フラストレーション | ナノ

身に着けたスーツの上着すら重たくて気怠いと思うのは、自分がよほど疲れているときだ。マンションのエレベーターの中で吐いた溜め息は、くぐもった空気に溶けて消えた。
今の生活にこれといった不満があるわけではない。忙しいのをある程度承知で入った出版社だし、今は担当作家である吉野のドラマ化した作品の放送も無事終了して、慌ただしさも落ち着いたところだ。
――そうだ、入社した頃には、吉野の担当が出来て仕事で吉野と関われればそれで満足だと思っていたのにな。

この頃、何か物足りない。
何が足りないのだと自問して、近頃吉野に触れていないことに思い至った。…もしかして、それが今の俺の不満なのだろうか。
たまに顔が見れれば満足、仕事でもいいから話が出来れば満足。そう心の内で唱えていたのに、満足のハードルが徐々に高くなっていったのは、恋人同士になってからだ。
一度美味しい思いをしてしまったら、次からはどうしてもその旨みと比較してしまって、辛抱が効かなくなる。
顔を赤くして歪める唇の形。そこから漏れるのは俺を煽りくすぐる喘ぎ。そして、絶頂を迎えて震えるときのとろける表情。
実際に触れた吉野の白い肌は己の妄想よりもはるかに甘美で、受け入れて貰った当初は感動すら覚えたけれど、まさかその甘さに苦しめられる日がこようとは思わなかった。
我ながら、贅沢になったものだ。

そうこう考えている内にエレベーターのドアが開いたので、鞄の中からキーケースを取り出しながら自宅の玄関の前まで歩み出す。
鍵を回して中に入れば、玄関で蹴飛ばされたみたいに転がっているスニーカーを見つけて、また溜め息を吐きたくなった。吉野の靴だ。
今更幻滅はしないが、どうしても呆れてしまうのはしょうがない。俺がどんなに切なかろうが身悶えていようが、良くも悪くも知らずにマイペースなのが吉野千秋という人間である。
寝室に入ってみると、やはり吉野が呑気な寝姿で転がっていた。
規則正しい寝息を吐く口元はふにゃりと歪んでいて、恋しさと後ろめたさが同時に浮かぶ。こうも邪気のない顔をされると、エレベーターの中で吉野の乱れた姿を浮かべていた自分がひどくよこしまではないか。

スーツをクローゼットにしまい、シャワーを浴びて軽い夕食を済ませて再び寝室に戻ると、吉野はさっきと同じ格好で眠っていた。 
ゆるんだ口から垂れる涎。暑かったのか布団は蹴飛ばしていて、でも蹴飛ばした後で寒くなったのか、暖を求めて枕にしがみついている。
抱き枕にされているのは、手近にあったのであろう俺の枕だ。しっかりと顔を埋めているので、涎で出来た滲みが枕の上に一つ、二つ。
………ああ、腹が立つ。
鼻先の人参、葱を持った鴨、開いた口への牡丹餅。俺はその食材の味を知っている。
だが、おあずけだ。俎上の鯉に手を出すのは、フェアではない。
苛立ち混じりにぞんざいに吉野をベッドの端に転がして、空いたスペースに俺も入り込む。
大の男二人でぎゅうぎゅうのベッドの中、それこそ鼻先の吉野の髪からシャンプーのにおいがして、ふとある日の夕飯時を思い出した。
その日は吉野のリクエストの鶏の竜田揚げで、既に挙がったものを置いた皿の上に、無遠慮に吉野の手がのびる。そして、勝手につまみ食いをしたくせに、まだ熱いとぎゃあぎゃあ文句を言った。
…まあ、少しくらいはつまんでもいいか。
さらりと前髪を掻き分けて、滑らかな額にそっと唇を寄せる。母親が子供にするような、なんともくすぐったいキスだと思った。
でも、今はこれで満足としておく。

―――――さて、俺も寝てしまおう。
明日になって、目が覚めて、夜になって。そうしたら俺も遠慮なくかぶりついてやる。
もっと触れてもいいかと聞いてみたいけれど、夢の中の相手の心には触れられないから。





