大学を卒業して社会人となってからの毎日は、あっという間だった。 希望通り丸川の少女漫画編集部に配属されて、それまで全く興味がなかった少女漫画を読みこんで、他社作家だった吉野を引き抜いて、死にそうな締め切りに毎月追われて。 気付けば俺も三十手前で、子供の頃の感覚ならおじさんと呼んでもおかしくない年頃だ。だが、実際に自分がその年代になってみれば、おじさんと呼ばれるのは実に心外である。普段デスクワークばかりだけれど体力には自信があるし、まだまだ若いつもりだ。 だが、気持ちの面ではどうにも年をとった。いつでも奔放な吉野と付き合っていく内に辛抱や忍耐力が身に付いて、吉野と無邪気に走り回っていた子供の頃よりは、ずっとずっと落ち着いた大人になった。 ―――――筈なのに。 「ん?どうしたんだよ、トリ」 サイズの合っていない服を着た吉野が首を傾げた。大方そこらにあったから適当に着たのであろう。ぶかぶかのトレーナーは吉野の白い首を隠さない。吉野が動く度に、その合間から小さな鬱血の後がちらりと覗いて、目眩がした。…いや、そもそもそれを付けたのは自分なのだから今更狼狽えるのも世話ないが、それにしても。 (………年甲斐もなく、羽目を外しすぎたか………) 羽鳥芳雪、二十九歳。 現在、幼なじみ兼恋人の仕事場の入口で、思わず頭を抱えたくなったのを堪えて、立ち竦んでいる。 昨日は日曜日で仕事もなく、久しぶりに吉野と丸一日一緒に居たのだ。昼食を作り、翌日からの原稿に取り掛かる前にとネームの最終チェックをしていた。 その最中、隣に座っていた吉野が「喉が渇いた。コーヒーでも飲もうぜ」と言って立ち上がった。俺も同意して、小休止を挟むことになる。 暫くしてコーヒーのカップを二つ持って戻った吉野だが、床に散らばっていたコピー用紙に足を滑らせた。 「うわ……っ!?」 「危ない!」 体を傾かせた吉野を抱き止める。まだ熱いカップの中身をほとんど零さずに済んだと分かって、ほっと息を吐いた。脇のテーブルにカップを置いた吉野が、肩の力を抜いて気を落ち着ける。 「気を付けろ、馬鹿」 「わ、わるい…。サンキュー、トリ」 殊勝に謝罪をしてきた吉野だが、不意にピタリと動きを止める。俺もはたと気付いた。 今の俺は膝の上に吉野を抱きかかえるような体勢で、いつもは俺より低い位置にある吉野の頭が少し高い。距離は鼻先を突き合わせる位に近くて、如何にも吉野が照れそうなシチュエーションだ。 その証拠に、どうしたものかと目を泳がせている吉野の頬が、じわじわと朱に染まっていく。 「そ、その、マジで悪かったな…すぐにどくから」 「千秋、」 離れようとする吉野の体を逆に引き寄せる。びくりと一瞬肩を震わせながらも抵抗しない吉野に気を良くして、薄く開かれていた唇に舌を潜り込ませた。 そうなってしまえば、最早ネームやコーヒーはそっちのけ。そのまま最近ご無沙汰であった行為に雪崩れ込む。一晩中吉野に構い倒し、今朝は会社に行くギリギリまで散らばったコピー紙やコーヒーの片付けをすることになった。 ……そして、今日。 ネームも終わり、今日からアシスタントを呼んで原稿に取りかかる吉野とアシスタントたちのために、途中で買った差し入れを持って吉野の家を訪れた。 仕事場に足を踏み入れてみれば、奥の机で作業していた吉野が顔を上げて、俺の差し入れに目を輝かす。すぐに立ち上がって駆け寄ってくる吉野を子犬のようだと思いながらも、その姿にぎくりとすることとなった。 昨夜あまり眠れなかったせいで瞼は重たげで、とろりと下がろうとしては瞬きを繰り返す。 注意して見ればわかるけれど、少し腰を引きずった歩き方は、だらしがないというよりは妙になまめかしい。 加えて、丈の余ったこのぶかぶかの服。 (………こいつは、今どんな格好してるかってこと、自覚してないんだろうな…) 昨日の情事の名残がありありと伝わる姿に、溜め息をつきたくなる。きっと寝不足で判断力が鈍っているせいで、本人は気付いていないのだろう。気付いていたら、ぎゃあぎゃあと文句を言ったり、凄みのない睨みをきかせてくるに違いない。 …それにしても、この格好はまずくないか。 俺達が付き合っていることは、アシスタントたちには内密だ。未だに昨夜名残が抜け切っていない吉野の相手が、まさか俺だと感づくことはないだろうが…誰も吉野のこの姿をおかしいとは思わないのだろうか。 