あの頃は、先輩の一挙一動にドキドキしていた。 俯いた顔の前髪の間から覗く瞳に、開いた窓から吹く風にサラサラと揺れる髪に、静かな図書室に微かに響いたページをめくる音に。先輩の何気ない仕草一つひとつに、俺の心臓が早くなった。 最初は遠くから見つめるだけで満足だったはずなのに、同じ本を読んでは一人嬉しくなって、告白を受け入れてくれた時にはまるで体中が沸騰してしまったかのようだった。 …今思い返せば、あの頃の自分の頭の中は、なんであんなにも先輩で一杯だったのだろうか。恋は盲目というけれど、あの頃は先輩以外に目を向けている余裕がなかった。授業のことや友人のことも確かに記憶に残っているのに、俺の青春には先輩の姿が今でも大きくおおきく焼き付いている。 あまりに大きな存在だったので、先輩の気持ちが信じられなくなった時、記憶から全て消してしまわなければ耐えられなかった位に。 ――――――あれから十年経って、俺は変わることが出来たのだろうか。 すっかりやさぐれた大人になったと思っていたのに、気が付けばあの頃と同じ、一つのことに目を向け過ぎて他に気を配ることが出来ない不器用な自分のままだと実感することもしばしばだ。 でも、あの頃と違うと言い切れることもある。今の俺の、余裕がなくていたたまれなくて落ち着かなくて胸をかきむしりたくなるような、この気持ちは断じて恋じゃない、恋じゃない、恋なんかじゃないってば! 「…なあ、小野寺。なんでお前はさっきから、赤くなったかと思えば急にムスッとしたりと、一人で百面相してるんだ?その本、そんなに感情移入が出来て面白いのか?」 向かいのソファに座る高野さんが、胡散臭そうに言った。目線こそ今俺の手にしている本に向けていたものの、実はあなたのことを考えていたんです…なんて、俺は口が裂けても言いたくない。もし言ってしまえば、この仕事でもプライベートでも横暴な男は、普段以上に調子に乗ってしまうだろう。 「そ、そうなんです。息も詰まるような緊迫したやりとりで」 「ふーん。その割にはさっきから、全然ページ進んでないみたいだけど?」 畜生、目ざとい。 校了明けの休日の朝。目覚まし時計もセットせず好きな時間まで寝ていようと思っていたのに、俺が玄関に出るまで一向に鳴り止もうとしないピンポーンというベルの音に根負けした。ドアを開ければ予想していた通り高野さんが立っていて、開口一番に「出るのが遅い」と文句を言われた。 「今日、どうせ暇だろ?ドライブに行かないか」 …確かに今日は予定はないのだが、いつも仕事中に高野さんと顔を合わせているのに休みの日にまで会うなんて、俺の気が休まらない。なんとか断れないものかと言い訳を考える。ああ、そうだ。 「すいません、俺、今日は読みたい本があるんです」 そう言って、玄関に置きっぱなしだったカバンから分厚いハードカバーを取り出して見せる。今日一日を読書に費やさなければ、読み終えられないようなページ数だ。学生時代に同じく本が好きだった高野さんなら、一人で読書をしたいというのを邪魔出来まい。 「ああ、そう言えば俺も読みかけの本があったな」 しかし高野さんは俺の予想を裏切り、別のプランを提案してきた。 「じゃあ、一緒に本を読むか」 「はい?」 ――――――こうして俺はいつの間にか、高野さんの部屋で読書をすることが決定してしまったのだった。 「別に俺がお前の部屋で読んでも良いんだけど、お前の部屋、足の踏み場も無さそうだから落ち着いて読めないだろ」 失礼な、足の踏み場位はちゃんとある………所々だけど。 読書をすることになったものの、今読んでいる本はとても面白い内容な筈なのに、正面に座る高野さんが気になって読書に集中出来なかった。 高野さんの家のリビングはとても静かで、時々ページをめくる音だけが響く。部屋の主の高野さんはといえば、俺とは違い平然と本を読んでいる。そのタイトルは俺が前々から読んでみたいと思っていたもので、今は絶版で手に入りにくい本のだ。読み終えたら貸してくれないだろうか、いや、でもそれでは本を返す時にまた高野さんと話をしなくては… 時折高野さんを見ながらそんなことを考えていると、ばちっと目が合ってしまったので慌てて本に目を落とした。 「…お前、昔っから変わんねーのな」 突然の呟きに顔を上げれば、高野さんは本を閉じてこちらを見ていた。高野さんに正面から見据えられるのは苦手だ。真っ直ぐな漆黒の瞳に縫い止められれば、たちまちどこかに逃げ出したくなる。 高野さんは、俺の内心の動揺を知ってか知らずか、いつもより少し甘さの入った口調で話す。 「本読んだ振りして、ちらちらと俺のこと見て照れてる仕草が、ガキの頃と全然変わってない」 「…!」 「まあ、お前のそんなところも可愛いから、別にいいけど」 ビクッと肩を震わせた俺に、高野さんが続けた。 ひたむきに初恋を追いかけていた昔は兎も角、今の俺はそんな風にあなたのことなんて見ていませんから。 俺が黙っていれば高野さんは都合の良いように解釈してしまうから、思いっ切り否定しようとした。けれど、早鐘を打つ心臓の音と緊張で乾いてしまった喉のせいで、言葉にすることが出来なかった。 読書の秋 まだまだ物語の終わりに辿り着くまで遠そうだ。 2011.09.11~12.01 |