目は口ほどにものを言う。 そんなことわざがあるけれど、今日の羽鳥さんの表情もそう例えられるかもしれない。言葉には出していなくても、僅かに細めた瞳の奥をを見て、『ああ、羽鳥さんにとってこの人は単なる知り合いではないのだろうな』…ということが何となく感じられたのだから。 「………小野寺。こいつが、吉川千春のところでチーフアシスタントをしている柳瀬だ。…腕は確かだから」 仕事中よりも幾分ぞんざいな口調。基本的にポーカーフェイスだと思っていた羽鳥さんが、苦いものでも噛んだみたいにちょっと眉根を寄せているのにも気付いてしまった。 「今日は宜しくお願いします、小野寺さん」 柳瀬さんがぺこりと軽く頭を下げると、薄い色素の細い髪が揺れる。 引く手あまたの凄腕アシスタントと聞いていたから一体どんな人かと思えば、修羅場中にも関わらず小綺麗な身なりで驚いた。修羅場中にボロボロでない漫画関係者なんて希少だ。 男なのに美人と形容するのがしっくりくる顔立ち。するりと滑らかな頬のラインに、長いまつげに縁取られた大きな目が印象的だ。しかし、目の下の濃い隈が整った容姿の邪魔をしていて勿体無い……まあ、隈はお互い様なんだけど。 「…小野寺さん?」 ぼうっと突っ立っていた俺に、柳瀬さんが訝しげな声で名を呼ぶ。慌てて背筋を伸ばした。 「あ、すいません。こちらこそ宜しくお願いします」 「それで、原稿の進行はどうなってます?連絡貰った時には、やっとペン入れが終わるところだと聞きましたけど…」 「あっ。はい、えっと…」 しまった、無駄なことを考えてる場合ではなかった。今はエメラルド編集部の死線、デッド入稿の真っ只中だというのに。 締め切り日前日、そして丸川の会議室の一角でのカンヅメ二日目。俺の担当作家のチーフアシスタントの子が倒れてしまった。 どうにか線画だけを終わらせた目の前の原稿用紙を手に、先生の白い顔に髪の毛がぱらりとかかる。他のアシスタントは新人ばかりで、背景などはあまり得意でないらしい。このままでは恐らく間に合わない。 ――そこで、急遽ヘルプでアシスタントを呼ぶことになった。他のアシスタントは新人ばかりなので、出来るだけ経験の豊富な人を呼べないものかと高野さんに相談をした結果、今回は非常に珍しくも締め切り前に原稿を終えた吉川千春先生の元から、チーフアシスタントの柳瀬さんが呼ばれることになったのだった。 柳瀬さんがアシスタントに加わってから、作業効率が目に見えて上がった。 吉川千春に、伊集院響。様々なジャンルの個性派作家のアシスタントを経験している彼は、作家の作風を尊重することを心得ている。ただ指定された作業をこなすのではなく、作家の意図を読み取り、作品の世界観に沿った風景を描くことに長けているのだ。 主人公が相手役に胸をときめかせる場面では、風のそよぎも色めき立つような青い木々を。深い悲しみに打ちひしがれる時には、彼らが流した涙みたいに大きな雨粒を。それらを表現出来る確かな画力と読解力を、彼は持っている。 今日だって、徹夜続きで「あー」とか「うー」とか支離滅裂な先生の説明を理解し、新人アシスタント達に分かり易く指示している。今日来たばかりなのにまるで最初から居たみたいに、この現場にすっと馴染んでしまった。 ……まあ、柳瀬さんが落ち着いてるのは、修羅場慣れしてるってのもあるんだろうけど…。流石はデッド入稿の常連である吉川千春のチーフアシスタント。幽霊みたいにゆらゆら動く先生方に驚いた様子を微塵も見せなかった。彼には見慣れた光景なのかもしれない。 「小野寺、最終の締め切りまであとどのくらいだ」 突然、低く囁く羽鳥さんの声。先生の肩がびくりと震えたのが視界の端に映る。俺は写植を貼っていた手を止めて、時計を確認した。 因みに、担当作家の入稿が全て終わった羽鳥さんには、消しゴムかけを手伝って貰っている。 「えっと、あと…」 答えようとしたが、ちくちくとした声に阻まれた。 「あんまり焦らせるなっての。プレッシャーになるだろ。 ましてやお前は先生の担当でも何でもないんだし、余計な口出しするな。そういうのウザい」 柳瀬さんが、カリカリと背景のペン入れをしながら言う。口を動かしていても手は止めない。 『……………………』 沈黙。 しゅるしゅるとベタを塗る音と、カッターやペンのカリカリという音が聞こえるだけ。 他のアシスタント達は自分の原稿に集中していて俺達の話を気にとめていない。先生は肩の力を入れ直して、筆を握った。 …俺は、どうしたらいいのだろうか。何だか口を開くのもためらわれる。 (…………っ?) ちらりと羽鳥さんの方に目を向けると、どろりとした目で消しゴムかけを再開していた。無表情なのに、むしろ無表情だから少し怖い。やっぱりデッド入稿に付き合わされて疲れているのかもしれない。 (吉川先生がデッドの時も、いつもこんな空気なんだろうか…) どことなくきしんだ空気に居心地の悪さを感じながら、次のページの写植に取り掛かった。 