合でも構わないのだが、道が分からないだ
ろうと言われ素直にマンションまでやってきたのだ。
「わぁ!」
 丸っこい形の黒い車の横で藍沢が手を振っている。
「秋吾さん、免許持ってたんですね!」
「最近忙しくてあまり運転してなかったからな。以前は結構乗り回してたんだぞ」
 ちなみに車はレンタルだ、と苦笑いする。一時期初恋三部作が行き詰った時に売却してしまったらしい。
「うわー、わたし、実家の車以外に乗るの初めてです」
「そうか」
 まさかのドライブデートに、嬉しすぎて頬を真っ赤にしてしまう。
「じゃあ仕方が無い、いつもより安全運転するかな」
「え、ええー?」
 助手席のドアを開けながらからかうように言う藍沢に、乗り込みかけた美空が驚く。
「えと、あの、ちゃんとあんぜんうんてんで、おねがいします…」
「…冗談だ。くくっ、ははは」
「も、もうっ!怖いのは嫌ですから!」
 身体を折って大笑いする藍沢に、美空がぷうと膨れる。すまんすまん、といって運転席に乗り込んだ男は流れ
るような動作でエンジンに火を入れ、音もさせずに車を発進させた。地下から道路に出て、秋の穏やかな日差し
がさぁと車内に入る。執筆中の刃物のような顔とは違い、少しだけ集中した横顔にどきりとする。
「そんなにじっと見られると、スピードを上げたくなってくるんだが」
「や、みてませんっ!」
 そして又笑い出す藍沢の太股をぎゅうとつねる。
「痛!」
 そして今度は二人で笑いあう。それで緊張がほぐれたのだろう、美空は助手席にもたれて色々な事を話し始め
た。
「あ、そうだ。悪い、ちょっとだけ、出版社に寄っていても良いか」
 時間はまだまだ余裕が有るし、実は美空も運転免許は持っている。こっくりと頷いて、路駐スペースに停まっ
た車から藍沢を見送った。
 何かあったらいけないから、と運転席に治まった美空は、アクセルに届かない足や遠すぎるステアリング、全
く角度の合わないバックミラーにひとりでどきどきしていた。
 と、こんこん、と窓を叩かれる。
 一人でにやにやしていたのを藍沢に見られたか、とびくんと振り返ると、幼馴染の青年が窓越しにくちをぱく
ぱくさせていた。パワーウィンドウを下げると、屈んで美空を覗き込んできた。
「あれ?ルカ君」
「こんちは、コウもいるよ」
「オウ」
 ぬっと現れた琥一も、琉夏を押しのけて近寄ってくる。
「運転してたおっちゃん誰?」
「いい車乗ってやがんな…、はばたきじゃあんまり見ねぇ顔だったなァ」
 琉夏は目の笑っていない満面の笑顔で、琥一は何やら渋い顔で考え込んでいる。
「お、おっちゃんじゃないもん」
 まんまるな瞳をきゅ、と吊り上げ睨みあげてくる少女は可愛いことこの上ない。再会した当初は恋愛感情がま
あうっすらと無きにしも非ずだったが、今ではすっかり兄弟のような間柄になっていた。
「あのひとが、藍沢先生よ」
「ふーん」
「あァ?」
 藍沢、と聞いて一瞬二人の目が眇められる。大事な妹分を病気になるまで泣かせた男、という認識は捨てられ
ないらしい。まあ今は丸く収まっているから良いものの、一方的に振られたと聞いた時には本気で半殺しに行こ
うかと思ったものだ。
「あ、秋吾さん!」
 出版社から出てきた男に向かって、車から降りた美空が手を振る。自然に出た名前呼びに、幼馴染の二人は少
し複雑な表情を浮かべた。
「ん?友達、か」
「はい、友達っていうよりお兄ちゃんみたいな感じなんですけど」
 しばし、藍沢と桜井兄弟は対峙する。
 国籍不明の美貌をなぜかヤンキーくさく崩した青年と、眼光鋭い偉丈夫が美空を守るように立っている。大体
の男ならば二人と面を合わせることすら難しいのに、藍沢は何も感じることがないように、始めましてと軽く頭
を下げた。
「じゃ、そろそろ行くか?」
「あ、はい!じゃ、ルカ君、コウくん、またね」
 くるりと車の前を回って助手席へ移動する美空を見送ったあと、桜井兄弟は通りすぎようとする藍沢を止めた。
「なんだ」
 余裕たっぷりに振り向く様子は、残念ながら隙がない。
