生まれてこのかた健康で、体は丈夫な方だと自負している。大きな病にかかったこともなければ、大きな怪我をしたこともない。 寧ろ自分のことよりも、体調管理も危機管理もなってはいない幼なじみの心配ばかり昔からしていた。そのせいで自分自身の体調などにも常に気をつけるようになったのもあり、いつもなら滅多に風邪もひいたりはしない。 しかし、印刷所と作家宅を何度も駆けずり回り、各方面への謝罪で神経をすり減らし、そのうえ何日も連続で徹夜をしていれば流石に体力が限界だ。俺は今、睡眠不足と疲労のせいで軽く目眩と頭痛がしている。少し鼻水も出てきているので、もしかしたら風邪の引き始めもあるかもしれない。体力のない時には、ウイルスへの抵抗力もなくなっているようだ。 今月も、いわゆるデッド入稿の進行だった。こんな体験は二度とごめんだと毎度思っているのだが、とある締め切り破り常連作家のせいもあり、ほぼ毎月デッド入稿になってしまう。溜まった疲労は拭いきれないまま、また新しく疲労が積み重なっていくので、修羅場の度に体が挙げる悲鳴が大きくなっている。 …編集と印刷所泣かせのこのデッド入稿は、確かに、関わった者達の寿命を削って、死に近づけている気がする。 真っ青で小刻みに震えながらもキーボードを打つ童顔の同僚や、床で失神している新人編集を横目にそんなことを考えながら、最後の写植を貼り終えたのが今朝の6時のことだった。 ―――やっとのことで自宅に着き玄関の鍵を開ければ、玄関には俺のものではないが見覚えのある靴が一足転がっている。 まさか…と思いながらも寝室に入ると、ベッドの上では予想通りの人物が寝息を立てていた。 ………………一体もう何回目なんだ、このパターン。 どうしてこいつは、いつになっても学習しないんだ…。 「起きろ、吉野!」 「うぎゃあっ!?」 勢い良く布団を剥ぎ取れば、俺の幼なじみで恋人でもある吉野が飛び起きた。 普段寝起きが悪い吉野だが、珍しく今日は目が冴えるのが早かった。 「原稿上がってからさっきまで、ずっと寝てたからなあ。よく寝たから、今、頭スッキリしてるんだ」 「……………。」 こいつのこういう所がムカつく、と心底思う。誰のお陰で俺が何日も徹夜をする羽目になったと思っているんだ。 原稿が出来上がっても編集の仕事はそこで終わりではないからしょうがないのだが、どうにも腹が立つ。 一度、デッド入稿時のエメラルド編集部に転がっている死屍累々を見せてやりたい…が、死屍累々が転がっているのは吉野の仕事場も一緒なので、口にするのは止めておいた。 頭に血がのぼると、堪えていた疲労が蘇る。立ち眩みがして、少し体がよろけた。 「だ、大丈夫かよ、トリ!?」 途端に吉野の態度が一変する。ベッドから立ち上がり、オロオロと慌てだした。 以前俺が過労で倒れてから、吉野は俺の身体に気を使うようになった。俺がいつも働いているのは自分のせいだと自覚はしているらしい。 しかしこの位の疲労は毎度のことなので、心配される程のことでもない。 「少し休めば治るから」 安心させるように言ったつもりだったが、吉野は疑わしげだ。 「いや、でもこないだ、働き盛りの三十代がいきなりポックリいくってテレビで言ってたし…」 「大真面目に縁起の悪いことを言うな。…それに、俺はまだ二十九だが」 「ほぼ三十だろ。若者ぶんなよ、トリ」 未だに学生と間違われる位に若々しい、二十九歳の男に言われたくはない。 吉野は暫く黙って考えている様子だったが、何か思い付いたのか突然目を輝かせた。 「よしっ!今日は俺がお前を労ってやるから。ゆっくり休めよ?」 「は…?」 …こうして、無駄に張り切った様子の吉野に、半ば無理やりベッドの上に落ち着かされたのだった。 「何かしてほしいことあったら、何でも言えよ?」 滅多に拝めない甲斐甲斐しい吉野だが、頼みたいことは特に思い付かなかった。普段から部屋も綺麗に保っているつもりだし、して欲しい家事もこれといってない。 寧ろ、一刻も早く寝させて欲しいのだが…今の吉野に口を出すのも躊躇われた。