そうだ、お月見でもしようかな。 そう思い立ってまずベランダのガラス戸を開けた。十五夜にはまだ早いので完全な円ではないけれど、夜空には少し窪んだ月が悠然と佇んでいる。それを確認してから、冷蔵庫から缶ビールとチーズを持ってきた。 お月見というか月見酒かなあ、これって。 一人ごちて、缶の蓋を開く。雲も少なく見通しの良い空の下、月が少し朧に見えるのはアルコールが回ってきた頭のせいか。なんだかとても気分が良い。 気付けば床に空の缶ばかりが転がっていて、チーズもとっくに無くなっていた。どうやら結構な時間、ここで一人ぼうっとしていたらしい。……だから、突然の来訪者にも気付くのが遅れたのだ。 「────何やってるんだ、吉野」 何本目かのビールを口に含んだとき、ふっと陰る視界。見上げればいつの間に来たのやら、すぐ傍でスーパーの袋を握り締めたトリが顔をしかめていた。普段は仏頂面と言ってもいいほど表情に乏しいやつだから、こういうあからさまに不機嫌そうな顔をされるのが俺としてはちょっと面白かったりもする。 「何って、お月見だよ、お月見」 緩む口元を抑えずに正直に答えると、余計にトリの眉間が狭まる。 「俺にはただ窓辺で薄着でダラダラと酒を飲んでいるだけにしか見えないが。そろそろ外も寒くなってきてるんだから、風邪引くぞ。せめて戸を閉めろ」 「えー、だって、閉めたら月が見えないじゃん。それじゃ月見になんねーだろ」 「…………」 はあ、と溜め息を吐いたトリが、スーパーの袋を置いて隣に座り込んだ。どうやらいつものお説教を諦めて月見に付き合ってくれるらしい。 ネクタイを緩めて一心地ついたトリが、俺の手の中から缶を奪う。 「ひとつ貰うぞ」 「あ、お前、ひとのビールとるなよ!」 「もう十分に飲んでるんだろ」 周りに転がった空き缶を見てそう言ったトリは、既に残りが半分くらいになった缶をぐいとあおった。…あーこれ少女漫画だったら間接キスってときめいて点描散らしたりキラキラしたトーン貼ったりするシチュエーションじゃないんだろうか。今度漫画のネタにしようかな。 ビールを飲んだトリは少し眉間の幅が広がったけど、それでもまだ皺は残っていた。そのうち皺がとれなくなるぞ、と思ったけど、それを言うと一体誰のせいだと思ってるんだと新たなお説教が開始されそうなので黙っておく。うーん、俺もなかなか学習したものだなあ。こういう調子の良いことを考える辺り、やはり今の俺は酔っている。 「……ぬるいな。お前、一体いつからここにいたんだ」 「あー、いつからだっけなあ…そんなに長くないような気もするんだけど、時計なんか見てないからわかんねーや。お前こそ、またこんな時間まで仕事だったわけ?」 「誰かさんの進行が今月も遅れたせいでな」 おっとやぶ蛇だった。 「…えっと、そうだ!俺、ビールとってこようかな。お前も飲むんだろ、ビール」 「――いらない」 立ち上がろうとしたのに、手首を掴まれて動けなくなった。今度は見下ろす形になったトリの顔には室内の光と夜の闇とでくっきりと影が落とされ、一瞬知らない誰かのように思えてギクリとした。……まあ、一瞬経てばいつも通りのトリにしか見えないんだけどさ。 「な、なんだよ」 「ビールはいいから、お前がいい」 「……はっ?」 無表情で言われたことの意味が飲み込めなくてつい固まってしまった。しかし手の甲にちゅっと音を立てて落とされた唇に我に返る。一体何をしてるんだ、こいつ。アルコールで火照っていた頭が余計に熱くなる。 「ああもう離れろ!なんでたったあれだけのビールで酔っ払ってるんだお前は!」 「別に酔ってない。真面目に言ってる」 「なら尚更問題だ!どうして素面でそんなこっぱずかしいこと言えるんだ…!仕事のし過ぎで疲れて頭おかしくなってんじゃねーの!?」 「確かにおかしいのかもな」 「へ…」 「今日ここに来たとき、一瞬お前が別人に見えたから」 ――ああ、同じこと考えてたんだなあと妙に納得してしまった俺は、珍しくも猫が擦り寄るみたいに頬を寄せてきたトリを突き放すことがもう出来ない。自然と合わさった唇からはやはりというか何と言うか、ぬるいビールの味がした。 何度目かのキスのあとで薄目を開くと、ベランダの向こうの黄色い月が目に止まる。さっきと変らぬ月なのに、何故か月に笑われているみたいに見えて、今更恥ずかしくなってきた。 「……ここベランダだし、外から見えるのは困るんだけど」 「じゃあ、中に入ればいいだろ」 後ろ手で戸がぴしゃりと閉められる。室内の電気に照らされたトリとの距離がどんどん詰められて、ガラスの向こうの景色が遠ざかる。 それからカーテンにも遮られた月は、もう朧にすら見えなかった。 本当は十五夜のちょっと前くらいにUPしたかったのですが、間に合わなかった…。 今年の月も綺麗でした。 2013.9.21 |