アヤカシ | ナノ

今日もさっさと通り過ぎようとした隣室のドアの前。突然開いたドアの隙間からぬっと出て来た白い手に、もう随分と昔に読んだ本に出てきた小袖の手という妖怪を思い出した。
江戸時代に多くの妖怪画を残した鳥山石燕。石燕が描いた小袖の手の絵では、誰も内に居ない筈の着物の中から女性のするりとした腕が伸びている。何かを探し求めているようにも、己の存在を主張しているようにも見えた。迂闊に近付くと闇の中にでも引き摺られそうだ。
当時の着物は古着が多くて、中には生活に困って泣く泣く売られた着の身着だってあった。以前に誰が着ていたとも知れない着物を嫁入り道具に持たせるなんてことも普通にあって、不慮の死を遂げた以前の持ち主が化けて出たとかいう怪談話も数多ある。小袖の手も、以前の持ち主であった女性の小袖への未練と執着が現れたものだろう。

誰も居ない筈の物陰から伸びる手というのは、いつの世も薄気味が悪い。
俺にとって真新しいドアの隙間から伸びたこの手の正体も、いっそ薄気味悪い位にいつだって心臓を騒がせる存在だ。

「……高野さん、俺の方が先に会社を出ていませんでしたっけ?」
「お前がちんたら帰っているから、追いついたんだよ」

白い手の持ち主はドアの内側に俺を引っ張り込むと、腹ただしくも満足げに笑った。いつの間にか長い腕の中に巻き込まれて、捕らわれてしまっている。
どうしてだろう、高野さんにはいつも俺の行動を読まれているみたいだ。
今日だって、仕事を終えて俺と一緒に帰ろうとする高野さんが、途中で横澤さんと会って足を止めた隙にさっさと帰宅した筈なのに、どうして玄関先で鉢合わせする羽目になるんだ。確かに途中のコンビニで弁当を買ったり、図書館に寄ったりして時間を食ったけれど、俺がいつ帰宅するかなんて分からない筈なのに。
首を傾げていたら、耳元でくすりと笑われた。

「お前は分かりやすいんだよ」
「な、何が……」
「横澤と話し込んだくらいで妬くな。俺はお前のことが好きだって言ってるだろ。…まあ、妬いてくれるのは嬉しいんだけど?」

顔を向き合わせてきた高野さんは、にやりと笑う。好き、という言葉に、頭がかっと熱くなって、泣きたくなった。
高野さんの顔が近付いてくる。真っ黒な瞳に映る俺は、やっぱり涙ぐんだ間抜け面だった。

長い腕は伸びてくる。何かを探るように、自分の存在を主張するかのように。
俺を包むこの腕は、やっと見つけたと言わんばかりに優しく強く掻き抱く。あんまり強い力だから、上体が軽くなって足元から浮いたみたいだった。

ああ、もしも、この人とこのまま闇に堕ちたなら。
高野さんはこの腕の力を緩めず、離さないでいてくれるのかな。
そんな馬鹿なことが頭を過ぎるくらいには、俺は高野さんに惑わされていた。











2012.04.01
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