時計の秒針のカチカチという音にふと気が付いて、目が覚めた。
左肩にぬくもりを感じたので見てみると、隣には昔から見慣れた男の姿。トリだ。
(………いつのまに………)
どうやら俺が寝ている間に帰ってきて、ベッドに潜り込んでらしい。
規則正しい寝息と心音に、安心するような、胸がざわめくような、なんとも落ち着かない心地になった。
(…………つーか、トリ、寝てるし………)
――そうだ、そもそも俺が今日ここを訪れた理由はトリに会うためだったはずなのに、どうして俺はぐーすか寝てしまっていたのか。
一応の目的があって来たのに、トリからしてみれば俺は勝手に家に来て勝手に寝ていた迷惑な奴でしかないではないか。
(……まあ、用っていっても、全然大したことじゃないんだけどさ)
そう、特別なことなど何もないのだ。いつものようにカレンダーを眺めてカットやらネームの締め切りへのカウントダウンをしながら、ふと、あることに気付いたから来てしまっただけで。

カットもネームも珍しく順調。楽しみにしていた漫画の新刊も読んだし、見たかった映画のDVDも買った。
でも、何かが物足りない気がする。何が足りないのかと自問して、そうだ、トリとしばらくゆっくり話をしていないのだと思い至った。
仕事の話は沢山しても、プライベートの話はちゃんとメシを食えとか服を脱ぎ散らかすなとか、いつものお説教ばかりだ。
本当はもう少し違うことも話したいのに。くだらない笑い話も、情事の際の甘ったるいやりとりだって御無沙汰で…
(……って、何考えてるんだ、俺……)
そう言えば、最近トリに触ってないな。幼なじみという気安さもあって、肩を叩いたりとかのスキンシップはいくらでもしたけれど、いわゆる恋人同士としてのお付き合いが始まってからは、行為の意味合いが変わってしまった部分がある。
例えば、トリが頭に手を置いてよくやったなと労う。それだけのことなのに、そこから先はあるのかと期待をするようになってしまった。
そのときは優しく撫でるその手が、どんな風に激しく動くのか知ってしまった。探るみたいに這うのも、求める強さの分だけ抱きしめてくるのも。
(……………って、うあああ………っ)
主人不在の家で一人妄想にふけり、いたたまれなくなること暫く。
誰が見ている訳でもないのに恥ずかしくなってしまって、姿を隠せる場所を求めていつの間にかトリのベッドに潜り込んだ。
久しぶりに感じたトリの空気に安心して、目を閉じる。

―――そして、いつの間にやらトリのベッドで寝入って、目が覚めて隣に居たトリに気付き…という訳である。
(何しに来たんだろ、俺……)
いくら恋人同士とはいえ、これはちょっとどうなのだろうか。ざっくりと纏めるとすれば、勝手に会いたくなって勝手に妄想にふけり、そして勝手に寝ていた。身勝手極まりない。
今は夢の中のトリは俺が何を思ってここに来たか知らないけど、今日も会社で疲れて帰宅をして、ベッドを占領している俺を見てどう思ったか。眉間に皺を寄せたには違いない。
それでも、穏やかに寝息を立てているトリに、さっきまで悶々としていたこと全てが和らいで感じるくらいに癒されたのは事実。何だか自分もまた眠くなってしまった。
(―――俺も、もう一回寝るか)
切りに行く暇がないとこぼしていた、少し伸びた前髪を掻き分ける。覗いた額に、静かに素早く唇を落とした。子供が母親にするみたいな、戯れみたいなキスだ。
でも、今はこれで満足しておこう。これが今の欲求。
トリと話をするのも、もっと触れてみるのも、何もかも明日の朝からでいいや。だって、目が覚めてもきっと隣にいるんだろう?
そのまま水の中に沈むように、ずぶりと眠りの中に落ちた。












あひ見ての後の心のくらぶればむかしは物を思はざりけり
(契りを結んだその後の、求めてやまないこの切なさ、苦しさよ。
それに比べたら、あなたを抱きたいとただ望んでいた頃の物思いなど物の数にもはいらない。)

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2012.10.07
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