完成原稿を持って印刷所に行き、印刷所の人に長い長い文句を聞かされて。やっと丸川に着いた時にはもうフラフラだった。 先生には無事に原稿を渡したことの連絡はしたし、早く帰宅して寝てしまおう…。 丸川を出て、どうにか足を前に出して最寄駅に向かっていると、見覚えのある姿を二つ見つけた。 (………あれは、羽鳥さんと…柳瀬さん?) 俺は何となく物陰に隠れてしまった。二人がまだ残っていたとは、散らかった会議室の片付けでもしてくれていたのかもしれない。 「今日は、無理を言ってすまなかったな」 羽鳥さんが、利き手でない方の手で書いた文字のようなぎこちない謝罪をした。こんな微妙な語気も、羽鳥さんにしては珍しい。 「別に。仕事だからいいけど」 対する柳瀬さんは、それはあんまりではないかと他人事にも思ってしまうほど素っ気ない。 「でも、悪いと思ってるんならちょっとは下手に出てもいいんじゃない?何、そのふてぶてしい態度。 俺のご機嫌を取るんなら、さんべん回ってワンと言え、くらいのことはさせたいんだけどさ」 くすりと笑った柳瀬さんを、羽鳥さんがじろりと睨む。 「くだらない冗談を言うな。大体、何で俺がお前にそうまでしなくちゃならないんだ」 「本当、そうだな。つまんねー冗談言ったわ。お前にそんなことされてもキモいだけだし、やっぱお前、何もしなくていいから」 徹夜続きで奇妙なテンションになっているのか、柳瀬さんがくすくすと笑い続ける。 それに何か言いかけた羽鳥さんだったが、懐から携帯電話を取り出した。どうやら着信があったらしい。 「もしもし…」 『トリぃ、腹減ったあ〜〜』 情けない泣き言が、少し離れた距離にいる俺まで聞こえる。本当に涙でも浮かべていそうな吉野さんの声だ。 吉野さんはもう入稿は昨日済んでいるから、もしかして今まで寝ていたのかもしれない。話し方が寝起きみたいに甘ったるい。 『メシ作りに来てくんない?どうしてもトリのメシが食べたくて…!』 「あいにくだが、さっき最後の作家の入稿が終わって、これから帰宅するところだから…」 『そっか、トリ、他の作家さんのデッド入稿だったんだっけ?じゃあ、疲れてて寝たいよな…』 しゅんと項垂れる吉野さんの姿が目に浮かぶ。それに羽鳥さんが何か言いかけたが、携帯電話からキンと声が響いた。 『そうだ!ベッド半分貸すから、俺んちで寝たらいいじゃん!』 「はあ?」 『どうせ家には寝に帰るだけなんだろ?じゃあ俺んちで寝てもいいじゃん。 で、起きたらすぐにごはん作って!そしたら俺もすぐにトリのごはん食べられるし』 全部は聞き取れなかったが、おおよそそんなことを言っていた。 …そこまでさせるのなら、いっそ一緒に住んだ方が話が早いのではないのだろうか…なんて思ってしまった。 「…なんでベッド半分なんだ?」 『え?俺もこれから二度寝するから。それともトリはソファで寝たかった?』 「…お前がベッドを使うことは確定なのか…。わかった、今から行くから」 悪びれない吉野さんの声は明るく、羽鳥さんが口元を緩ませた。 …反対に、先程から電話を始めた羽鳥さんを見る柳瀬さんは、舌打ちでもしそうな形相である。 「…………帰る」 まだ通話している羽鳥さんを置いて、柳瀬さんは通勤ラッシュの人ゴミに逆らって地下鉄の駅に入っていった。 「おはようございます、羽鳥さん」 「おはよう」 次の日の朝。羽鳥さんはすっきりとした顔でデスクに座っていた。 「小野寺、編集長に挨拶はねーのかよ」 「…っ、おはようございます、高野さん!!」 奥のデスクから、いい年をして子供の嫉妬か駄々みたいなことを言う高野さんにも挨拶をする。俺の反応に満足そうに高野さんが笑うので、急いで目を背けた。 なんなんだ、この人。いちいちそうして意味ありげに笑うのはやめて欲しい。 「そ、そうだ!羽鳥さん、昨日の入稿ではありがとうございました。ドタバタしていて、柳瀬さんにもお礼を言いそびれちゃったんですけど…」 「ああ、柳瀬のことはあまり気にしなくていい。ちょくちょく丸川に出入りしていたりするから、また会ったら言えばいい」 「そうですか…」 …それにしても、羽鳥さんがこんなにぞんざいに話すのって、やっぱり珍しいと思う。俺の知る限り、吉川先生以外では初めてだ。それだけ気の置けない間柄なのかもしれない。昨日のあの妙な空気も揉めていたんじゃなくて、二人にとってはいつものことだったのかも。 ああ、それでは、もしかして…。 「羽鳥さんと柳瀬さんって、すごく仲良しなんですね!」 「…………………」 目は口ほどにものを言う。 羽鳥さんは思い切り眉を寄せて、信じられないものを見るような目で俺を見た。 柚様リクエスト「律っちゃん目線の羽鳥VS柳瀬」でした。リクエスト有り難う御座いました! 律っちゃん目線がとても新鮮で楽しかったです。羽鳥と柳瀬にはいつか仲良くなって欲しいです…。 リクエスト有り難う御座いました! 2012.07.23 |