月夜の琵琶姫
(なんだか疲れたわ……)
疲労が蓄積していたのか急に体が重く感じる。
空を見上げれば、月夜の晩であった。持ち帰ろうと携えていた琵琶を何気なく手に取ってみる。
少しだけ弾いてみたくなった。
試しに弦を弾いてみれば奏でた音が綺麗な空気に吸い込まれるようだった。
(綺麗な昊)
月夜を眺めながら次々と弦を弾く。
何もかも忘れてしまいたい、何処かへ逃げてしまいたい。自然と涙が溢れて来た。
「もっと練習してから披露したらどうだ」
急な声に驚いた玉蓮は椅子から転げ落ちそうになって振り返った。
すると中庭に面した回廊に腕を組んで睨んでいる御史大夫の皇毅が見えた。
明らかに睨んでいる。
美しい音色に誘われて琵琶姫を探しに参りました、という顔にはとてもではないが見えない。
「大夫様……」
玉蓮は申し訳ありませんと頭を下げ、急いで涙を拭き取る。
皇毅はツカツカとこちらに歩いて来て円卓の対の椅子に陣取った。
「医女官がこんな時間にこんな場所で琵琶を弾いてるとは、徘徊癖のある呆け老人然りだな」
言ってる事は嫌味越して最早暴言だったが、玉蓮は不思議な気分になった。
何故だか皇毅の声を聞いていると気持ちが落ち着く。
また薄い氷河の様な色の瞳にも何故だか安らぎを感じた。
「秀麗様は、もうお帰りでしょうか」
「知らんな」
皇毅は薄い唇をクッと吊り上げた。
「通りかかったのが私で良かったな。その内勢い余った監察御史に死者の門から出されるぞ」
「死者の、門?」
聞いた事の無い言葉だが、不吉だった。少し顔色が悪くなる玉蓮を見下ろしながら皇毅は続けた。
「御史台にある秘密の門だ。目障りな輩はある夜、一人でいると突然後ろから麻袋で縛され死者の門から運び出される」
「ど、何処にですか」
「さぁな、しかし御史大獄など開かれず奈落に放られ終りだ」
奈落に放られ終わり。
どういう意味ですかと聞こうとしたが、言葉が出なかった。皇毅の言っている意味が分かったから。
この人は知ってるのだ。
自分の事も目的も何もかも知っていて御史台への入城を許可した。いや、知っていたからこそ。
自分はただ、もうじき来るであろう落日を待つだけの身だったのだ。
皇毅が次の言葉を出す前に、心労と不安と微かな望みの糸が切れた玉蓮は真っ青な顔のまま突然意識が薄れてゆくのを感じた。
地に倒れたのだろうか。
皇毅の駆け寄る姿が見えた気がしたが、すぐに目の前は真っ暗になってしまい定かではなかった。
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