「美空、泣かせたらいつでも俺らが掻っ攫いに来るから」
「オッサンよぉ、あんまテキトーすんじゃねぇぞ」
「ふ、怖いお兄ちゃん達だな」
 そのまま車に乗り込みばいばいと助手席から手を振る少女を眺めて、桜井兄弟は溜息をついた。
「ありゃ、手ごわいぞ」
「まさか外部に敵がいるとはね…」

・柔道部→張り合う

 第二週。今回は美空のほうの都合で、現地集合ということになった。私大の近く、喫茶店で待ち合わせをして、
そこから歩いて講義へ向かう予定だ。
 第一週の講義はとても面白く、美空は思わず教授の初心者向け著書を買っていた。今日講義されるであろう箇
所は数学物理的な理論になっていたので、健康科学系の美空には少し難しく感じられる。
「うーん」
 思ったより早く用事が済んだので、喫茶店でクロワッサンサンドと大きなボウル入りカフェオレを頼み、マー
カー片手に本を読む。理解できそうで出来ないもどかしさに、先週貰ったプリントなどを引き出しながら読んで
いるとつい集中してしまったのだろう、コン、とテーブルを叩かれて口から心臓が出るんじゃないかと言う位美
空は驚いた。
「ふぇ!」
「集中してたな」
 向かいのソファにゆったりと座る犯人を、少女は涙目で睨みつける。
「も、もう!止めてくださいよぉ!」
 と、そこではたとテーブルの上に注文したメニューが載っているのに気付く。藍沢のオーダーを取りに来た店
員が、笑顔で告げた。
「一生懸命勉強されてたんで声が掛け辛かったんですよ」
 ううう、と真っ赤になる美空を店員と藍沢は微笑ましく見守る。
「良いじゃないか、面白いんだろう」
「そうですけど…」
 普段どおりアメリカンのコーヒーを注文した藍沢は、クロワッサンを食べ始めた美空に断って本を取り上げる。
「うん、よく読みこんであるな」
 要点と難解な用語にだけマーカーが引かれ、調べられた意味が小さく書き込まれている。図表のあるページに
は付箋が張ってあり、いつでも参考にできるようになっていた。
 もくもくとパンを飲み込んでから少女は不安を口にする。
「でも、ちょっと難しくて…」
「そういうところを本人の講義で補填するんだよ」
 あ、そうか、と美空は笑顔になる。
「何なら直接質問したっていい」
「え、でも、私程度の理解力じゃとても…良い質問なんて出来ないし」
「まあ、焦る必要はない」
 届いたコーヒーを飲みながら、藍沢は目を細める。物語か何かのような偶然の出会いで手に入れたこの少女は、
どこまで自分好みで一般に見ても良い子なんだろうと空恐ろしくなる。明るく素直すぎるくらい素直で、学問的
好奇心も旺盛、勿論躾もよくきちんと振舞うことが出来る。
 先週出会ったあの兄弟も相当に癖のある人物らしかったが、美空は完全に味方につけていた。この様子じゃま
だまだああいった手合いが出てくるだろうなと、覚悟していた。
 暫く寛いでから喫茶店を後にし、学生向けの店が多い通りを歩き始める。名門校らしく植物の多い校舎も、周
辺の古い学生街もきれいに紅葉している。
「きれいですねえ」
 さくさくと落ち葉をブーツで踏みながら、下を見たり梢を見たりと美空は大忙しだ。
「そうだな」
 そういえばこうやって石畳の紅葉の並木をゆっくり歩くことな、ど自身が大学生だった頃以来ではないか、と
藍沢も景色を楽しむ。
 ふと、学生向けの蕎麦屋から出てきた青年二人連れがこちらを見た。
「あ、美空さん!」
 あまり系統の似ていない二人の、跳ねた長髪の方が美空の名を呼んで大きく手を振った。
「不二山くん!新名くん!」
 美空も大きく呼んで手を振り返す。
 先程喫茶店で予測した新たな伏兵のあまりに早い登場に、つい藍沢は笑ってしまう。
 早足で駆け寄ってくる長髪ははばたき高校の制服を着ているが、スポーツマン然とした方は一体大のジャージ
を着ている。
「秋吾さん、高校と大学の柔道部で一緒の不二山君と新名君」
 不二山ッス、新名ッス、と軽く頭を下げる様子は、成る程、武道をやっている者の動作だ。