「先生、私、コーヒーの準備とか手伝いましょうか?」 「ああ、ありがとう、希美ちゃん。じゃあ俺、お皿用意するから。みんな、休憩にしようか」 「はい」 アシスタントの希美が立ち上がった。別段普段と変わらない態度で、食器棚に向かう。 他のアシスタントたちも手を止めて、机の上を片付け始めた。 「ところで先生、さっきから気になってたんですけど」 机の上の片付けをしていた理恵が、キッチンに向かおうとする吉野に声をかけた。 気になっていたこと、という言葉に、思わず反応してしまう。やはり何か不審に思ったのだろうか。 「作中の季節が冬なのに、このページの主人公がかき氷食べてるのおかしくないですか」 「マジで!?あー、後で直しておくよ。うーん、俺、なんでそのシーンかき氷にしたんだろ…」 「さあ…」 唸る吉野を見て、同じく机を片付けていた晴香も苦笑いだ。和やかな雰囲気が漂う。 (……俺の考え過ぎか……) こっそりと小さく安堵する。アシスタントたちにとっては、吉野が多少いつもと違っても、気にするまでのことでもないのかもしれない。 …しかし、扉に手をかけた希美と吉野に、静止をかけた者が居た。 「あ、待って。俺、自分のコーヒーは自分で淹れるから。ついでに、みんなの分も淹れる」 俺が来てからずっと口を開かなかった柳瀬だ。柳瀬は自分が口にする物にはやたらとこだわりがあるので、コーヒーもいつも自分で淹れたがる。なんら不自然なことはない。 だが、俺の傍を通り過ぎるすがら、柳瀬がさも苛ただしそうに小さく舌打ちをした。 ―――ああ、やはりというか何というか、柳瀬にはバレていたらしい。 ずしりと気が重くなりながら、部屋を出た三人を見送ってから、誰も使っていなかった机に手荷物を下ろす。 少しすると、三人は談笑をしながら戻って来た。何やら盛り上がっていた吉野だが、後ろに居た希美を振り返ろうとして、ドアの桟に足を躓かせる。 「うわ…っ?」 「…っと、危ないな」 前のめりになった吉野を、左手にコーヒーの乗った盆を持った柳瀬が、右手だけで器用に抱き留めた。何故か既視感を覚える光景だ。 柳瀬が眉をひそめて、これ見よがしに溜め息を吐いた。 「千秋もさ、もう三十なんだからもう少し落ち着けよ」 「う…」 「俺さ、いい年してあんまり浮ついて、羽目を外し過ぎたりする奴とかって嫌いなんだよね」 冗談っぽい口調で吉野の肩を叩いた柳瀬だが、しかし目は笑っていない。チラリと俺に視線を寄越して、一瞬だけ目を眇めた。成る程、先の台詞は俺に向けたものということか。 それに気付かない吉野は、友人の台詞を単なる己への注意と受け取り、眉を下げて苦笑した。 「あはは、優はキツいなあ」 菓子を取り分けた皿を持った吉野が、背を正して机に菓子を置く。 「……ん?トリ、まだそこに立ってたの?早く空いてる椅子にでも座りなよ」 「あ、ああ…」 不思議そうな顔をした吉野に言われて、漸く俺は、自分がぼうっと突っ立っていたことに気付いた。色々と情けない。 「そうそう、どっかに適当に座ってろよ。羽鳥も今日はお疲れなんだろうから、さ」 柳瀬が含みを持たせた口調で言う。吉野や他のアシスタントたちはきょとんとしたが、柳瀬の「それより、コーヒー冷めるから」という言葉に、意識を逸らされる。 ああ、分かっているとも。 年甲斐もないことをしたのは俺で、今回は吉野が悪い訳ではなく俺が悪い。 ―――しかし。 (……コイツに言われるのは、どうにも腹が立つ……っ) 内心密かに唇を噛みながら口に含んだコーヒーは、文句の付けようのない程美味しくて、それがまた腹立たしさを煽った。 葉菜様のリクエストによるお話でした。 頂いたのは「思いっ切りイチャイチャした次の日に差し入れに来たトリが、いかにも情事後な千秋に焦る話。千秋は痕がみえていると気がついていないし、トリはアシストの子たちが気がついているのか、いや気がついても相手が自分とは分からないだろうなどと内心はハラハラしている」というリクエストでした。自分でやっておいて焦る羽鳥がとてもツボで、頂いたリクエストを見てとてもにやつきました(笑) 葉菜様にお楽しみ頂ければ幸いです。素敵なリクエスト有り難う御座いました! 2012.03.07 |