得難い存在
そのまま更けてゆく夕闇に上がってきた月を眺めながら今夜は西偏殿の窓辺にて久しぶりに酒を飲むことにした。
葵邸で寛ぐのは久しぶりの事だったが皇毅は一人で飲むのも好きだった。
沓を床に脱ぎ捨て長椅子に寛いでいると、未だ室に居座っている玉蓮がちょこちょこと寄ってきて皇毅の足を自分の太股に乗せて足爪を研ぎ始めた。
朝からずっと纏わり続けている食医には流石にかける嫌味も尽きていた。
足の爪研ぐなど医女仕事から外れている。世話好きもいい加減にしろと叱責するのは簡単だが、叱責したら下がってしまうかもしれない。
なので代わりに冗談を言ってみた。
「こんな時間まで仕えてくれるなら夜伽もどうだ」
「妓女ではございません」
冗談に対して微笑み余裕の冗談返しは出来ないようだ。
しかし、半分冗談だが半分本気だという……厄介な気持ちがダダ漏れているのかもしれない。
ふん、と鼻を鳴らして玉蓮は爪とぎの続きを始めた。
なかなかの根性だ。
「お前にとっては人徳者に見えるのかもしれないが、私も官服を脱げば至って普通の男なんだが」
「人徳者……」
スリスリスリ……
爪を研ぐ音がやけに虚しく響いた。
どうしてくれようかこのモヤモヤ感。
酒瓶まで虚しくなってしまった。一滴も出ない。
こんな夜は仕事が猛然と捗るに違いないので今から皇城へ出向いてもいいかもしれない。
御史台へ行けば厄介な案件が一つくらいは上がっているはずなので、こんなモヤモヤ感などすぐに忘れられる。
「宮城へ出る。家令に伝えてこい」
「皇毅様のお身体、今すごく臭いですから出仕は明日になさった方がよいかと。香を焚いてますから明日には……ひたたたた」
「どこの藪医女のせいだと思っている。どの口が臭いと言った」
頬を引っ張りながら、睨みつけるとやめてくださいと懇願された。
確かにあの薬湯風呂と同じ臭いになっているならば出仕するわけにはいかない。
別に火急の用事もない皇毅はもう一度長椅子にふんぞり返った。
「暇だ……」
仕事がなければする事がないみたいな事をぼやいてしまった。
そんな自分に少々ガッカリだった。
「お時間があるならば……その、龍笛を、吹いてくださいませ」
爪を研ぎながら玉蓮が見つめてきた。
透き通る薄い琥珀色の瞳を素直に美しいと思う。
そういえば御史台の中庭で一緒に合奏したことがあった。
「お前の為にか?」
今度は皇毅が鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
その様に玉蓮は心底凹んだ表情で俯いた。
嗚呼、モヤモヤする。
皇毅は勢いよく身を起こして琥珀色の眼前に詰め寄った。
「お前の為に笛を吹いたなら、お前は何を返してくれる」
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