「えっと…、藍沢先生、ね」
 ちょっと照れたように美空が藍沢の方を見ると、あー初恋三部作の、笑顔を見せた新名に引き換え、不二山の
ほうは不機嫌を隠そうともせず黙ってこちらを見つめてきた。
「藍沢秋吾です」
「ども、いつもウチのマネージャーがお世話になっています」
 鋭い目つきのまま低い声で告げた不二山に、藍沢は余裕の表情で美空を抱き寄せる。
「いやいや、ウチの美空が世話かけてるようだね」
 赤くなって照れている美空は気付いていないが、目に見えて散った火花に新名ははっとする。
 高校三年間で柔道部の創設から軌道に乗せるまで、さらに大学でも美空は不二山のサポートについている。新
名も二人は付き合っているものだと思い込んでいたが、二年生の終わりに、美空の様子がおかしくなってから真
実に気付いた。
 実際は無意識にしろ不二山の片思いで、美空は他の誰か―藍沢だったのだが―に心奪われていた。もしかした
ら、三年まで美空がフリーでいたなら柔道部夫婦は現実のものになったのかもしれないが、彼女は運命だと思え
る人に出会ってしまったのだ。
 それだけならまだいいが、一度美空が一方的に振られたとき、自分なら絶対にあんな思いはさせない、と恋を
自覚した不二山は歯を食いしばって悔しがっていたのだ。羨望と不信と、始まる前に終わった初恋に、ああ見え
ても柔道青年の心は大きく傷ついた筈だ。
「あのですね、今日実は午前中に一体大の武道学部のオリエンテーションがあの私大であったんですよ」
 不二山君と新名君も、大学に帰らないでコッチでご飯食べてたんだねえ、と少女は長閑に言う。
「オレ、コーコーセーなんスけど、一体大から推薦貰ってて参加したんですよ」
「そうか、俺も学生時代は弓道をちょっとやってたんだが、もうなまってしまってるだろうなあ」
「え、秋吾さんが弓道!」
 うっとりときらきらした目で男を見上げる美空の様子を見て、不二山の機嫌が更に悪くなる。好きな女が甘い
声で他の男の名前を呼ぶところなんて見たくもない、しかしその程度のことで精神を乱す自分の未熟さにも嫌悪
を覚える。
「ね、こんどうちの大学に来てやってみて下さいよ!」
 武道学科には勿論弓道もあり、かなりの施設が完備されている。
「まあ、気が向いたらな」
 これ以上甘い空気を見ていたくないのだろう、じゃ、と無礼にならない程度に頭を下げ不二山は駅に向かって
歩き出す。
「あ、待ってくださいッスよ、嵐さん!」
 それを追いかけるように新名が愛想よく手を振って、走り出す。
「二人とも気をつけてねー!」
 ぶんぶんと手を振る美空は、二人が見えなくなるまでそうしていた。
「あ、時間迫ってますね。ごめんなさい、行きましょう」
「君は、意外と罪な女なのかも知れないな」
 含み笑いでそう告げた男に、少女はきょとんと見上げてくる。
「どういう意味ですか?それ」
 その無意識さと無邪気さが、一番やっかいなのだからたちが悪い。振り回された男たちはそれでも彼女を憎め
ないからだ。
「いいや、実に君は魅力的だな、という話だよ」
「な、急に、そんな、秋吾さんの、ばかぁ」
 往来の真ん中で湯気を出すように真っ赤になった美空の手をとり、自分のトレンチコートのポケットに入れそ
の中で手を握る。
「じゃあ、いこうか」
 藍沢だって、不二山という存在にはいくらかの恐れを抱いていることをあの青年は知らないのだろう。
 美空くらいの女の子なら、毎日会える気心の知れた存在というものは、非常に大きな意味を持つだろう。藍沢
と彼女は、恋情と、細いあるかなきかの作家とファンという二つのつながりしかないが、あらゆる方面でつなが
りの深い不二山は、一つの糸が切れたとしても又別の糸を手繰ることが出来る。
 悪いが、俺も美空を離す気は無いんでね、と一人ごち、ぎゅっと美空の手を握り締めた。

・先輩→はしゃぐ

 最終週。
「ほら、起きろ」
 前日から藍沢のマンションに泊まりこんだ美空は、くうくうと心地よさそうに眠り続けている。新作を書き始
