1.隣同士が一番自然(二十八年片思いしていたのが千秋だったら) | ナノ
※もしも二十八年間片思いしていたのが羽鳥ではなく千秋だったら…という設定です




丸川書店に就職を決めたのは、昔から本を読むことが好きだったからという、珍しくも何ともない単純な理由からだ。
最初は文芸志望だったが、いざ配属されたのは全く方向性の違う少女漫画部門で、内心で落胆していた。入社した当初はやる気に欠けていたのは、恥ずかしながら否めない事実だ。
だが、既に他社で少女漫画家としてデビューして人気が出始めていた、俺の幼なじみである吉野千秋・ペンネーム吉川千春が、予想外のことを言い始めたことにより、俺の仕事への意識は変わっていく。

『トリが丸川で少女漫画編集をするなら、俺も丸川に移る。ただし、俺の担当にはトリがなるって条件で』

電撃的な吉川千春の移籍に、彼がもといた他社の担当編集たちも驚いたが、俺の所属するエメラルド編集部の面々も大層驚いた。当時のエメラルドは売上も人気もイマイチで、丸川が抱えるお荷物雑誌という認識を受けていた。吉野がいた他社の雑誌からエメラルドに移るメリットなど何もないから、吉野がわざわざエメラルドに来たがる訳がわからない。
あまりに不思議だったので、吉野に『なぜエメラルドに来ようと思ったんだ?』と聞いた。吉野は、『トリがいるから』とだけ答えた。昔から甘えたなところのある幼なじみだから、俺が担当編集だと甘えられるという魂胆の我が儘なのだろうと、その時は思った。
だが、吉野の訳が我が儘でも甘えでも、丸川側には断る理由は全くない申し出だ。その当時編集長になったばかりだった高野さんは吉野の移籍をすぐさま受け入れ、不調だったエメラルドを人気雑誌に押し上げることに成功した。
幼なじみという縁だけでいきなり人気作家の担当になった俺はその後、高野さんの唱える少女漫画編集のいろはを叩き込まれることになる。
吉野の担当になって気付いたことだが、生まれた時からずっと一緒に居た幼なじみだけあって、吉野が作品で何を言いたいのか、どこを悩んでいるのかは何となくわかる。それらを指摘してやれば、吉野は減らず口を叩きながらも最後には素直に受け入れてくれるので、内気で人見知りそうな新人作家達の担当をするよりは、吉野の担当をしている方が格段に楽だった。後から考えてみれば、俺の方こそ無意識に吉野に甘えていたのだろう。



「お前、マジでいい加減にしろよ。もう千秋に近づくな」
会社を出て駅に向かう途中、偶然出くわした吉野のチーフアシスタントである柳瀬優に、苛ただしげにこう言われた。ポツポツと降り出した雨の下、安っぽいビニール傘の下の柳瀬の目は、こちらを射抜かんばかりの迫力だ。
柳瀬とは中学と高校が一緒で、大人になった今もこうして仕事途中に出くわしたりする間柄の、いわゆる腐れ縁だ。
だが、昔から柳瀬は俺のことが気に食わないらしく、いつでも目をつり上げて俺を睨み付ける。
「吉野に近づくな?…どういう意味だ?」
「千秋に期待を持たせるようなことはするなって意味だよ。お前、もともと文芸志望だったんだろ?とっとと異動願いでも出して、興味の無い少女漫画なんかやめてしまえ。
…お前、千秋のことを一体なんだと思ってるんだよ!」
柳瀬の言いたいことは、正直よくわからない。
だが、吉野のことをどう思っているかはすぐに浮かんだ。単なる担当作家なんかではなく、単なる友人でもなく……
「吉野は、幼なじみだろう?」
「………っ!」
俺の答えは、柳瀬を更に苛立たせただけだったらしい。整った顔をきつく強ばらせた柳瀬が、グイッと胸倉を掴んでくる。あまりに力強く引かれたので、つい上体がよろめいた。
「お前のそういうとこ、本ッ気でムカつく!!」
吐き捨てるように言った柳瀬は、訳がわからなくて何も言い返さない俺に舌打ちをした後、振り返りもせず去っていった。

嵐のように行ってしまった柳瀬の背中を呆然と目で追っていると、遠くに見慣れたシルエットが動いているのを見つけた。
痩せた細身の身体に、大きな傘を持っているのが不格好。その下で、少しはねた癖毛が揺れている。
あれは、きっと。
(……………吉野……?)
暫くそこから動かなかったその姿は、その内のろのろと覚束ない足取りで動き出す。
大きな傘はどんどん小さくなって、やがて見えなくなっていった。



