「……え、何言ってるの、お前っ?冗談は自分の格好だけにしとけよ」 今度は苦笑を浮かべた千秋が俺の肩を叩こうとする。だが、手ごたえが感じられるはずだった千秋の手は、ひゅっと空をかいただけだった。 ……今、少し実感した。やはり俺はもう人間ではないらしい。 さっきまで軽口を叩いていた千秋が、信じられないといった様子で自分の手のひらをまじまじと見つめる。確かに突然現れた得体の知れない男に『お前は死ぬんだ』と言われても、信じられなくとも無理はない。千秋の顔がすっと青ざめていく。さっき俺に触れられなかったことで、自分が一週間後に死ぬという話ももしや冗談ではなさそうだと思っているのだろう。 途端に黙ってしまった千秋の顔からは、代わりに色々な感情が読み取れる。 実感のわかない死への恐怖、今へ未練、最も大きなものは戸惑いだ。俺があのとき階段から落ちたときも、こんな顔をしていたのだろうか。 そんな千秋に少し同情の念が湧いたが、千秋が俺の言ったことを信じるにしろ信じないにしろ俺が預かった伝言はこれだけだから、俺に与えられた役目もこれで終わり。役目を終えたらすぐに天界に戻してやるとあの神は言っていたから、俺は間もなく天国へ戻されることになるだろう。こいつがこれからどうしようと知ったことではない。考えるだけ無駄だ、俺は彼に何もしてやることが出来ないのだから。 『……………………』 最初のおしゃべりからだんまりになった千秋と、立ち尽くすこと暫く。 …………おかしい。俺の役目はもう終わったはずだ。なのにどうして俺は天国に戻されないのだろうか。確か神は役目を終えたら『すぐに』戻すと言っていたのに。あの広いだけの部屋に特別帰りたい訳ではないけれど、他に行くあても目的もない。 俺はどうしてここに立っているのだろう。そして、何をすればいいのだろう。 千秋がハッと我に返ったのは、歩道橋の上を通りかかる女性が現れたときだ。大きなスーパーの袋を二つ下げた彼女は橋の真ん中で立ち尽くす千秋を一瞬訝しげに見やり、しかし見知らぬ少年にわざわざ関わることもないと階段を降りていく。俺のことが見えない彼女は、千秋の前にいた俺にも気付かない。彼女が通りかかった際、俺の姿はザルを通った水のように一瞬形を変えた。 ようやく俺の存在に思い至った千秋は、二三まばたきをした後、眉をハの字の形にする。 「………なんでお前がそんな困った顔してんの。驚いてるのも、じゃあどうしたらいいのかってわかんないのも、俺の方なんだけど」 困った顔?俺には千秋の方が余程困った顔をしているように思えるが。 「うん、お前、なんか迷子みたいな顔してるよ」 …確かに今の俺は迷子みたいなものだな。 『――――帰れないんだ』 「帰る?どこに」 『……………天国?』 「なんで疑問形なんだよ。つーか、どっかに行きたいんだったら、お前の背中のその立派な翼で天国でもどこへでも飛んで行ったらいいじゃんか」 それもそうか。 目を閉じて、背中に神経(が果たして今の俺に通っているのかわからないが)を集中させる。心なしか身体が軽くなったような感覚がするようなしないような。だが、どんなに気合を込めてもつま先が地面から離れることはなく、自分の眉間がぴくりと動いただけだった。 『駄目だ。飛び方がわからない』 「……………あっそう」 何かを期待していた様子だった千秋にあからさまにがっかりされた。現金な姿に、こちらの肩の力も抜けていく気がする。 「ところでお前、名前なんていうの?」 『ない』 正確には、わからない。 階段から落ちる前、俺が千秋のように普通の高校生として過ごしていたころ。親に付けられた名前があったはずなのに、そのときのショックでか自分がどういう名で呼ばれていたのかすっぽり頭から抜けてしまった。 「うーん。じゃあ、トリって呼ぶ。羽根が生えてるから、トリな」 俺の了承も得ず勝手にあだ名を決めてしまった千秋が、また唇を動かす。 「トリ」 ――そのときからだ、今まで遠くから見ていた景色のようにぼんやり見えた自分の視界が、一気に身近に見え出したのは。 千秋がトリと呼ぶ度に、身体のどこかで何かが疼く。ひらりと掌が差しのべられて、触れられやしないのに触れたいと思った。 「どこ行っていいかわかんないんだったら、とりあえずうちにくる?お前も俺も、いつまでもここでぼーっとしてられないだろ」 断る理由もないので、頷いた。 →next 続きは後日UPする予定です…。 2013.5.8 |