安穏無事 | ナノ

きっかけは些細なことだった。
バイトの無い日だったので、夜に恋人である木佐さんの家に行ってもいいかと電話をした。確か今の時期なら校了が終わっている筈だから、定時とはいかずとも比較的早く帰宅しているだろう。忙しいときは栄養食と出来合いのものばかり食べている木佐さんのために久しぶりに料理も作ってあげたいし、先日里緒から新しく習得したレシピも披露したい。
だが、木佐さんから良い返事は貰えなかった。
『あー…ごめん、今すごく散らかってるから』
「別に気にしませんよ。なんなら俺、掃除手伝いますし」
『……そうは言ってもなあ………』
きっと今の木佐さんは受話器を持って困った顔で頬をかいているんだろうなあ。
そんな木佐さんを脳裏のスケッチブックに描いていると、カタンと何かが倒れるような音と、僅かな衣擦れの音が聞こえた。
『うわっ、何してんだ、お前!』
「? 誰かいるんですか?」
『えっ、いない、誰もいないから!……ともかく、今日はうちに来るなよ!じゃあ!』
そうして慌ただしげに電話を切られてしまった。

……それから、何度家に行っても良いかと聞いてもやんわりと断られ。なら俺の家に来ませんかと提案しても、やはり断られる、の繰り返しで一週間が過ぎた。訳がわからない。
……木佐さんのことはあまり疑いたくないのだが、もしかして…とくだらないことを考えてしまったりして。



「―――――俺、浮気されてるのかなあ」
今は教授も居らず生徒だけで気ままに制作しているアトリエで、ぽつりと呟く。すると各々キャンバスに向かっていた学友たちが一斉に立ち上がった。遠くの方では誰かがキャンバスを倒してしまったらしく、べしゃりという絵の具が床にキスをした嫌な音と、ぎゃああという悲痛な叫びが聞こえてくる。
一気に俺の周囲に集まってきた学友達は、絵筆やパレットを振り回しながら好き勝手に騒ぎ出す。
「浮気っ?お前が?するんじゃなくて、される方!?」
「雪名くんがっ?遊ばれたの!?うそー、信じらんない!きっと相手はただ者じゃないわっ!魔性の女ね」
「雪名を弄べるなんてスゲー小悪魔……いや、小悪魔なんて可愛いもんじゃない、もはや大魔王レベルだ……。うわー、むちゃくちゃ気になる!どんな凄まじい相手なんだろう?」
「いや、もしかして意図してやっているのかもしれないぞ。浮気をしている素振りを見せて雪名を不安にさせることによって、雪名の心をより強く掴むという……」
「そっか、そういうテクニックに雪名くんはコロリとやられてしまうのね」
「うんうん、こいつ見た目は派手だけど、これで根は真面目な青年だからなー。多分そういうのに弱いんだよ」
「…………あのさあ。みんな、俺のこと一体なんだと思ってる訳……?」
しかし友人たちは俺の呟きなど聞いておらず、見もしない俺の恋人像を捏造していく。
みんなちょうど課題に煮詰まっていたところだったのか、現実逃避のくだらない会話に大きな花が咲いて、結局俺の恋人は『見た目は凄く可愛くて清純そうで庇護欲をそそるが、その実は今までに幾多の男を確実に落としてきた魔性の人物』にされた。当たっていなくもないので苦笑するしかない。芸術家の玉子の殻を破ろうと足掻いている最中の俺たちの妄想には、いつも現実と空想が絶妙にミックスされる。

(―――浮気、かあ)
今まで何人か女の子と付き合ってきたけれど、俺は浮気はしたことないし、されたこともない。自分の直情径行な性格的にも、浮気は嫌いなのだ。
だが、木佐さんはどうだろうか。
(前に木佐さんと揉めたとき、昔の男っぽい奴とまさにキスするとこだったよなあ。あれってやっぱり浮気だよなー…ああ、じゃあ俺って既に木佐さんに浮気されたことあるんじゃん。……あー、なんか不安になってきた。最近、顔も見てないしなあ)
繰り返すが、俺は木佐さんを疑いたくはない。……疑いたくはないので、この間買い換えたばかりのスマートホンを取り出して、もう何度似たような内容を送ったかわからない『今日、木佐さんの家に行ってもいいですか?』というメールを手早く送信する。
マナーモードにしていた機械はすぐに震えて、意外にも返事はすぐに届いた。

『最近忙しくて部屋も散らかってるから、しばらく来るな』

考えてみれば、今は真昼間。仕事中だから素っ気ない文面なのも仕方ない、が。
(……だからっ、気にしないって言ってるのに!)
かっとなった勢いのまま、『絶対行きますからね』と返信する。暫く画面を睨んでいたけれど、やがてはあ、と大きな溜め息がこみ上げてきた。
(………俺、ガキっぽいなー)
強引に押し迫るようなアプローチをする俺を、木佐さんはどう思っているんだろう。…正直引いているように見えなくもない。
――でも、送ってしまったメールは返ってこないし、今更後悔してもしょうがないか。
開き直って、絵筆を持ち描きかけのキャンバスに向かうことにした。感情の乗るままにパレットから練った油絵具をべたべたと塗りつける。
描く未来の完成像は、まだ見えない。