今にも眠りに落ちそうでぐらぐらする頭を支えながらも、少しくらい吉野の気の済むようにさせてやりたいと思う俺は、吉野に甘いのも大概だ。 「あ、腹とか減ってない?」 「お前は何も作るな。余計疲れる…」 吉野は料理の後片付けはしないので、いつも俺が後始末をする羽目になる。手際も味も良いとは言い難い吉野の料理を食べるよりは、自分で作る方が手っ取り早い。 「余計疲れるってなんだよ…。じゃあ、掃除とか」 「修羅場で殆ど部屋に居なかったから、多少埃も積もっているが…今日は別にいい」 「うーん…」 「…改めて考えると、俺って、お前にしてやれること何もないんだよな…」 腕を組んで何か唸っていた吉野が、ぽつりと呟いた。 「折角たまにはお前を労ってやろうと思ったんだけどさ…」 なんか、難しいな。 そう言ってしおらしくする吉野なんて珍しいし、らしくない。 吉野の腕を掴んでベッドに引っ張りこめば、狭いシングルベッドがギシッと鳴った。 そのまま噛み付くように口付ける。息が続かなくなって開いた吉野の口に舌を割り込ませれば、吉野の体から力が抜けていくのが分かった。 「ん…っ」 互いの唾液の味しかしないのに、どうしようもなく甘ったるく感じるのは、相手が吉野だからで。 「……俺は、お前が傍に居れば、それでいい」 吉野が息を飲む気配がした。 今、吉野が俺の腕の中に居ることが、少し前までの俺にとっては、まるで奇跡のようなことだ。 まぶたを閉じても感じる、吉野の体温、吉野の匂い、吉野の心音。全てが心地良くて、疲労困憊の体に導かれるままに、意識を手放す。 「………あの、トリ…もしかして、寝た…?」 ブラックアウトしていく意識の中で、それでも吉野は離すまいと、腕の力を緩めなかった。 ―――その夕方、目が覚めると吉野が盛大にふてくされていた。 数日振りに睡眠をとることが出来たおかげで体力も回復し、引きはじめだった風邪も収まった。すっかり疲労回復した俺だったが、今度は何故か逆に吉野が疲れている様子だ。 「…吉野。お前、一体なんでそんなに機嫌が悪いんだ?」 「べっつに〜?」 ぶすっとした返事が返ってくる。 「吉野」 もう一度、答えるように施せば、渋々吉野が喋り出した。 「…だって、さっき、お前さっさと寝ちゃったし…いっそ俺も寝てしまおうかと思ったんだけど、起きたばかりだったから眠くなんないし。お前が離さないから、俺、動けなくて何も出来ないし、それに…」 ごにょごにょと語り出す吉野の言葉から察するに、どうやら俺のせいで吉野に不満を与えてしまったようだ。 寝る前のことは正直よく覚えていないのだが…ぼやけた記憶の中でひときわ鮮明だったのは、意識を失う直前のキス。 「ああ、中途半端で終わったから、物足りなかったか?それはすまなかった…」 「違う!」 手近にあったクッションを投げつけられた。 しかし、真っ赤になった顔で否定されても、あまり説得力はない。…そういう顔をするから、俺につけ込まれるというのに。 まだ何か言いたそうな吉野の肩を引き寄せて、耳元で囁く。 「その分、今夜は可愛がってやるよ」 「…アホかっ、オヤジくさいこと言うな!」 頬を一層紅潮させて肩を震わせた吉野が、先程投げて床に転がっていたクッションを拾い上げ、また投げつけてきた。 「…俺はまだ二十九なんだが」 「年齢云々の話じゃなくて!お前は発言が時々オヤジくさいんだよっ」 「………」 ――――――死にそうな位に疲れていた日でも、吉野と居るだけで疲労が和らいでしまう。労いの言葉がなくとも、吉野と共に居られること自体が、俺への褒美でもある訳だから。 …だから、こんな風に下らない話をする時間だって、悪くはない。 麻生要様のリクエストで、「仕事疲れで死にそうになってる羽鳥を千秋が労う」話でした! ………ですが、果たしてこれは、ちゃんと労えているのでしょうか…(汗) こんなお話ですが、少しでもお楽しみ頂ければ嬉しいです。 リクエスト有り難う御座いました! 2011.09.29 |