その頃から、吉野の様子があからさまにおかしくなった。仕事の話をしていてもどこかよそよそしく、目を合わせたがらない。何かを悩んでいるようにも見えたが、理由を聞いても『そんなことねーよ』とはぐらかされるだけだった。
(…悩みなら、俺に言えばいいのに)
単なる作家と編集ではなくて、俺達は幼なじみでもあるのだから、打ち明けてくれれば何だって聞くのに。
吉野は漫画家になると決めた時も、エメラルドに移ると決めた時も、俺には何も相談しなかった。
だが柳瀬には話していたらしく、吉野がデビューしたときには俺よりも先に柳瀬がお祝いだと言ってプレゼントを渡した。華やかな包みの中身は、原稿を仕上げるまで買うのを我慢していたという、吉野の好きな漫画本。『やっぱり優は俺のことよくわかってる』とひどく喜んだ様子を見ながら、俺はかやの外に置かれたようで少しだけ不満だった。
まぶたの裏に描いた吉野は、いつも明るく笑っていた。この頃は、吉野の笑顔も見ていない。

……ぼんやりと物思いにふけっていたら、いつの間にか自室のソファーの上でうたた寝をしていたらしい。狭いソファーに長らく転がっていた体はギシギシとして窮屈だったので、早く起き上がろうと思った。
だが、柔らかい抵抗感がそれを阻む。不思議に思って、閉じていたまぶたをゆっくり開くと、見慣れた顔が至近距離にあった。
キスをされているのだと気が付いた。
長いまつげが縁取っているその目には、今は閉じられているけど大きな瞳が煌めくのだと知っている。それは、昔からよく見慣れた顔。
「―――吉野?」
名を呼ぶと、勢い良く離れた吉野は顔を青くした。もごもごと何かを言いかけたが、結局黙ってしまう。大きな目にはすぐに涙が溜まって、今にも零れそうだ。
なんで吉野が泣きそうな顔をしているんだ。
寝起きでまだ明瞭ではない頭の中、それでも溢れた雫を拭おうととっさに手を伸ばしかけたのに、吉野がすぐに立ち上がったので触れることは叶わなかった。
「……………ごめんっ!」
一言だけ残した吉野は、勢い良く俺の部屋を出て行ってしまった。



それからは散々だった。
吉野の原稿が遅れて、デッド入稿になった。原稿が遅れるのは毎度のことだが、今月は吉野が熱を出したのもあって更に酷い状況だった。高熱で体を震わせながら原稿用紙に向かう吉野の目は虚ろで気の毒だったが、俺に出来るのはせいぜい締め切りを延ばすことくらいだ。
印刷所に謝り倒して入稿を延ばして貰い、なんとか原稿を渡せた時には、吉野はプツンと糸が切れたみたいに倒れた。見舞いに行こうかと思ったが、吉野と何を話したらいいのかわからなくて、まだ労いのメールすら出来ていない。
修羅場中は吉野とは原稿の話しかしなかったけれど、改めて今、何の話をすればいいのだろう。この間のキスの一件を蒸し返したら、もう元のような関係には戻れない気がして躊躇われた。

同性にキスをされたら不快だと思うのが普通の反応なのだろうが、それよりも驚きの方が大きかった。吉野は何故キスをしてきたのだろうか。最近どこか様子がおかしかったから、何か理由があるのかもしれない。まずは訳を話して欲しい。
もしキスをしてきたのが他の奴だったら、こんな風には思ってはいなかっただろう。例えば柳瀬だったら、嫌がらせだと思って一発ぶん殴っている。けれど、吉野だから、ひどく気にかかるのだ。
今にも泣きそうな、何かを堪えているかのような顔をしていた吉野。これまで見たことのなかった吉野の表情を思い浮かべると、何故か胸の内がじりじりと焦がれて締め付けられるようだった。

どうしたものかと悩んでいると、見計らったかのようなタイミングで携帯電話が着信を伝える。吉野からのメールだ。
『来週、近所で花火大会やるんだって。一緒に見に行かない?そのときに、あのときのこともちゃんと話したい』
病み上がりで花火大会とは何を言っているんだ…とは思ったが、俺と話をする口実なのだとすぐにわかった。俺は吉野の担当編集だし、今のぎこちない関係を解消したいのだろう。
すぐに了承のメールを送信した。