めた藍沢は徐々に執筆中心のライフサイクルへとシフトしていた。筆がのれば何時まででも書き続けてしまうの
で、日付の感覚と約束を忘れないように少女を家に呼んだのだった。
 カーテンを開け、換気のためほんの少し藍沢が窓を開けたため、冷たい風がさあと入り込んできた。
「さむ…」
 ぶる、と震えた美空は先程まで藍沢が寝ていたまだ温かいへこみに移動し、布団を抱き込んで又寝息を立て始
める。そのあまりに可愛らしい様子を眺め、朝から悶絶してしまう。
 静かに近寄って髪を梳き、柔らかな頬に触れる。すると、半ば寝ぼけているのだろう掌にすりよってふにゃっ
と笑った。このかわいい生き物は何だ、こんなものがこの世に存在してもいいのかと大げさすぎるかも知れない
が心からそう思う。
「こら、間に合わなくなるぞ」
 ぽんぽん、と肩を叩くと、くわ、とあくびをしてぼんやりと黒目がちな瞳が開かれた。寝起きで潤んだその瞳
はとてもキレイだ。
「おはようございます…ぅ」
「ああ、おはよう」
 美空はのそのそと起き上がり、覗き込む藍沢に軽くキスをする。最初は照れていたものの、藍沢が習慣づける
ように起きるたびにキスをすると、おはようのキスに次第となれていった。
 寒いせいで、中々布団から出られない少女の身体を掬い上げ、抱っこしてリビングのソファに座らせる。勿論
パジャマ一枚では寒いだろうとカーディガンを肩にかけてやるのも忘れない。
「うー、ん」
 流石に起きる覚悟をしたのか、ぺたぺたと裸足で冷蔵庫まで歩き、お茶を取り出して一杯飲み干す。その後ろ
で、果物入りのシリアルをボウルにあけた藍沢が、コーヒーミルをゴリゴリとまわす。
「うん!おはようございます!」
 覚醒した美空は、手早く藍沢の手伝いを始める。粗目に挽かれた豆をコーヒーメーカにきれいにセットし、水
を充填してスイッチを入れる。野菜をちぎってサラダを作り、もらい物のハムやオイル漬けの香辛料を適当に並
べておかずにする。インスタントのスープを牛乳で伸ばしたとき、こぽこぽとコーヒーの抽出される良い匂いが
漂ってきた。
「戴きます」
「いただきます!」
 藍沢の一人暮らしではほぼありえない、きちんとした朝食を二人で口にする。けして特別に美味しいものだと
か珍奇なものではないが、この上ない幸せが美味しさに繋がる。
「今日はわがまま聞いてもらってすみません」
「いや、俺にも義理があるから良いんだ」
 講義は昼からなのに、二人が早起きをした理由。それは、美空の先輩である設楽聖司の留学前ラストになる演
奏会を見に行くからだった。特に金を取るわけでもなく、内々でのもののようだったが、それでも国内の主要楽
団関係者や芸音大教授などが山と参加する重要なものであるらしい。
「もう半年くらい会ってないし、この機を逃したら何年先になるか…」
 じゃくじゃくとシリアルとヨーグルトを混ぜながら、少女は眉をひそめる。実は藍沢は設楽とごく軽くだが、
面識はあった。パーティ会場で目にして挨拶を交わした彼は、絵に描いたような育ちのよいおぼっちゃんといっ
た様子で、特に印象には残らなかった。
 だから、美空の口から語られるトンチンカンな彼の様子には驚いたものだった。
「面白い人なんですよー」
「そうなのか、俺も会ったことはあるが」
 どこでですか、と聞かれ顛末を手短に話す。
「ほわー、セレブってどこで繋がってるか分からないですね」
 それは君の方が不思議だ、と言いかけて言葉を飲み込む。強面の柄の悪そうなのとエリートスポーツ選手、さ
らに将来有望なピアニストに花椿の眷属、それに藍沢自身もそれなりに特殊な存在だ。この全く同じ平面上に並
びそうもない人々が美空を中心に繋がっている。本人は変人ほいほいなんていっているが、その恐ろしいほどの
求心力こそが彼女の真の才能なのかも知れない。
「おごちそうさまでした!」
 物思いにふける藍沢を尻目に、美空は食器を流しに運ぶ。
「ああ、俺が片付けるから、君は支度をしなさい」
