いつでも人が絶えることはない丸川書店の雑誌編集部だが、今は丁度昼食の時間と云うこともあって席を外している者も多く、現在エメラルド編集部には俺と高野さんしか居なかった。 因みに木佐さんと美濃さんは外食に行っていて、羽鳥さんは作家との打ち合わせが終わってから出社するそうだ。 高野さんと二人きりになるのは極力避けたかったので俺も編集部を出たかったのだが、昼食の前に済ませておきたかった仕事が終わらず席を立てない。代わりに高野さんが昼食でも何処へでも行ってくれまいか…と密かに念じていたものの、山積みにされた書類のチェックをしている高野さんにも席を立つ気配はなかった。 お互い仕事をしているのだから会話がなくて当たり前なのだが、高野さんと二人の時の沈黙には気まずさでいつも息が詰まってしまう。一刻も早くこの状況から抜け出したくて、キーボードを打つ手が速くなる。 …そんな沈黙を突然破ったのは、高野さんだった。 「小野寺。やっぱりお前、俺の家に一緒に住めばいいんじゃないのか」 突然の言葉に顔を上げれば、先程まで俺と同じくノートパソコンに向かって仕事をしていたはずの高野さんが、頬杖をついてこちらを見ていた。 俺の聞き間違いでなければ、さっき高野さんは一緒に住む…と言っただろうか。突拍子もない提案を言い出すのはいつものことだが、何の脈絡のない発言には思考がしばし止まってしまった。 黙っていれば、この図々しい上司は沈黙を肯定と捉えてしまう。事態を理解出来ないままいつものように流されてしまうのは嫌なので、頭の中で高野さんの言葉を反芻して、もう一度さっきの言葉の意味を考えてみた。 ………えっと、誰と誰が、一緒に住むんだって? …俺と、高野さんが? 一緒に? 「なっ…なんで俺が高野さんと一緒に住まなきゃいけないんですかっ!?」 「反応おせーよ」 高野さんは察しの悪い俺に苛ついた様子だったが、いきなり訳がわからないことを言われて、腹が立つのはこちらの方だ。 「お前、ろくな生活してねーだろ。まともなメシも食ってなさそうだし、どーせ床で寝てばっかいるんじゃねーの」 決めつけるような言い草に、反論したくなる。 「な、なんでいきなりそんなことを言うんですか…!大体、俺がろくな生活をしてないだなんて、どうして言い切れるんですか」 「いっぺん自分の姿を鏡で確認してみろ…一目瞭然だから」 「はぁっ?失礼なこと言わないで下さい!」 いきり立つ俺から視線を逸らさないまま、高野さんが大きく溜め息を吐いた。 「俺と一緒に住んでいたら、こんなことにはならなかったかと思うとな…。最初は呆れてたんだが、お前がいつまで経っても気付かないもんだから、呆れを通り越してだんだん心配になってきた」 「?」 一体何を言いたいのか分からない。 …いや、そもそも高野さんの考えることは、俺にはいつだってよく分からないのだけれど。 十年前に付き合っていた頃はそんなことは無かったのだが、それは告白を受け入れてくれたことだけで頭が一杯で、相手が何を考えているかまで気を回せなかったからだろう。 十年前の高野さんは寡黙で、多くは語らなくても、目線や行動で語る人だったように思う。そこがミステリアスで魅力的というのが、図書室に出入りしていた女子生徒たち(…と、当時の俺)の抱いていた見解だ。 それが現在の高野さんは、仕事に関する無理難題をふっかけてきたかと思えば、こっぱずかしい台詞を投げつけてきたりする。少女漫画について語らせればいつまでも話が途切れることはなく、しかし都合の悪いことは右から左の耳へと聞き流す大人の狡さも身に付けていた。 あの頃よりは断然お喋りだけど、あの頃より益々、彼が分からない。高野さんの考えていることも、そんな高野さんに一体俺はどうして欲しいのかも分からない。 俺がこういうことを考えているのを、それこそ高野さんは分かっていないのだけれど。 黙り込んだままの俺に痺れを切らした高野さんが、いかにも面倒くさそうにデスクから立ち上がった。 「…あのさ、小野寺」 そうして俺の耳元へ、高野さんの手が伸びてくる。 高野さんの指が微かに触れた耳が、熱を持って痺れだした。 ―――気安く触れないで欲しい。高野さんにとっては、なんでもないことかもしれないけど、俺はその何気ない行動にいちいち背筋がぞくりとするのだから。 高野さんに触れられると、まるで胸中で感情がミキサーをかけられたようにしっちゃかめっちゃかだ。羞恥も躊躇いも細切れにかき混ぜられて、自分が分からなくなる。 「…触らないで下さいっ!」 反射的に、手が出てしまった。 高野さんの手を振り払ったパシッという音が、他に人の居ない編集部にはやたら響いたように思えた。 メガネの奥の高野さんの瞳が驚きで見開かれているのが、何故だか傷付いていたように見えて、胸に刺さる。振り払ったのは俺の癖に。 ああ違う、今のは拒絶じゃなくて…いや、拒んだのは確かなんだけど、でも… 「あ、あの、高野さ…」 「たっだいま〜〜〜っ!」 俺の言葉は、いきなり降ってきた明るい声に遮られた。 「只今戻りましたー。…あれ、どうしたの二人とも、そんな所に突っ立って」 「本当だよ〜。なになに、何してたの、二人とも? ああっ、まさか高野さん、抜け駆けとかしてないよね」 「…何もしてねーよ」 外食に出ていた美濃さんと木佐さんが帰って来たようだった。いつものように美濃さんは笑顔、木佐さんは楽しそうにしていて、先程までの気まずい雰囲気が塗り替えられていく。 あのまま高野さんと二人で居るのは気まずかったから、二人の帰還には内心安堵する。…あのままでいたら、さっき一体何を口走ったかわからない…いつものように高野さんのペースに巻き込まれては駄目だ。 …ところで、さっき木佐さんは、気になる言葉を言わなかったか。 「抜け駆けって…?」 「ああ、律っちゃんは気にしなくていいよ」 ニヤニヤと笑って俺の背中をバンバンと叩く木佐さんに、何となく嫌な予感がする。というか木佐さん、痛いんですけど。 高野さんは、さっきから俺の隣で黙って立っていた。 ―――――も、もしかしてさっきの高野さんとのやり取りを見られていたとか…いや、でも、俺は特に変なことを言ってなんか…変なこと言ってきたのは高野さんだし………って、それを聞かれるのが一番マズくないか…。 ぐるぐると考えていると、今度は打ち合わせに行っていた羽鳥さんがやってきた。 「おはようございます」 「ああ、羽鳥、おはようー…つっても、もう昼だけど。 ところで、手に持っているのは…」 木佐さんの関心は、俺から、羽鳥さんの持っている紙袋へと向けられた。 「ああ、これは吉川千春からの差し入れ、藍屋の苺大福だ。今すぐ食べるか?」 「わーいっ、大福ー!食べる食べる!」 「木佐、さっきご飯食べたばかりじゃないか…」 早速取り出される大福にはしゃいだ木佐さんに、美濃さんも苦笑しながら大福に手を伸ばす。エメラルド編集部のメンバーは、基本的に食欲旺盛なのである。 「これが小野寺の分」 「あ、有り難う御座います」 このままでは全てなくなってしまうと危惧したのであろう。俺に包みを一つ手渡してくれた羽鳥さんだが、俺の頭に視線を向けると眉を寄せた。 「小野寺、寝癖が酷い」 ぐしゃっと頭を撫でられる。羽鳥さんが頭に触れてくる手が自然だったので、大人しくされるがままにしてしまった。…って、ちょっと待て今羽鳥さんは何て言った。 「………寝癖?」 「あああーーーっ!!羽鳥、なんで律っちゃんの寝癖直しちゃったんだよ!いつ気付くか賭けてたのに!」 「すまん、吉川千春が床に倒れて寝ていた時と似た寝癖だったから、つい…」 「もう、自分で気付くまで放置していようって、高野さん達と話してたのに」 「もはや芸術の域だったのにねぇ、あの寝癖。直しちゃうなんて勿体ない。 あっ、でもこっそり写メっといたから」 お前ら人が悪いぞ、と言う羽鳥さんに構わず、美濃さんが携帯電話を俺に見せてくる。 …画面の中には、何をどうしてこんな髪型になったと突っ込みをいれたくなる、俺の姿があった。 「なっ、なん…これ……!」 何なんですかこれ、と言いたいのに衝撃で声が出ない。 すると俺は、この妙な髪型で電車に乗り、午前中の仕事を行っていたというのか。恥ずかし過ぎる。 口をパクパクとさせていると、益々不機嫌そうな顔になった高野さんがやっと口を開いた。 「だから、お前、朝からすっげえ変な寝癖ついてたんだって」 「なんですぐ教えてくれないんですか!」 「流石に俺も途中でどうかと思って、さっき教えようとしたんだが…お前が最後まで聞かなかったんじゃねーか」 …それはもしや、先程の「一緒に住む」云々のことか。 「そんなんでわかる訳ないでしょうが…っ!!遠回し過ぎます!」 「俺が本題に入る前に木佐たちが来たんだよ。つーかお前、本当に全く気付いてなかったわけ?ありえねー」 「…いえ、どうりでコピー取りに行くときとかに、他の部署の人にクスクス笑われてる気がすると…」 「そこで気付けよ。つーかお前、社会人だろ。身だしなみくらいきちんとしろ」 「うっ…」 返す言葉もない。 「まあ、俺が一番苛つくのは、なんで俺が触ろうとしたら警戒すんのに、羽鳥や木佐には簡単にベタベタ触らせてんのかってことなんだけど」 不機嫌さを露わにした高野さんが続けた。 木佐さん達に聞かれていないかとギクリとしたが、いつの間にか三人は大福談義で盛り上がっていたので、きっと聞いてはいないだろう。 「なあ、小野寺。なんで?」 ―――みんなのいるところで、そんな顔をして聞かないで欲しい。 普段横暴でふてぶてしい高野さんが、こんなくだらないことで少し淋しげにしているのが、俺には分からない。 「…高野さんは、みんなと違うんです…」 ぽろりと零れた言葉は、無意識だった。 「高野さんに触られると、頭がかっとなってしまって、仕事にならなくなるっていうか…」 ああ、何を言っているんだ、俺は。 ぼそぼそと語る俺を見た高野さんはと云えば、目をぱちくりとさせた後、ニヤリと笑った。 「………なにそれ誘ってんの?」 「はあっ?ちが…」 「分かった、リクエスト通り、仕事に支障が出ないようにしてやる。仕事終わってから触りまくるから」 「なんでそうなるんですかっ」 一気に機嫌が良くなった高野さんが、俺の頭に手を置いた。すぐに離れていった手が名残惜しく思えて、慌ててかぶりを振る。 滅多に笑わない癖に高野さんは、どうしてこんなことで嬉しそうに笑うんだ。 …どうして俺は、そんな高野さんの顔を見るだけで、ドキドキしてしまうんだ…。 また高野さんに振り回されている気がして悔しくなったので、悔し紛れにさっき貰った大福にかぶりつく。 いつもなら甘くて美味しい筈の大福だけど、今の俺には苺がやたらと酸っぱく感じられた。 2011.10.06 |