スーパーの袋を下げて木佐さんの家を訪れたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。外から見た時にあかりがついていたから、木佐さんももう帰宅しているのだろう。
呼び鈴を鳴らすと、木佐さんはすぐにドアを開けた。久しぶりに見た木佐さんは元気そうで、大きな目でこちらを見上げる仕草も相変わらず可愛らしい。
「あー、ごめん、雪名。折角来てくれたんだけど、今日はえっと、その……」
視線をうろうろしながら木佐さんが言うが、途中で部屋の中からカタンと何かが倒れるような音が微かに聞こえる。先日も聞いた音だ。木佐さんが『しまった』と言った風に口に手を当てた。
「……誰かいるんですか?」
「えっ?ゆ、雪名、ちょっと待て……っ」
木佐さんの制止も聞かず、玄関に入り込み、靴を脱ぐ。中にいるのが浮気相手だったらどうしよう。とりあえず相手を二三発ぶん殴ってから、木佐さんを問い詰めなくては。しかし相手の男がもし半裸だった場合、俺は平静でいられるのか。
どかどかと足を進めつつそんなことを考えながら、リビングに続くドアを開け放す。
そこにあったのは、ひっくり返った皿に、こぼれて床に小さな池を作ったミルク。そして、タオルの中からごそごそと白と黒の毛が覗いていて、にゃあという鳴き声が聞こえる。ぽかんとする俺を見て、短い尻尾が一回揺れた。
「――――ねこ?」
「猫だよ……」

―――隠してたのに、とがっくりした木佐さんが諦めたように語り出した詳細は以下の通り。
俺が電話をしたあの日、道の途中で怪我をしてうずくまっている姿を見つけたそうだ。一度は通り過ぎようとした木佐さんだが、近所の猫と喧嘩したらしく引きちぎられた尻尾が痛ましげで、放っておく気になれなかった。ペット禁止のマンションだから、怪我が治るまでとこっそり飼っていたらしい。

「なんで言ってくれなかったんスか。俺、もしかして浮気かと心配してたのにー」
「は?なんか浮気要素あったっけ? …それにお前さ、前に猫の話したとき、猫アレルギーだから飼ったことないとか言ってただろ?だから猫を見てもあまり良い顔はしないだろうなと思って。もう怪我は殆ど治ってるから、あと少しだけ内緒にするつもりだったんだけど…」
膝の上に乗せた猫を撫でながら、木佐さんが言う。ゴロゴロと伸びきった猫を少し羨ましいと思ってしまった。
「猫アレルギーなのは俺の母ですよ」
「えっ、そうだっけ?俺、てっきりお前が猫アレルギーなんだと勘違いしてた」
「俺はむしろ猫好きなんですけど」
なあ?と呼びかけて猫に手を伸ばすと、警戒心の強そうな猫はふんとそっぽを向いてソファの上に逃げてしまった。どうも俺はこの猫にあまり好かれていないらしい。
「ねえ、木佐さん。この子、名前とかあるんですか?」
「? ないけど」
「じゃあ、翔太さんが拾ってきた子猫だから、ショタさんで」
「………正気で言ってるんなら怒るぞ」
呆れて半眼になった木佐さんに、すいませんと口先だけの謝罪をして、額に唇を押し当てる。白い肌はさっと色が変わった。
木佐さんはすぐに顔が赤くなるのが可愛いと思う。照れているのはわかるが、その対象が俺なのだなと実感して妙にむずむずしてしまう。
なのでもう一回、今度は三回目と、次々色々な場所へとそれを繰り返す。四度目で木佐さんに咎められた。
「…猫が見てるんだけど」
「見せつけてやればいいじゃないですか」
そう、ソファの上から面白くなさそうにこちらを見ている猫には出来ないことをしてやろうではないか。
「さっきから猫ばっかり構ってずるいです。俺にも構って下さい」
口の端を上げて、にっこりと笑みを作ると、小さな肩がぴくりと震える。赤い顔のまま渋い嘆息をした木佐さんは、それでも俺の首に腕を回したのだった。



翌朝、俺と木佐さんが目が覚めたときには、猫はもういなくなっていた。ベランダに続く窓が少しだけ開いていたから、恐らくそこから近くの木を伝って出ていったのだろう。もう怪我はほとんど治っている様子だったし、昨日は何だかんだで途中から木佐さんも乗り気でつい思いっきり抱き合ってしまったため、猫は見ていられないと思って去って行ったのかもしれない。
木佐さんは猫の為に買っていたらしい猫缶をテーブルの上に乗せて、これ、どうすっかな…と悩んでいた。
「その猫缶の賞味期限が切れるまでに、またフラッとここに遊びに来てくれるかもしれませんよ。しばらく置いておいたらどうです?」
俺の提案に、木佐さんは唐突に顔を赤くして「そうだな」と頷いた。木佐さんはいつまで経っても俺の顔に慣れなくて、もう何度抱き合ったかわからないのに今更目が合ったくらいで照れるのだ。昼と夜とのギャップは確かに凄まじい気がする。
俯いたつむじにクスクスと笑いながら、こんな朝を過ごすのも悪くないなと思った。
塗り足し続ける未来図の完成はまだ遠い。イコール、まだまだこんな日々は続く。











いくら様リクエスト『木佐さんが浮気したと誤解して、嫉妬してヤキモチやいてキレちゃうけど、最後は誤解も溶けてイチャラブの二人』でした。バカップルな二人が見たいということでしたので、ゆったりと楽しい雰囲気の雪木佐を目指してみました。平和なバカップルを表現出来ていれば嬉しいです…。
リクエストありがとうございました!
2013.1.20
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