※第二話のあとの妄想です。 お手伝いさんの話によると、今年の夏は一段と蒸し暑いのだそうです。 僕には『じこたいおんせいぎょきのう』というものが付いているので皆さんの言う「暑い」という感覚がよくわからないのですが、白い顔に汗を幾筋も描いた壱様がふうと溜め息を漏らしたので、やはりこの夏は相当に暑いのだろうと思います。 「ありがとう、ゆず」 今日も花咲き溢れる庭園にて。僕が慌てて差し出した手巾を受け取った壱様が、いつものように優しい顔で微笑んでくれました。それだけで僕の身体は弾み出したくなってしまいます。 「そうだ、なにか冷たい飲み物でも持って来ましょうか。まもなく八ツ時でもありますし!今日のお菓子はワッフルスというもので、カステイラのようにふんわりと甘いのだそうですよ」 「そうか、それは楽しみだね」 壱様が何やらくすくす笑っているのに気を良くした僕は、屋敷へ行って飲み物とお菓子を貰ってくることにしました。 そして庭園を出ようとしたところで、見知らぬ男が立っていることに気付きました。 (お客様かな) 壱様が視力を失うことになったあの事件以来、屋敷の人達は屋敷に出入りする人を厳しく見るようになりました。だから怪しい者が通されるはずはないし、屋敷のこんな奥まで入るのを許されたということは、壱様のお知り合いの方なのでしょうか。 長い前髪、首に巻かれた真っ白い包帯、ちょっと怖い目つき。僕はその人を知っているような気がしてきました。 壱様とのお話にぽつぽつと登場する二人の幼なじみ。一人は甘党で潔くて、負けん気が強かったという人。もう一人は目つきが悪くて手先が器用で、今はからくり師のようなことをしているそうです。もしかして、この人は僕――ハイブリッド・チャイルドを作った、あの幼なじみの黒田という人ではないのだろうか。 その人は僕の向こうの壱様の姿に一瞬だけ目を見開いて、それから目をすうっと細めました。目の見えない壱様は、ぶしつけなその人の目に気付きません。壱様の顔に横一線に刻まれた傷跡を視線で辿ったその人の肩が震えます。悲しそうにも怒っているようにも見えました。しばらく壱様の傷跡を睨みつけるように注視したその人は、やがてくるりと踵を返し去って行きました。 ……あの人は、壱様に御用だったのではないのでしょうか。どうして何も言わずに帰っていってしまったのでしょう。僕には理由はわかりませんが、あの人にもきっと理由はわからないのではないかと思いました。 「ゆず、もしかしてさっき、そこに誰かいなかったかい?」 壱様は目が見えなくなってから、周りの音や匂いにとても敏感になりました。さっきの人が砂を蹴った音も、しっかりと拾われていたのでしょう。 僕の中で、僕が囁きます。 ――――僕は壱様の目になろうと決めた。だから僕はいつも壱様の傍にいて、今日の空に浮かんだ雲の形や、朝咲いた花の色だとかをお話している。 けれど、もし僕が口をつぐんだらどうなるだろう?壱様は最初から何も見ていないことになる。 何も言わずに立ち去った人の話をして、壱様を悪戯に惑わせることもないのではないか。何も知らないことは不幸だけど、僕は今あの人のことを伝えるのが壱様の幸福に繋がるのかわからない。 「いえ、」 そのとき、夏の大きな雲から押し出されてきたような、けだるい風が吹きました。汗で少し湿った壱様の髪が、ほんの僅かに泳ぎます。 「誰も、いませんでしたよ」 夏の太陽は今日も眩しく壱様に照りつけます。僕は壱様にひとつ嘘を吐いてしまいました。なんだか空気がむわっとして、落ち着きませんでした。 壱が眼に傷を負ったことを黒田が知ったら、ショックを受けるのではないのかなあという妄想でした…個人的に黒田さんは繊細そうなイメージがあります。 2013.07.05 |