「え、いいですよー、洗いますって!」
「いや、コンサートは一応フォーマルな席だから、君はじっくり支度をした方が良い」
 食い下がる男に、こくんと頷いて少女は洗面所へと向かう。
 すっかり二人暮らしのようになっている洗面台には、きちんと美空の分のカップと歯ブラシ、洗顔料が置かれ
ている。隅に置かれた電動髭剃りや藍沢気に入りの整髪料がと並ぶ、自分の洗面用品は、少女をこの上なく幸福
な気持ちにさせた。
 誕生日のお礼にと藍沢が買ってくれたワンピースはすとんとしたデザインで、ちょっとしたパーティーにも着
ていけるものだった。何かと招かれごとの多い藍沢にすぐついて行ける様に、とずっとこの部屋においてある。
 顔を洗い終え、寝室に戻った美空はベッドをきちんと直した後、もそもそと着替えを始めた。

 偶然にも講義のある私大のミュージックホールで、設楽聖司属する一流音楽大学ピアノ科のコンサートは行われる予定だ。
「これがレンタカーの良い所だよな」
 前回とは違う、笑っているように見えるちいさな黄色い車を藍沢は借り出してきてそう言う。
「かわいい…!」
「ワーゲンのビートルだ、気に入ったなら覚えておく」
 助手席のドアを開けてシートを後ろに引く。そして何時もより高いヒールでおぼつかなく歩く美空を抱えるよ
うに助手席に下ろし、シートベルトもかけてやる。
「ありがとうございます」
「いや」
 自分もさっさと運転席に乗り込み、外へと乗り出す。
「わぁ、前の車も凄く静かだったけど、これも全然揺れないですね」
「車によって乗り心地はかなり違うからな、色々乗ってみるといい」
「じゃあ秋吾さんが乗せてください」
 にっこりと言い放たれた言葉が、藍沢の胸を甘く蕩かす。素でそういう台詞が出てくることは罪作りである、
と説教をしたい気分になった。
 それでも滑らかに車を走らせ私大の駐車場で停め、会場へと急ぐ。
「えっと私宛の招待状で二人まで入れるんですが…」
「うん、一応俺も自分の招待状があるからな」
 設楽個人の招待状と、プレス関係者の招待状では席が離れてしまうだろう。藍沢は会場に来た以上、半分仕事
であるため自分の招待状で入るべきだろう。ただ美空は特に中でどうこう、と言った約束は一切ない。
 悩む美空を眺めながら、藍沢は周囲に目を光らせた。内部の演奏会であるからか、ロビーでも演奏者や有名人
が屯している。と、長身の二人連れがこちらを向いた。
「あれ、大川さん」
「大川!」
 かの設楽聖司と、眼鏡を掛けた理知的な青年が美空に手を振って近寄ってくる。
「紺野先輩、設楽先輩。お久しぶりです」
「何だ、堅苦しいな」
 とん、と少女の頭を小突いた設楽は口を尖らせる。
「なんだ設楽、彼女にも招待状出してたのか」
「こいつが催促したからだ」
「だって、先輩が海外に行って戻るのは十年後とか言うから!」
 実に幼い口調で話す設楽に内心驚きながら、藍沢は三人の様子を伺う。
「って、ああ、すみません。大川さんのご同行の…、ってもしかして」
「そう、藍沢秋吾先生です」
 そう言って美空は藍沢に寄り添う。
「藍沢です」
 そういって軽く頭を下げると、紺野と呼ばれた青年は軽く興奮したように言った。
「大川さん、すごいねえ。誰かとおつきあいしているとは聞いていたけど、まさか藍沢秋吾と」
「えへへー」
 こんな場で済みませんがサインいただけないでしょうか、と申し訳なさそうに紺野が聞いてくる。それに快諾
すると、設楽が呆れたような目線を送っているのに気付いた。
「ほら設楽、初恋三部作でノーベノレ賞を受賞された…」
 設楽の肩をぽんぽん叩きながら、紺野は説明する、大分興奮しているようだ。
「叩くな!そんなこと知ってる、この前パーティで会った。…その節は、どうも」
「いいえ」
 一応の社交辞令を交わし、設楽は美空と話を続ける。
 結局、少女はそのまま設楽に拉致され、恐縮する紺野と一緒に生徒関係者席へと去って言った。
「やれやれ」
 どう見ても偏屈で気難しい設楽のおぼっちゃんでさえも、美空の前では形無しらしい。先程の会話の中でもも
んじゃ焼きがどうの、焼き鳥がどうのとB級グルメの話題で盛り上がっていた。
 プレスの席に着くと、わらわらと顔見知りが寄ってくる。もちろん山並書房関係者もいて、真っ先に藍沢に話
しかけてきた。
「藍沢先生、お疲れ様です。あれ、美空さんは」
 こいつもかと少しいらいらする。藍沢があまりこういった席を好まず、しかし美空が行きたいといえば必ず同
伴して現れることを知っている編集は、真っ先に彼女の姿を尋ねた。
「あそこだ、ほら設楽聖司の所」
「へえ!あのクセのある設楽君とお知り合い…いやお友達、みたいですね」
 藍沢先生も気が抜けませんね、と言い放った編集を結構本気で殴り、藍沢はびろうど張りの椅子に深く腰掛け
た。

・友達平→眺める。歯牙にもかけない男

 渋滞学の開祖にして権威であり研究の第一人者である教授は、歳の割にはフランクでノリの軽い人物だった。
三回のカリキュラムが終わった後、ひと段落着いた教室で教授は藍沢と美空の所へとまるでスキップするように
近づいてきた。
「君、藍沢秋吾君だよね、孫がさぁ君のファンでさぁ、サインもらえない?」
 そう言って読み込まれたハードカバー版の三巻と文庫版の二巻、最近発刊されたジュニア版の一巻を差し出し
てくる。
「この品揃えは、真のファンですね…」
 思わずごくりと唾を飲み込む美空に教諭が目を向ける。
「そうそう、君君。聴講生の中で一番若いくらいなのに、一生懸命聞いてたね。どう、俺の学問面白い?」
「はい、とても面白かったです」
 そうかそうかぁ、と老人は相好を崩す。少女の手元にある付箋塗れの自著に目をつけ、それ貸してみと持ちか
けた。
「へぇー、賢い子だね。流石藍沢君の連れ、と言ったところか。どこの大学の子?」
 一体大です、と応えた美空にほうほう、と頷く。
「じゃあさ、今回の講義では省いたけどこことこの辺は興味あるでしょー」
「は、はい、まだ一年生なんで、よく分からない部分も多いんですが」
 人体で起こり得るアミノ酸の渋滞と、渋滞が精神に及ぼす影響の部分を指され、こくこくと頷く。
「じゃ、俺今度一体大行くからさ、そん時そこん所話すよ」
「へ?」
 サインをし終えた藍沢から本を受け取り、アデューとファンキーな教授は去っていった。
「君は全く…どこまで人を惹きつければ気が済むんだ」
「へ、何の事、ですか」
「あの教授、一流大研究センターの教授でかつ国家プロジェクトも抱え、警察にも意見協力している方なんだぞ。
来年はサウジに飛んで国王と何かしらの政策を行うという噂だ」
 その超多忙な教授を、基本的に畑違いの一体大へ講義に出向かせることがどんなに難しい事か。恐らく金を積
んででも一体大ブレーンは講義をお願いしたいはずだ。
「そんな風には見えなかったけどなあ」
 ふつうの孫思いの、ちょっと砕けた御爺ちゃんですよね、とのたまう彼女に眩暈がする。その分け隔ての無さ
が、求心力の一助なのだろう。
「…帰ろうか」
「はい!」

 折角フォーマルな格好をしているからちょっといいものでも食べに行こう、と藍沢は高級住宅地の方へと車を
走らせた。
「この辺に、この間の琉夏君と琥一君、設楽先輩のご実家が有るんですよ、あとはば学の理事長の家も」
「へぇ、意外だな」
 あまり他の男の事には動じない藍沢だが、こうも立て続けに親しげな様子を見せられると応えるものはある。
今夜はべったりと美空を甘やかして、離れないでいようと心に誓っていた。
 小さな100円パーキングに車を止め、藍沢は美空の腕を取って歩き出す。ピンヒールのでつかれ切った足を引
きずる彼女は、これ幸いにと寄りかかってきてくれた。
 そんな様子をこっそり見守る影が一つ。日本へ一時帰国し天之橋邸へ挨拶をしていた花椿カレンである。久し
ぶりに会うバンビはキレイになっていて今すぐにでもむしゃぶりつきたいが、横の男性が邪魔である、しかし、
カレン一人では上手くバンビとスキンシップが取れるように振舞える自信が無く、親友に電話をかける。
「…あ、もしもし、ミヨ、あのねバンビがね、なに、わかってるって?じゃあ直ぐ来て、そのレストランの手前
の角にいるから!」
 何もかもをも見透かしたようなミヨの返答を聞き、カレンは又二人を見つめる。カジュアルでは有るが決して
安くはないパリ風のビストロがぼんやりと夕闇に光っていた。
 ほどなく、ぶろろろろ、と軽いエンジン音が聞こえ一台のスクーターがカレンに近寄ってきた。
「宇賀神さん、ここでいいの」
「いい、タイラーにしては上出来」
 なにそれひどいなあ、と言いながら平はミヨに手を貸す。小さめのスクーターだが、小柄なミヨを後ろに乗せ
るくらいは出来る。
「平!ミヨ!」
「あ、花椿さん。みそらちゃんがデート中なんだってね」
 そうなのよー、と嘆きながらカレンとミヨ身振り手振りを交えてでこれからの算段を話し出す。
 二流大学に進学した平とミヨは、もともと美空を介した友達の友達状態だったこともあって、すんなりと友達
になった。というより便利に使われているだけのような気がするが、気にしない事にしている。
 二人の話を横で聞きながら、平はクラスメイトの元ローズクイーンの恋人が、ノーベノレ賞受賞の藍沢秋吾で
あることに気付いた。
「ちょっと、それ、本当なのかい」
「高校のときから付き合ってた」
 重ねて告げられる真実に、ただひたすら驚く事しかか出来ない。校内のアイドルだと思っていた今までさえ近
づくことが用意ではなく、三年かけてただのクラスメイトからお友達に昇格した事が嬉しい平に、その事実は重
すぎた。
「やっぱり、みそらちゃんはすごいなあ」
 これは完全に自分の出る幕ではない、と思い、じゃあ僕は帰るから、とミヨとカレンに告げ、スクーターに跨
ろうとした。
「ちょーっとまて」
「帰るな」
 ゆらり、と立ち上がった二人は平の腕を掴む。
「平がいた方がバンビも気が休まるよね」
「タイラー、バンビに会いたいでしょう」
 有無を言わせぬその迫力に、首を振ることすらできずに硬直してしまう。
「今からちょっと天之橋邸にお邪魔して、セミフォーマルに着替えるから、ね」
「そしてビストロに突入、藍沢を突破した後バンビを捕獲」
「ええ、何でそんなに物騒なんだ!」
 スクーターごとずるずると引きずられるように平は天之橋邸へと連れ込まれた。

 音も無く木製の厚いドアは開き、一歩踏み出した平の足を、毛足の長いじゅうたんが包んだ。
 きちんとしたレストランに来たことのない平はそれだけで竦んでしまい、足を止めてしまう。
「タイラー、ちゃんと歩きなさい」
「う、宇賀神さん、ここめちゃくちゃ高いんじゃ…」
「二人で軽く飲んで一万円。このレベルのレストランにしては良心的」
 軽く飲んで一万、とはしがない大学生である平には気軽に来ることなど到底出来ないレベルの店だ。
 ひぃーと息を呑む青年にも構わず、ミヨとカレンはウェイターに話しかけている。
「三名様、ご案内いたします」
 そう言って通された席は、丁度藍沢と美空の席を斜めに見ることが出来る席で、しかも観葉植物でこちらの姿
が見えないようになっていた。
「わたしが先にトイレに立って、偶然を装ってバンビに話しかける」
「そしてカレンさんが颯爽と登場というわけだ」
「で、タイラーは荷物番」
 結局そんな役割か、と溜息をつく。しかし久しぶりに見た、しかもドレスのようなワンピース姿の美空はきれ
いで、まあいいかなんて思ってしまう。向かいに座っている藍沢も、凄く大人の余裕を持っているようで、あれ
なら自分のよう、に他人の目や素敵過ぎる美空自身の魅力に負けたりしないんだろうな、と羨望のまなざしで見
つめた。




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テーマ「推しとの恋」
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