沼の淵に佇む


酒器から丹念に精製された透明な酒がトクトク、と漏れ出し客の手にある酒杯へと注がれる。

その様子をぼんやりと見ていると、また皇毅の顔が脳裏に浮かんできた。
今まであまり思い出す事もなかったのに、どうして今になって頻りに思い出すのだろうか。

(あの時も、お酌して皇毅様からお刺身を戴いたわ)

懐かしい。
桃遊楼でこんな風に不得手なお酌をしてお刺身を食べさせてもらった。

恐怖のドン底で味わった夢のような甘い体験。
皇毅から邸に連れ帰ってやると言われた時、胸が高鳴って特別な縁を感じたのを今でもよく覚えている。

なにより不思議だったのは、皇毅に触れられても嫌悪感に苛まれなかった事。

「何を考えているんだ」

「え……?」

上の空な玉蓮の頬はお酒を飲んでいないのに紅らんで口許は無意識に弧を描いていた。
他の男の事を考えているその姿で遂に客の怒りに触れていた。

しかし不快を露わにした客に対してはっきりとした口調で答えた。

「貴方の事で無いことだけは確かです」


−−−−私の心を捕らえることが出来たのはあの方だけ


先ほどまでオドオドしていたくせに、発した言葉は酷く挑発的で男を逆上させるに足りていた。

酒杯を乱雑に置き睨みつけた男は、椅子から立ち上がりそれ以上は何も言わずにそのまま去ってしまった。
殴られる事も覚悟していたが、妓楼の宴席で妓女を殴れば騒ぎになるだろう。その事を警戒してか、特に咎めなく難を逃れる事が出来たようだ。

コウガ楼の妓女達は全て高級妓女であり守られている待遇が玉蓮を救ってくれた。

残された酒杯には、まだたっぷりと酒が注がれており、ゆらゆらと揺る面を見つめながら時が過ぎるのを待つことにする。

待っていればこの後、よからぬ催しが行われるはずで、何処かに清雅含め御史台もそれを待ち伏しているのは確かだ。

気持ちをもう一度落ち着かせよう。

『不老不死の丸薬』の正体を突き止め、そして御史達の背後に控える皇毅の所へ行きたい。
不老不死などまやかしだと訴えたい医女としての心は、皇毅と再会し因縁を辿る為の手段となってしまった。

悲しいけれど、もう立ち止まることは出来ない事を心に刻もうと瞳を閉じた。

やがて騒がしかった管弦の音が徐々に小さくなり、客と席を外す妓女達がちらほら見えだすと、数人の客が大広間から続く奥の個室へと消えてゆくのが見えた。

きっとあれだ−−−

確信して立ち上がり、続いて奥へ進もうとすると、大きな扉を塞ぐ屈強な用心棒が棍を倒して道を塞いできた。

「この先へは立ち入るな」

降ってきた声は適当な言い訳では通じない厳しいものだった。
コウガ楼に雇われているのか、賭博をする官吏に雇われているのか分からないが、どちらにせよ玉蓮は侵入者であるため助けを求める事も出来無そうだ。

「失礼致しました……」

丁寧に一礼して一歩後ずさる。
仕方ない、こうなったら裏口を探して張り付いていようと決め踵を返すと個室の中から「待て」と声が掛かった。

先ほどまで一緒にいた男が此方を凝視している。
用心棒は眉根を寄せるが仕方ない様子で後ろへさがり男が前に立った。

「これからこの室で賭事のお遊びをやるんだが、入りたいのか」

思わぬ言葉に玉蓮は瞳を見開いた。

「はい。私、賭事が大好きなのです。是非とも参加させて頂けたらと思います」

すかさず用心棒は前に出て再び道を塞いだが、官吏らしき男は何か思う事があるのか用心棒を窘めた。
男はもう一度玉蓮を見つめる。しかし先ほどとは違いその眼差しは上から睨みつけるものだった。

「賭博をやってみたいのなら特別にいれてあげよう。ただし、負けが込んだらそれなりの対価を払う事になるけれどいいかい?」


それなりの対価−−−−

でも、

(私は絶対に負けない……負けるはずがない)

「わかりました」

玉蓮は大きく頷いて、引き返せない沼の縁にあった最後の敷居を跨いだ。





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