いつものように合い鍵を使って吉野の家に入り、まだ寝ている家主を起こさないよう静かに掃除機をかけ、暫く溜まっていた洗濯物を片付け、数日分の食事の作り置きをする。 …この一連の行為。恋人というよりは、まるで家政婦のようだ。しかし報酬が貰えるだけ、家政婦の方が条件がいいのかもしれない。 俺のは仕事というより義務に近い。水をやらなければ枯れてしまう植物のように、吉野は世話をしなければずぶずぶと堕落した生活環境に埋もれてしまう。 だが付き合い始める前の吉野はこれらの家事を俺にほぼ無償でさせていたことを思えば、俺達の関係に恋人という言葉が付け加えられてから、ほんの少しは遠慮するようになったり自分から家事をしようと試みるようにはなったのだから、これでも進歩はしているのだ。一応。 ―――まあ、吉野の世話を焼くことの報酬も、ないことはないのだけれど。 一通りの家事を終えて寝室に入ると、大きなベッドの真ん中で丸まっている影が一つ、寝息を立てていた。入稿直後の青白い顔から血色の戻ってきた吉野が、今はすやすやと気持ち良さそうに眠っている。いつ見ても呑気な寝顔だ。 時々こうして寝顔を見てるなんて、本人に知られたらまず文句を言われそうだ。引かれるかもしれない。けれど、そんな締まりのない顔を見るだけで、仕事や家事でくたくたになった体も僅かに軽くなる心地がするのだから、これくらいは許して欲しい。 ベッドの脇に腰掛けて、髪に触れる。柔らかい髪の毛を梳くと、くすぐったそうに寝返りを打って仰向けになった。 一度寝た吉野は、なかなか起きない。それをいいことに、もう少しだけ頭を撫でてみる。 「……ん……」 しまった、起こしてしまったか。吉野が身じろぎをしたので、咄嗟に手を引く。だが、瞼は閉じられたまま開く気配がなく、代わりにゆっくりと唇が動いた。 「………トリ………」 滑舌の悪い寝言の内容は、俺の愛称。 吉野は、ふにゃりと笑みを浮かべてから、また一定のリズムで寝息を刻み出した。それに反比例して、俺の心音は少し乱れる。 まさか寝言で呼ばれるとは思わなかった。しかし、一体どんな夢を見ているのやら。柔らかい頬を緩めているから、きっと良い夢なのだろう。つられて俺の口の端も上がる。 付き合う以前は、こんな風に無邪気に名前を呼ばれる度に、少し苦しかった。吉野が俺に寄せる好意はあくまで幼なじみとしてのもので、俺の想いとは種類が違う。それが後ろめたくて、申し訳なくて、でもどうにも出来なくて。 けれど今は、同じ気持ちを向けてくれているとわかっているから、ただただ嬉しい。付き合い始めてから一年と少し。些細な喧嘩も沢山したし、未だに中学生かのように不器用な駆け引きしか出来ないながらも、それくらいには自惚れている。 ふと枕元の時計を見ると、いつの間にか時間が経っていたと気付く。いつまでもこうしていたい気もするけれど、いつまでもこうしていても仕方ない。持ち帰った仕事でもするか。 立ち上がる前に、まだ起きる気配はない吉野の前髪をかきあげて、無防備な額をさらす。そっと口付けて、静かに呟いた。 「おやすみ」 既に寝入っている奴に言う台詞ではないが、他に言う言葉が浮かばなかった。こいつの良い夢が、もう暫く続きますように。 去り際に振り返ると、俺の声が聞こえていたのか分からないが、吉野がむにゃむにゃとまた顔を緩ませる。そんな吉野が、どうしようもなく愛おしかった。 企画「丸川ハットリくん」に捧げます。 2012.03 |