そして、花火大会の日。
待ち合わせ場所の神社に五分遅れで現れた吉野は、いつものTシャツとジーンズという気楽な格好だったが、かなり緊張しているように見えた。無理に明るく振る舞っているらしく、時々声が裏返っている。
「じゃあ、行こうか」
「ここで見るんじゃないのか?」
「優に、花火のよく見える穴場を教えて貰ったんだ。こっち」
ずんずんと歩く吉野の後ろについていくと、暫くして人気のない土手に着く。
「ここからだと、上流の方の花火もばっちり見えるんだって」
土手にどかりと座り込んだ吉野に倣い、俺も隣に腰掛ける。花火が打ち上がるまでにはまだ時間があるらしく、星の見えない空はしんとしていた。
「今日、高野さんに連絡して、俺の担当を別の人に代えてくれって言った」
思ってもいなかった言葉に驚いて吉野の方を見ると、吉野は静かに空を見上げていた。
「なんで…」
「トリが好きなんだ、もうずっと昔から」
穏やかに笑って言う吉野は、ずっと抱えていた荷物を下ろすみたいにホッとしているかのようにも見えた。久しぶりに見た笑顔は、吉野らしくもない静けさの中にある。
「同じ高校と大学を選んだのもお前目当て。エメラルドに移ったのだって、お前目当て。お前のこと、いつもオカズにもしてる。
…ずっと近くにいた幼なじみにこんな風に思われてたなんて、気持ち悪いだろ?自分でも、こんなに執着されてウザいだろうなって思ってるよ」
吉野の声がそっと響く。花火が上がらない空は、まだ静かだ。
「……あのキスだって、つい魔がさして。だって、トリが優と…」
「柳瀬と?」
「…やっぱいい。ともかく、俺はもうトリに近づかない方が良い。またあんなことするかもしれないから。そんな奴と一緒に仕事するのって、気持ち悪いだろう?」
気持ち悪い?そんなことは少しも思ってもいなかった。
ただ、驚きはした。吉野からキスをされたことに。そして、それに不思議と違和感を感じなかった自分にだ。何故だろう、まるでそうすることが自然なことのような。
「今日はそれが言いたかったんだ。じゃあ…」
俺がぐだぐだと考えて込んでいる内に、吉野はすっと立ち上がり、もと来た方へと歩み出す。
きっとこのまま吉野は離れていくのだろう。もう顔を合わせることも一生ない。吉野の薄い背中を見て、悟った。吉野はこれで頑固なところがあるから、一度こうと決めたら曲げはしない。だから、俺の前にもきっともう現れない。
唐突に襲ってきたのは、途方もない寂しさだ。
………吉野が居なくなる。
子供の頃から、そんなことは一度も考えたことがなかった。大人になって就職して、適当な年頃で結婚して、子供が出来て……漠然と描いていたレールの上には、いつでも手の届く範囲に吉野がいる気がしていた。だって、今までそれが当たり前だったから。
けれど、吉野は居なくなる。俺を好きだと告げて、それで満足だと思い込んで去っていく。
何かがおかしいと思った。駄目だ、俺には吉野の居ない世界が思い描けないのに。

「―――――行くな、千秋!」

とっさに吉野に手を伸ばす。口から出たのは、幼いときに呼んでいた名前。
そうして掴んだ手のひらには、確かに温かい手応えがあったのに。







「―――……トリっ!?」
ぎょっとしたような吉野の声が案外大きく聞こえて、つられるように瞬きをした。
まぶたが上下するにつれてクリアになる視界の中、見慣れた自室の天井を背景に現れたのは、目を真ん丸にした吉野だ。

――そうだった、校了を終えた俺は家に着くなりリビングのソファに倒れ込んで、つい寝てしまって、それで……

「………なんでお前がここにいるんだ?」
校了明けの今頃にはいつも原稿で消耗した体力を取り戻すべくベッドでぐっすりと寝ているはずの吉野が、パチリと目を開いているのは珍しい。
「腹減ったから、ごはん作って貰いに来たんだけど…。そしたらトリがうなされてたから、どうかしたのかと思って。変な夢でも見たとか?」
「ああ…」

変な夢、か。確かに変な夢だった。
俺と吉野が逆だった夢。吉野が俺を好きで、俺は何も知らなくて。夢の中の俺はただのうのうと生きていた。
(疲れているときは、妙な夢を見るものだな…)
溜め息を吐きたくなる。
大体、吉野が実はずっと俺を好きだったって?そんな都合のいいこと、今まで考えないようにしてたのに。どうして夢というのは、起きている時には禁じていたことをあっさり叶えてしまうのだ。
きっと、現在進行形でありえないことが起こっているからだ。吉野といわゆる恋人同士になってもう随分と経つが、まさか吉野が俺の気持ちを受け入れてくれるなんて思っていなかったし、今でも夢かとすら思う。
多分、実るはずのない恋が叶った副作用で、俺は欲張りになっているのだろうな。

不意に、額にぬくもりを感じる。ぺたりと乗せられたのは、さっき掴んでいた吉野の手のひらだ。
「……何してるんだ」
「いや、熱でもあるんじゃないかと…。だって絶対おかしいだろ、急に変なこと言い出して。やっぱり校了明けで疲れてるんだよな。お前、最近頭が痛いって言ってたし。待てよ、確か最近頭痛薬を買ってたような…」
一人でペラペラ喋って納得した吉野が離れようとするのを、腕を引いて阻む。
「必要ない」
「えっ…、おい、トリ……っ」
二人分の重さを乗せたソファがギシリときしむ。腕の中に閉じ込めた吉野は少し汗臭くて、途方もない現実感を得た。さてはこいつ、また風呂に入ってないな…まあ、締め切り明けでまともに風呂に入れていないのは俺も一緒か。今だけは小言を押し込めておこう。
「しばらくこうさせてくれれば、治る」
「???……全然意味わかんねーんだけど」
首を傾けられながらも、そっと背に添えられた手のひらが嬉しかった。

どうせ夢を見るなら、過ぎたことよりも、未来の夢を見たいものだ。
どこからか変わった風向きに吹かれながら辿り着く、その先に吉野がいる。どうせならそんな夢を見ていたい、ずっと。











『隣同士が一番自然』
(お題配布元 確かに恋だった様)
2012.09.09
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -