長官風邪をひく
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「ゴホッ……くっ」
遂に忌々しくも咳まで出てきた。
御史台長官室の大机案には目障りな書類の山
有り得ない
捗らず自分の机案に溜まってゆく書類の山を眺めながら葵皇毅は自棄になりかけた。
普段の処理能力からすれば絶対に未決済書類が溜まる事など無い。
なのに刻々と積まれてゆく決済待ちの書類、各部署から集まる返書待ちの書翰、この現実。
元凶は明白だった。
著明な頭痛、発熱で能率がガタ落ちしている。
皇毅は妻が持たせてくれた薬包匣をぱかりと開けてみた。
しかし何回見ても、
−−−空
昨日から薬の追加が届かない。
明らかに「一旦帰って来て」と言われている。
しかし、医女でもある妻に診せでもしたら最後、布団で簀巻きにされ寝台へ投げ込まれ妻が「治りました」と言うまで監禁されるに違いない。
よって帰る訳にはいかない。
しかし解熱と鎮痛作用のある薬包を頼りにやってきたのに、頼みの綱すら切れた。
(……どうしてアイツまで足を引っ張るんだ)
思考も幾分意味不明、これもきっと熱のせい。
そんな長官室に桃色の影が忍び寄っていた。
「皇毅失礼するよ、………おや!?間違えて吏部に来てしまったよ」
書類山盛りの長官室を吏部と皮肉りながら凌晏樹が入って来た。
彼には悪いが本当に悪霊に見える。
「晏樹……俺の仕事は知っているな。机案の書類に指一本触れてみろ、ただじゃおかないからな…ゴホッ」
「酷いな!お見舞いに来たんだよ。桃を甘露に漬け込んでみたから食べてよ」
そう言って、何やら甘ったるそうな水に浸かっている桃を器ごと差し出す。
たぷたぷと溢さないように運んで来た晏樹は満足気、皇毅は撃沈寸前。
(帰れるものなら……、逸そ帰りたい)
絶対口には出さないが、無性に妻に逢いたくなってきた。
「こんなに一人で溜め込むから帰れないんだよ。まぁ、普段の君なら出来るのかもしれないけれど、次官の一人でも置くべきだね」
「お前みたいな次官が来たらどうするんだ。お先真っ暗だ」
ふん、と晏樹は甘露桃を口に入れながら鼻で笑う。
「皇毅は優しいね。ちゃんと此処に退路を築いておきたいんだろ?何かあったら不都合なものを道連れに辞職して、見込んだ者と自分の首をすげ替える……でしょ?」
「安心しろ、お前は道連れだ」
そう言ってニヤリと笑う皇毅の顔を見て晏樹は漸く『本当に』笑った。
その笑い顔を知っている数少ない一人は再び書翰に向き直る。
「じゃあ最後に訊いていい?君の医女も道連れにするつもり?」
その問い掛けに皇毅は一言だけ答えた。
その答えを聞いた晏樹の顔は見なかった。
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