パチ、パチ。 小さなこの音は、他の何に例えられるかな。火花の音?枯れ木の枝を踏む音?考えてみてもいまいちしっくりこないので、まさに今俺が行っている、爪を切る音と言い表す他ない。 そもそも何故俺が爪を切っているかというと別段深い理由はなくて、腹が減ったから食事をする、寒いから服を着る、伸びた爪が日常生活で煩わしく思うようになったから切る…つまり、必要にかられたからしている訳で。せっかく締め切りも明けて今日はとことん惰眠を貪れると思っていたのに、面倒で面倒で仕方がない。 左手の親指から順に爪切りを当てる。人差し指、中指、薬指、小指、次は右手、と。カッターナイフでトーンを切るようには綺麗に出来ないけど、どうせまたすぐ伸びるし、誰に見せて歩く訳でもないし、適当に適当に。 ……そうして気を抜いていると、つまらない失敗をするのだ。 パチン。 「────………っ!」 深く切り過ぎてしまった。血は出ていないけれど、皮膚と爪の間から覗く白い部分が生々しい。 「うあー、やっちゃったなー…」 「どうした?何かあったのか、吉野」 俺のぼやきにすぐに返事をしたトリは、洗濯物を畳んでいた手を止めて、俺のもたれるソファをひょいと覗きこんでくる。こいつは俺が爪を切っている間、側でさっき取り込んだ洗濯物を畳んでいたのだ。もはや日常風景の一部となっているので疑問に思っていないけれど、優に言わせれば主婦と子供のような光景だそうで、それを聞いたトリはすごく微妙な顔になった。 「見ろよ、これー。深爪しちゃった」 不揃いの右手の指を見せると、トリはぐっと眉をひそめる。俺が五日風呂に入ってないとか言ったときと同じ顔だ。 「ヘタくそ。漫画を描くときは器用に手が動くのに、どうしてこういうこととなると異様に不器用なんだ」 「いや、だってさあ。これ、右手じゃん?そんで、俺、右利きじゃん?左手で右手の爪切るの、難しいんだよなー」 トリのこめかみがひくりと引きつった。…かと思うと、右腕をぐっと引っ張られる。 「うわっ!?なんだよ、いきなり」 「貸せ。俺が切ってやる」 ソファの横に座り込んできたトリに、爪切りを奪われる。俺の右の手のひらは、トリの左の手の上に。トリの俺より太い右の指が、爪切りと一緒にほんの少しだけ触れた。 パチ。 俺の指先を見つめるトリは、いつもの仏頂面。涼しい目元がまっすぐに注がれている。元来慎重な性格のトリだから、爪切りも丁寧に進む。 ああ、こうして至近距離で見てみると、トリってちょっと地味だけど整った顔してるんだよなあ。昔っから女の子にモテてたけど、色々あってコイツの恋人になってしまった今では、あのころトリを見てぽっと頬を赤くしていた女の子たちの気持ちもわからなくもないかも……なんて思ったりして。 パチ、パチ。 ………………あれ、なんか、そわそわしてきた。どうしてか、無性に恥ずかしいんだけど。今更トリに何を照れているんだ、俺は。しかも照れるようなことでもないし、爪切りなんて。 ああ、もう。トリに右手を預けて十秒も経っていないのに、手のひらがじんわり汗ばんできてしまった。トリの左手は動かずじっと俺の右手を支えている。 パチン。 「……吉野?終わったぞ」 「えっ!?あっ、ああっ、うん!サンキューな、トリ!」 そうこう考えている内に、いつの間にか音は止まっていたらしい。全く、なんで俺がこうも照れなくちゃいけないんだか。慌ててトリから手を離そうとする。 ――が、離れない。 (………ん?) 何故かというと、トリが俺の手を握っているから。実に単純明快な理由だ。 「な、なんだよ、トリ」 「わからないか?」 そのまま手を引き寄せられ、囁かれた。 「間近でそういう顔されると、離したくなくなる」 「はあっ!?な、何言ってんだ、お前っ」 湿った手のひらに音を立ててキスをされる。触れた箇所と身体の内側が、じわじわと熱くなった。 「ちょ、やめ、トリ……っ」 「やめていいのか?」 意地悪い口振りは、普段の有能な副編集長からは想像し難いものだ。 「………あ、明るいとこでは、やだ」 「わかった」 しょうがないなと云った顔で笑われたのが少しむかつくけれど、本当にここで止まると中途半端に上がった熱を持て余すのだからしょうがない。 パチン。 トリにしてはぞんざいな動きで、部屋の電気のスイッチが消された。 『今、一瞬ドキッとした(俺をやる)』 2013.3.11 |