皇毅の香
ホラきた、ソラきた。
「駄目です!姫様は当主様の専属医女という大役を仰せつかったでしょう?そっちに専念してお役目全うとしてください。それに香の調合は簡単ではございませんので、そっちの方は私の実家と当主様にお任せくださいッ」
「私だってきっと出来ます!初めてお会いした時の梅香を見事に再現してみせます」
また勢い余って顔が近い。姫様、可愛さ可憐さ余って面倒臭さ百倍なんですが。
「いやいや今の季節は梨の香です。それに当主様のお使いになっている墨や料紙と相性よく香るのもを探して調合しているのですよ」
「墨や、料紙……?」
確かに思い当たる。
女性にしては珍しく字が読める玉蓮は皇毅の文に近づくと煙たがられるのだが、公休日に書斎で文を認める皇毅の横にくっついて硯の上に墨を摩ってあげたりする。
すると、どこからともなく良い香りがしてくるのだ。
ふわり、ふわり、と空気に揺れる微かな香りが心地よかった。墨を摩るのも楽しくなる香り。それも……。
「駄目なのですか?」
「申し訳ございません」
玉蓮が言い返せないでいると室内は静まりかえった。
侍女も口だけではなく申し訳ない気持ちになっていた。夫に色々と世話を焼きた健気な妻の気持ちに罪はない。
しかし芯となる調合を任された重大な仕事を簡単に譲るわけにもいかない。否、譲れないものもあるのだ。
これからも実家を贔屓にしていただき香を取り寄せてもらう為に調合しつづける侍女の肩には、実家に対する責任が乗っている。
楽しかったはずの話は二人してしょんぼり俯いて終わってしまった。
その夜、西の対の屋の寝殿で寛ぐ皇毅の懐に収まった玉蓮は夫から漂ってくる香りを複雑な心境のまま聞香していた。
やはり単純な梨の香りではなさそうだ。
侍女が作ったものを元に皇毅自身が手を加えているらしいが複雑過ぎてよく解らない。深い、香の世界。
蝋燭の芯を切った暗い室で大胆にも身を寄せてくる玉蓮を皇毅は冷静に観察していた。
お誘いに見えて、お誘いではない。いい加減妻の奇行にも慣れていた。
深呼吸しては首を傾げている姿は怪しすぎる。
今度は一体なんだろうか。
「さっきから何をしている」
「え?あの……お誘いです」
「あぁ、そうか。気がつかなくて悪かったな」
即座に寝台へと押し倒そうとするが「冗談です!」と押し返された。
心底腹立つ、この変な妻……。
眉根を二本の指で揉み解し一人で寝台に身体を横たえると一緒になって転がってきた。
愛する女人の仄かに温かくどこまでも柔らかな躰を抱き寄せて、心地よくならぬ男などいるはずがない。
直ってゆく機嫌につくづく甘いと自分にも呆れてしまう。
「皇毅様が焚きしめられている香は……侍女が調合して下さっているようで、大変素敵な香りですね」
「最終的には自分で調合しているが、なんだ嫉妬しているのか」
図星を指され玉蓮は黙りこくる。
午のやりとりを詳しく言うつもりはないが、皇毅はどうやら少ない言葉から察したようだった。
頬を甘やかされるように撫でられ、悲しいのに口許は嬉しくて笑みを浮かべてしまう。泣くに泣けないではないか。
「香と云えば、私はお前と二人でいる時にだけ使う香がある。今も僅かだが……わかるか?それが何だか言い当てられたなら、侍女と共に香の調合を任せてやらなくもない」
「え、本当ですか!」
思いもよらぬ提案に声があがる。
暗がりには愛しい、優しい方。
頑是無い悋気が溶かされてゆくようだった。
香りを確かめる為にいよいよくっついてくる玉蓮に気をよくした皇毅が『匂わせ言葉』を漂わせる。
「深く愛し合えば、より強く香ってくるものだ」
「まぁ……不思議な香ですね」
パチパチと長い睫毛を瞬かせ興味深そうな顔が見上げてくる。
これだけ解りやすい手がかりを与えているのに分からないとは実に残念だが、時間はたっぷりあるのでゆっくり考えるといい。
顔を近づけ色づく唇の柔らかさを愉しむ。
空気に触れると匂い立つ、ほんの僅かに混ぜられた。
『媚香』
独占したい気持ちを果たして聞香できるのだろうか?
−−−−分からないなら、
分かるまで何度でも抱かれるといい
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