妻風邪をひく


「ケホン、ケホ……」

暗く沈む室に玉蓮の咳が虚しく響いた。
徐々に冷え込む空気の中、掛け布からもぞもぞと顔を出し辺りを見渡す。

周囲は静まりかえり皇毅は勿論家人達の気配もない。

そろそろ夕餉の刻だ。
今頃侍女達は忙しく厨房場と母屋を行き来しているのだろう。
そして先ほど訪れてくれた皇毅は向かいの空席を眺めつつ、一人で卓子についているのだろうか。

「………」

不意に視界が歪む。
常々妙な妻だと呆れられている事は承知だが、今度こそ彼に愛想を尽かされたのかもしれない。

涙ぐみつつ重い身体を寝台から起こした。

「鏡、………あるのかしら…」

玉蓮は熱い額に手を当て、室に備え付けてある戸棚の抽斗を一段ずつ探るように開けた。
侍女のために用意された室ならば鏡くらいは用意しているかもしれない。
しかし残念ながら見つからなかった。

最低限の家具は備え付けられているが小物は侍女達が自分で持ち込んでいるようだ。

しょんぼりと肩を落とし、再び寝台の掛け布をあげて潜り込む。

固い寝台に節々が痛むが、嘗て寝起きしていた北の医倉では床に敷布を延ばして寝ていた。あの頃を思えば寝台の上は贅沢すぎるくらいだ。

しかし贅沢な要望はなくとも自分は我が儘なのだと思う。
その証拠にまた皇毅を困らせている。
何故侍女の室に隠れているのか、皇毅が事情を知れば呆れられて背を向けられてしまう。

(だから秘密………)


元気になったらまた彼に尽くしたい。
でも、今は……ほんの少し此処に隠れて、休息。

玉蓮は静かに瞳を閉じた。




−−−−−−−−−−−−−−−−−−


龍笛の音が聴こえる

寒月の下、響くのは甘い調−−−蘇芳




貝のように閉じられた長い睫毛が上がる。
パチパチ、と瞬きを繰り返し戸口へ視線を向けた。

流れるような音律はよく玉蓮が知る音色ではなかった。しかし、邸で龍笛を奏でるのは彼だけ。

蘇芳は恋の調。

音の距離からして中庭で吹いているのだろう。扉を開けてもっとよく聴きたい。
玉蓮は羽織を纏い沓を履いた。


そろそろ、と 軽い木の扉を開けると更に耳に響く龍笛の音。
まるで別人のような音色。何か心境の変化でもあったのだろうかと不安になる。

ぽつり、独り言が落ちるように洩れた。


「皇毅様………」



「なんだ」

「………、え!?」

目を見開いて返事が返って来た方向を見るその瞬時に扉が手で押さえられている。


これではもう閉められない……。


「簡単に掛かったな馬鹿め」


抑揚のない皇毅の声。
蒼白い炎を上げて怒っているような、でも実は面白がっているような、そんな声。






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