旺邸の心臓


靄のかかる路地の地平線を静かに見詰める老齢の男が一人。

旺邸家令の老主人。

戦禍に巻かれる旺家から離れず仕え続け、戦場で散々となり消え逝った一族の最後に残る季に今でもしぶとく身を寄せている。

気難しく皮肉屋で客人に煙たがれる事も屡々だが、忠誠心ただ一つを引っ提げついてくる老家令を旺季は決して追い払おうとはしなかった。

そんな家令が最も忌み嫌う相手が葵皇毅だった。
少し曲がった身体からゾワリ、と業腹が沸き上がる。

(お嬢様を棄ておいて、今更女を連れて来るとは……)

決裂した原因は老家令が今でも鐘愛してやまぬ、

『飛燕お嬢様』

かつて皇毅は家令の大切なお嬢様にたかるハエの様な存在で、寄ってくる度に紙を固く丸めぶっ叩いていたものだ。
その様子を困ったように笑って見ている飛燕お嬢様と全然懲りないハエ。

それはそれで、間抜けで何処かのどかな光景だった。

そんな中、先王が病に臥し公子達の争いが激化する。
同時に旺季を邪魔に思う官吏達から差し向けられた兇手達が邸の周りに影をチラつかせるようになった。
その一端が飛燕の暗殺に刃を向けた時、旺季の傾いた牙城を護っていた皇毅が迷わず全てを捨て飛燕の手を取り共に地方へ逃げた。

その時、漸く認める事が出来た。飛燕お嬢様を護れるのはこの男しかいないと、老家令は切に思った。

『皇毅殿、どうか、どうかお嬢様をお願い致します』


落ちのびる為、朝陽に向かい走る二頭の馬を見送りながら老家令は懇願し深々と頭を下げた。


葵皇毅殿、
どうかお嬢様をお願い致します


あんなに頼んだのに、信じていたのに。

それなのに

やがて皇毅は飛燕の手を離し偏狭の縹家へ彼女を送ってしまった。
老家令の大切なお嬢様は、そのまま帰る事も叶わず、縹家で亡くなった。報せの文が一通寄越されただけの、そんな呆気ない、不遇の最期。

『貴様が殺したも同然なのだぞ!』

老家令が激昂しハエを叩く紙ではなく人を殺す剣を突き付けた時、皇毅は泣くでもなく悲しそうな表情をするでもなく鬼のような形相で睨み返してきた。

もう、お嬢様の傍に寄り添い静かに腕を組む皇毅はどこにもいなかった。

朝陽に向かい走る二頭の馬を走らせた皇毅と飛燕。
二人はもうどこにいない。
否、皇毅は生きている。死んでしまったのはお嬢様だけ。


何度思い返しても膓が煮えくり返る。
どのツラ下げて妻を連れてくるつもりだと、それを一番に見たくて早くから立っていた。




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