湯浴みの時間
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葵家の御曹司、皇毅の息子が手拭いとぬか袋を手に葵邸の回廊を一人とことこと歩いていた。
今日の息子は至極ご機嫌だった。
早々に宿題が終わって大好きな母上と護衛を連れて夜のお散歩へ行き戻ったところ。
夜路は昼とはまた違う風情があり、特に春の夜は殊更美しかった。
(母上と見た夜桜、綺麗だったなぁ……今日は父上もいらっしゃったから夜の散歩に誘ってみれば良かったかな………でもいいや)
中庭から見える昊を見上げながら楽しかった散歩を思い出していた。
しかし気分よく湯殿の扉に手を掛けようとしたところで、中庭を挟んだ対の回廊に皇毅と妹が同じく湯殿へ向かって歩いて来るのが見えた。
湯浴みの時間が被った。そんな馬鹿な。
どうしよう、どうしようと扉に手を掛けたり引っ込めたりしているうちに皇毅達はもう目の前にいた。
「帰っていたのか。玉蓮との散歩は楽しかったか?」
「……!!!」
息子は絶句して俯く。
この声、まさか根に持ってる……のだろうか。
あにうえ、あにうえ〜、と手を伸ばしている妹を抱きかかえたまま皇毅は躊躇い無く湯殿の扉を開けて中へ入ってしまった。
バタンと閉まる扉を眺めながらぼんやりしていると今度は玉蓮が二人の着替えを持ってやってきた。
ぬか袋を手に佇んでいる息子の様子を見て優しく話しかけてくる。
「湯殿へ入ろうとしていたの?ちょうどいいわ皇毅様達と一緒に入っていらっしゃい」
ふわりと微笑み嬉しそうにしながらも結構力強くぐいぐいと背中を押され息子は抵抗する。
「は、はぁ?父上と一緒になんて入りませんよ」
「昔は一緒に入っていたじゃない」
「そ、そんな小さな時の事覚えてません!時効です」
時効って、何だ。
我ながら訳の分からない事を言い、頑なに頚を横に振る様子に、眉を寂しく下げた玉蓮はそうだと思いついて手を合わせた。
「じゃあ私と一緒に入りましょうか」
「は、……」
………。………。
母上と一緒に。
ぽてん、とぬか袋が床に落ちた。
母上と湯浴み、……ちょっと嬉しい。
でも殺される。誰に、 もちろん父上に。
嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちと、ついでに恐ろしい気持ちが湧き上がり、頭に血が上って息子は叫んだ。
「僕は父上ではありません!母上とお散歩しますが、湯浴みはしませんから!」
その言葉を聞いた玉蓮は瞳を見開いて固まった。
指先が微かに震えている。
「…………」
「あ、あの……僕は……」
妹と違って素直でない自分を悲しく思ってしまったのだろうか。
そうだとしたら本当に申し訳ない。
父上に似てしまって……ごめんなさい。
「……どうして、何故私が皇毅様と一緒に入っていること知っているの」
「え、………」
見ると玉蓮は蒼くなりながら紅くなるという不思議な顔色になっていた。
そんなこと言われたって宿題が夜中までかかった時にたまに見かけるのだ。
父上の後ろをちょこちょこついて一緒に湯殿へ消えてゆく母上の姿。
まさか、あれは秘密だったのだろうか。結構バレバレだったけど。
「今の話は内緒ですよ!?外なんかで絶対に話してはだめよ!」
話が頓挫したまま必死で息子に言い聞かせる玉蓮と、そんなこと誰に話すんだと目をすがめる息子。
湯殿の戸口からは湯気が溢れ、楽しそうな娘の笑い声が聞こえてきていた。
了
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