鉄筋コンクリートで作られた校舎の壁は、外の寒さをそのまま伝えてくるように冷気を帯びている。まるで冷たい箱みたいだ。窓の外にはぱらぱらと雪が舞っていて、この調子で降り続けたなら、明日の朝にはグラウンドは真っ白になっているだろうなと予感した。 先日、ボスリという不穏な音と黒い煙を立ててストーブが動かなくなったため、現在この教室に暖房器具は無い。今は業者の修理が入るのを待っている状態だが、ここ最近の寒さでどこの家屋でも暖房を酷使しているせいか、町のあちこちで同様にストーブが壊れたらしく、この教室にはいつ業者が来てくれるかはわからない、と担任が言っていた。 期末テストも終わり、あとは終業式を待つだけという十二月半ばの雪の日。寒さを堪えるのは精神修行の一環になるぞとうそぶく担任と、だんまりと動かないストーブに、クラスの誰もが不平を言った。 ……なので今日の吉野は、寒くて仕方ないと言って、制服の下に分厚いトレーナーを着こんでいる。ふっくらと着膨れした見慣れないシルエットに、何度見てもつい笑いそうになるのを密かに堪えるのは、なかなかに難儀だった。 生まれたときから一緒にいる幼なじみの、吉野千秋。俺が彼への恋心を自覚してから、もう三年目になる。 吉野への想いが募れば募るほど全てをぶちまけてしまいたくなり、吉野と言葉を交わす度に、やはり打ち明けるべきではないと諦めた。報われることなく冷たい風に吹かれ続ける恋情を抱えているかぎり、吉野とのぬるま湯みたいな友情からは抜け出せやしないのだ。かといって、その湯が入った桶をひっくり返す度胸もない。幼なじみで親友という現状が、同じ男に恋をしてしまった俺に望みうる、吉野との最上の関係だ。 仮に俺が吉野に『好きだ』と言ったとすれば、冷水のような拒絶をされるだろう。けれど、このままただの幼なじみでいたならば、吉野はぬるま湯を注ぎ続けてくれるだろうから。 ………だから、今のままでいい。 もたれかけていた壁から背を離し、手持ち無沙汰に開いていた英単語の本を閉じる。 すぐそばの吉野の机の上を覗きこむと、さっきまで英語のノートが広がっていたはずなのに、イラストと吹き出しの描かれたルーズリーフの紙が散らばっていた。胸の中にムカリと靄がかかる。 「おい、英語のノートはもう写し終わったのか?」 しかし吉野の方は俺の胸中になど気付かず、ルーズリーフの上でくるくる動かしていた手を止めて、屈託のない笑顔を向けてきた。 「うん!ありがとうな、トリ。助かるよ、あの先生いっつも俺を当ててくるからさー」 「…それはお前が、いつも真面目に授業を聞こうとしていないのがわかっているからだろう」 居眠りをしたり、落書きをしたり。興味のあることにはのめり込む吉野だが、自分の関心のないことには身が入らないきらいがある。 「うっ…。そっ、それよりさあ、トリ!ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 「……何だ」 どうせまたノートの予習を写させて欲しいとか、そんなところだろう。 呆れ混じりに聞き返したが、吉野は俺の予測していなかったことを言ってきた。 「トリって、好きな子とかいる?」 「―――――は?」 冷たい風に煽られて、窓のサッシがきしむ音がする。 吉野はシャープペンシルを机の上に置いて、俺の方へと向き直り、俺の返事を待っている。 ……それは、実に答えにくい質問だった。 「―――なんで、そんなことを聞くんだ」 「質問に質問で返すなよ」 ぷくりと頬を膨らませた吉野にフグの丸い姿を連想し、「なんだよ、俺には言えない訳?」