他の人には難なく出来ることでも、雪名には容易く出来ないことが結構ある。 例えば、下の名前は未だに呼んだことがない。最初はネームプレートに書かれた名字しか分からなかったのだけど、付き合い出してからも結局雪名と呼ぶのが定着してしまった。 …皇と、呼んでみたくない訳じゃないけど、今更呼び名を変えるのに何となく気がひけて、未だに雪名の下の名前を声にしたことはない。 色々と考えてしまうのだ。俺が急に呼び名を変えて妙に思われないかとか。雪名に限ってそんなことはないと思いながらも、嫌そうな顔の一つでもされたらどうしようとか。あれこれ考え出したら、もう気軽に名前なんて呼べなくなる。後ろ向き思考の自分に少し呆れるけれど、これは自分の性質のようなものなのでしょうがない。 呼び方一つにしてもこう悩むのだから、雪名と付き合い始めた頃は途方に暮れていた。今まで人とまともに付き合ったことがない俺にとって、所謂世間一般のお付き合いって、何をしていいのか分からなかったから。 まるで知らない土地に突然放り出されたみたいだ。初めての恋には目的地を記す地図も、経験という羅針盤もなく、どこに向かって歩き出せばいいのか分からない。 『木佐さん』 あいつは俺をこう呼ぶ。そう言えば、まだ俺も自分の下の名前を呼ばせたことはない。 俺の方が年上なのだし情けないけれど、自分から切り出すのは気恥ずかしかった。 …それ以上のこともとっくにしてる三十男が、今更何を恥ずかしいんだとは思う。名前なんて、特定の相手を作っていなかった頃は、その時々の相手に適当に呼ばせていたというのに。でも、雪名が呼ぶと考えたら、何だかそれが特別なことに思えて。 『木佐さん、』 軽く言ってしまえれば良いのだけど。名前にしても、その他の色々なことにしても。 なんで相手が雪名だと、簡単だったことが出来なくなるんだろうか。 「木佐さーん?」 「うわあぁぁ!!」 耳元でかけられた声にぎょっとして振り返ると、今まさに考えていた人物が、ぱちぱちと瞬いていた。長いまつげが上下するのについ見惚れそうになるのを堪える。もうそろそろ見慣れた筈の顔なのに、未だに目が奪われかけてしまう。 「うわあって…」 雪名が苦笑をした。少し下がった形の良い眉尻も、綻んだ口元も、今日も雪名はどの角度から見ても格好良い。…ああ、何だかんだ思いながらも、雪名の所作一つ一つをチェックしている自分が恥ずかしい。 「ど、どうしたんだよ、雪名?」 「…いえ、あの………というか、木佐さんがどうしたんですか…?さっきから呼びかけても気付かないし」 「…な、何でもない…」 首を傾げた雪名から、先程から少しもページが進んでいない雑誌へと目を落とした。 明日は日曜日。俺は仕事が、雪名は学校が休みなので、今日は俺の家に雪名が泊まることになった。特に行きたい場所も出かける予定もないので、このまま休日を家の中で過ごすことになるだろう。 何度も雪名からデートに誘われていたのに、大抵は俺に急な仕事が入って駄目になってしまうことがしばしばで、こうして二人で過ごせるのは久し振りだった。なるべく一緒に居る時間を作ろうとお泊まり会と称した半同棲生活で同じ部屋で寝起きしても、不規則な生活の編集者と学生とでは就寝時間も起床時間も噛み合わなかったりして、あまり会話をしない日もあった。その上、俺は自分のことで手一杯になりがちで、いつもめげずにマメな連絡をくれるのも本当なら俺が気を使って然るべきの年下の雪名から。 ……だからこそ、たまに一緒に居られる時くらいは、俺も雪名に何かをしてあげられたら。例えば、 (………たまには俺から誘ってみたりもした方がいいのかな。うん、明日休みだし…………) ―――――なーんて、思ってしまったのがいけなかったのだ。 (…言えない…) 雪名になかなか切り出せず、かれこれ一時間、雑誌をなぞりながら悶々とする羽目になってしまった。 生娘でもあるまいし、何度もしてしまっていることなのに。一度も呼んだことのない名前を呼ぶよりは、ハードルが低い筈なのに。 軽い調子で言えばいいじゃないか。今までの相手にしてきたみたいに。 「雪名!」 ぐりっと体を捻らせて、雪名に振り返った。 「何ですか?」 いつものように柔らかく微笑まれる。雪名の爽やかさに、何だか自分が物凄くいかがわしい思考をしていたように思えて、後ろめたくなってしまった。 …そもそも何か雪名にお礼をしたいと思って、それが自分から行為に誘うということに結び付くなんて…。 それで雪名が喜ぶとも限らないのに。自惚れていないか。単に俺がしたいだけじゃないか………って、欲求不満か、俺は。 でも雪名が他に喜ぶことも思い付かなくて、そんな自分にまた少し呆れた。 「な、何でもない……」 「はあ、そうですか…」 雪名が不思議そうにきょとんとした。 ―――いやいや、でも。 やっぱり俺達ってお付き合いしてる訳だし、少しくらいはいいのかな。 本当に口に出したいのは、欲求不満からの誘い文句ではなくて、もっともっと単純なことで。 「雪名」 「はい?」 俺より高い位置にある頭に顔を寄せる。ゆっくり仕掛けたら気恥ずかしくなるので、努めて素早く唇を盗んだ。 「……その、いつもありがとう」 ぼそぼそと伝えるのは、日頃の感謝。 きっと三十路のオッサンとのお付き合いって、普通に女の子と付き合うよりは遥かに面倒くさいであろう。でも雪名はいつだって楽しそうに笑っていて、そんな雪名に俺は気持ちが軽くなるから。 だから、たまには普段言えないことも、言ってみてもいいじゃないか。 しかし、緩く笑んでいた雪名は、急に真顔でだんまりになってしまった。ぱちりとアーモンド型の目を開かせた雪名は、固まってしまっている。 「…いや、だからその、たまには俺からも雪名に感謝くらい伝えられたらって思って、だから俺から雪名にもっと何かした方がいいのかと………って、何言ってんだ俺は…」 「………………」 仕舞いには肩を震わせて俯いた雪名に、まずいことをしてしまったのかと内心穏やかではない。 暫くして、勢い良く上げられた雪名の顔は、少し怒っているようにも見えて益々心中が波打った。 ………あああ、やっぱり普段しないことなんて、しない方が良かったんじゃないか。雪名引いてないか。寧ろ怒ってないか。 ようやく肩の震えを治めた雪名が、堪えきれないといった具合に言った。 「ああっ、もう!何なんですか、木佐さんは!」 そうして雪名の方に体を引き寄せられる。雪名の腕の中に収まると、いつもより強めの力で抱き締めてきた。 (……えっ、なんで…?) 訳が分からなくて、ぎゅうぎゅうとされるがままになっている俺に雪名が言う。 「さっきからずーっと木佐さんの顔が赤いし、何故か珍しくもじもじしてるし、マジで可愛かったんですよ!?誘ってるのかと思ったんですから!」 「………はっ?」 そうまくし立ててきた雪名が、どうにも附に落ちなかった。 (……いや、俺、まだ誘ってないんだけど…) 過去に特定の相手を作らず遊びまくっていた経験から、自分から誘いかけたことだって何度もある。 しかし今日は、俺が自分から誘う時のパターンには則っておらず…つーか今日の俺は、始終雪名の横でまごついていただけじゃないか。 果たしてこれで良いのか。……いや、あんまり良くないような。最初は俺からアクションを起こしたかった筈なのに。 「雪名、違うから」 抱き付いてきた雪名の身体を引き離す。ふわりと離れた体温が名残惜しくあったのか、離れた手は宙に浮いたままだった。 「はい?…ああ、すいません、俺、昼間から妙なこと言っちゃって」 「違う。誘うのは、これからなんだから」 雪名が何か言う前に、先ずは襟首を掴んで引き寄せて、油断していた唇を深く合わせていった。 まつ様リクエスト「雪木佐で木佐さんから雪名を襲う(または誘う)話」でした!頂いたリク内容を見て何となく、中々誘えずもじもじしている木佐さんを想像してしまったので、雪名の前だと普段の調子が出せなくなる木佐さんのお話になってしまいましたが…如何でしょうか…?(ドキドキ) リクエスト有り難う御座いました! 2012.02.07 |