と唇を尖らされて、現実逃避の妄想から我に返った。 「いや…そういう訳じゃないが」 「それで、いるの?」 俺を見上げる丸い瞳に螺旋を描きながら、ひゅっと息を飲む。 ……ああ、好きな奴ならいる。 物心ついた時から好きだったんだ、お前のことが。 幼馴染としてじゃなく、違う意味の好きだ。 俺はお前に恋をしているのだ。 喉元までせり上がった告白を、空気と一緒に吐き出してしまいたくなる。 ―――――俺が好きなのは、お前だ。 だが、押し出しかけた言葉は、まるでタイミングを見計らったかのように現れた男に邪魔をされた。 「ちーあきっ!」 「うわ…っ!? なんだよ、優。びっくりさせんなよ」 いきなり吉野の首に抱きついたその男は、幼子がぬいぐるみにでもするように頬擦りをして、「千秋、着こみすぎだろう」とひやかした。一瞬俺を見てニヤリと笑うのも忘れない。彼のその一挙一動が、俺への挑発のように思えて、どうにもいけ好かなかった。 柳瀬優。彼は中学一年の二学期に俺達の学校に転入してきて、いつのまにか吉野の友達というポジションに座りこんでいた男だ。 孤独を気どる猫のように他人には深く干渉しないというスタンスのくせに、吉野に対してはスキンシップ過多な柳瀬は、まるで俺の吉野への好意を知った上で邪魔をするかのように、こうして話に割り入ってくることがよくある。 「そういや千秋、さっき羽鳥と何の話してた訳?」 「えっ!? …と、トリに好きな子がいるかって話だよ。えっと、今度の投稿作は学園ラブコメを描こうと思ってるんだけど、参考にしたくてさ」 「ふーん……参考、ね。でも、羽鳥みたいな真面目な奴に聞いても、あんまり参考にならないだろ。なあ、羽鳥?千秋にそんなこと聞かれても困るだろ?」 ―――まるで、どころじゃない。絶対にタイミングを計っていたな、こいつ。 吉野に聞かれると困る質問であったのは確かだが、柳瀬に対して助かったと感謝するのも癪だったので、苦い溜め息を一つ吐く。 それを見た吉野は、俺からは何も聞けないと思ったのだろう、ちぇっと拗ねたように口を曲げてしまった。 「だからこそ聞きたかったんだけどなあ。そんなトリみたいな奴が好きになるような人って、気になるじゃん。ほら、トリがこう見えてかなりの面食いで、見た目が派手な美人が大好きとか、結構ツンツンした性格の子が好みとか、意外性があったら面白いだろ」 …意外性と言うならば、俺が吉野を好きだということを吉野は全く想像していないのだろうが、勿論そんなことは言えやしない。 「まあ、確かに気にはなるかもな。一体どんな奴なんだか」 含みを持たせるように頷いた柳瀬も、さっきの俺と同じく大きな溜め息を一つ吐いた。 「…っていうか、さっきから見てて思ったんだけど、千秋にしては聞き方が回りくどいな。はっきり聞けばいいだろう」 『は…?』 揃って間の抜けた声を上げた俺と吉野の二人を見比べて、柳瀬が「あのさ、羽鳥」と忌々しげに言う。 「千秋はさ、隣のクラスの誰それさんが羽鳥に告白したって噂を聞いたもんだから、羽鳥がその子と付き合うか気になってるんだってさ」 「え……?」 柳瀬の言葉を聞いた吉野は椅子から立ち上がり、わーわーと言いながら柳瀬の口を塞ごうとする。 「ちょっ、優!! それ、トリには内緒って言っただろっ」 「俺は『そうだな』って相槌は打ったけど、頷いてはいなかっただろ」 「どこの小学生の屁理屈だよ……」 観念したようにがくりと項垂れた吉野は、ばつが悪そうな顔でちらりと俺に視線を向ける。 「……それで、トリはその子と付き合うの?」 制服からはみ出したパーカーのフードに少し隠れた吉野の表情を、悔しいことに可愛いと思った。 「――――付き合わない、けど」 そもそも最近、隣のクラスの女子に告白された覚えはない。誰かが流した無責任な噂だろう。 それを聞いた吉野は、「そっか!そうだよな〜!!」と言いながら柳瀬の背中をバシバシと叩く。お返しに柳瀬が、吉野の頭を軽く叩いた。 「普段デリカシーなんてないくせに、なんで変なとこでもじもじしてるんだよ、千秋は」 「えー、だってトリに彼女出来たら、今までみたいに遊びに誘いづらくなるじゃんか。クリスマスとか初詣とか」 「そのときは俺が遊んでやるのにさ。相変わらず、千秋は羽鳥にべったりなんだから。羽鳥もとっとと彼女でも何でも作ってしまえ」 「え、俺、べったりって程でもないと思うけど」 「うわ、自覚症状ないとか、たち悪い」 柳瀬と何やらじゃれあう吉野を見ながら、緊張で出来た氷がゆっくりと溶けていくのがわかった。どうして吉野はこんなことを気にするのか。わかっている、単なる親しい友人への独占欲だ。それ以上でもそれ以下でもない。期待をしてもしょうがない。 もう何度も言い聞かせた科白を繰り返す。本当に、彼女でも作ってしまえば、吉野のことでこうも苦しまなくて良くなるのだろうか。 ひとしきり柳瀬と盛り上がった吉野は、俺の袖をくんと引っ張って何やら呼びかけてくる。 「なあ、トリ?」 冷たい日に気まぐれな春一番の風が吹いたような、そんな錯覚がした。 吉野は無邪気に俺を見上げる。俺はそれを可愛いと思う。……もう暫く、彼女を作るのは無理そうだ。 再び机の上のルーズリーフに向き直った吉野に、柳瀬がそういえばさぁ、と口を開く。 「さっきの話だけど、千秋、マジで漫画投稿すんの?」 「ああ、うん。これがその学園ラブコメのプロット」 ネズミがダンスをしていったかのような文字の並んだ紙を、吉野が得意げに見せる。 ざっと内容を見てみたところ、至って王道の話だ。明るい主人公と、ひと癖ある相手役。軽快なストーリーの中に恋愛の切なさも一滴盛り込んだ、吉野らしい話だと思った。 「ペンネームは何にするんだ?」 「えっ、考えてなかった。うーん、そうだなあ………」 顎に手を当てて黙考した吉野は、ルーズリーフの端にするすると文字を書く。 『吉川千春』 「これでいいかな。―――ん?なんで笑ってんの、トリ」 「いや………」 春みたいだと思っていたら、春の名がついた。偶然だけれど、可笑しくてくすぐったい。 「いいんじゃないのか、吉川千春。お前らしい」 「そう?じゃあ、このペンネームで投稿しようっと」 「適当だなあ」 「いいんだよ、大事なのは名前じゃなくて、中身の漫画だから………ふぇっ」 『?』 顔を震わせた吉野が、クシュンと云ってくしゃみをする。柳瀬は、そんなに着込んでるのに寒いのかよと呆れつつもカイロを渡し、俺はその汚い顔にティッシュを押しつける。吉野が「なんか過保護な両親みたいだな」と笑って、ならば俺と柳瀬が夫婦なのかと眉を寄せたら、隣の柳瀬はもっと嫌そうな顔をしていた。 寒い冬は明日も続く。明後日も、そのまた明日も。冬が明けるにはまだ早い。 この町に春が訪れるのはいつだろうか。明確な日付はわからないけれど、いつかは訪れるとわかっているなら、冬の寒さも耐えられる。 俺にとっての春とは、吉野への気持ちを捨てて誰かと幸せになることだろうか。そんな日がくるのか、今の俺には想像出来ない。 だが、きっと春には、今よりもずっと鮮やかで柔らかい光景が広がっているのだろう。それならば漠然と思い描くことが出来た。 →next |